A面 前編
重そうなハンマーをしっかりと握りしめ、自動車ほどの巨大な虫に立ち向かっていく金髪少女の画は鮮烈だった。細い腕で豪快にハンマーを振り回し、最後には虫の頭上に叩きつけた光景にはまるで窮屈な生活を全てぶち壊してくれるかのような爽快感を覚えた。
突然少女はこちらを振り返る。俺は顔を向き直し、往来の流れに合わせてその場を離れた。
あの手の生物を目にするのはこれで何度目だ。始めの内は怯えていた気もするが、今では横を通り過ぎていけるようになった。虫が現れるときには、必ずそれを駆除する者も現れるからだ。
「今回の掃除屋は優秀だったな。見た限り一度も攻撃を許していなかった」
「そうだな」
あの世界は俺と信長にしか見えていない。どんなに虫が叫んでも近づいても、みんな何事もなかったように横切っていく。だから俺も周りに合わせた。余計なことに巻き込まれたくないからだ。
そうして十何年と今日まで生きてきた。それで今の瞬間まで湧き上がるような喜びを代償に深い悲しみを負わず生きられている。この生き方はたとえ正しくはなくとも安らかだ。俺個人としてはずっとこのまま生きていきたいと考えているが、この話になると決まって信長は反抗してくる。
「いいか明智よ。人生とは挑戦してこそ輝くのだ。せっかく五体満足に動かせるのなら野望の一つや二つ語らぬか」
「挑戦した結果が火あぶりにされて生首じゃ説得力がねぇよ。それより研究室では話しかけてくるなよ」
「このうつけ者が。儂の話を適当に聞き流しおって……」
研究室はいつも静かだ。広い部屋なのに人はいつも片手で数える程度。大半の連中はレポート提出日に駆けこむくらいにしか使わないからだ。こんな風情を眺めると大学という機関の空っぽさが伺えて時々落ち込む。しかし一人だけ、毎日顔を出して研究活動に勤しむ先輩がいる。
「明智君おはよう」
扉を開けると叶芽先輩が挨拶をしてくれた。俺は先輩に会釈をして周りを見渡す。今日は叶芽先輩以外誰もいないようだ。俺は荷物を置いて先輩に話しかけた。
「先輩、研究の方はどうですか」
「あんまり順調ではないわね。ちょっと見てみる」
「はい、参考にさせていただきます」
叶芽先輩はカメラアプリの開発研究をしている。難しいことは分からないが、倍率が変わっても綺麗な写真を撮影できるように研究しているらしい。俺はまだ何の研究をするか決まっていないため、いつも先輩の手伝いをする代わりに相談に乗ってもらっている。
「研究内容は決まりそうかな」
「まだ思いつかないですね。俺も先輩みたいに写真関係で何かやってみようかなとは考えているんですけど……」
正直、俺は毎日真面目に勉強するタイプではない。どっちかと言えばレポート提出日に適当にレポートを出して帰る大半の連中組だ。それなのに提出日以外にも研究室に来ているのは、叶芽先輩がいるからだ。
「……まあ色々と試してみたら自分が何をしたいかも見えてくると思うから、今は焦らずゆっくり考えればいいと思うわ。何事も挑戦よ」
「そうですね、ありがとうございます」
「それじゃ私はご飯食べてくるけど、明智君も一緒に来る」
「いえ、俺は少し研究について考えてみたいんでここに残っています」
「そっか。頑張ってね」
叶芽先輩は笑顔を残して研究室を立ち去っていった。
少し胸の内を語るなら俺もついていきたかった。先輩から食事の誘いなんてまたとない好機。けれど突然の申し出に思わず断ってしまった。
「おい。儂と話していたときは挑戦なんてと馬鹿にしておったのにどういうことだ」
「今お前と話す気分じゃないから一人にしてくれ」
「いいや儂は下がらぬぞ。貴様女子相手だからと弛みおって……」
「好きな人なんだからしょうがないだろ」
そう言うと信長の勢いが止まった。どうしたのかと顔を上げると信長は神妙な面持ちでこちらを見ている。
「……そんなに好きなら何故毎日来ないのだ。あの娘が毎日ここに来ているのは知っているだろう」
「毎日来てたら周りに面倒事押しつけられるかもしれないだろ。それに毎日先輩に会ってても……間が持たねぇよ」
「お前はどこまでもうつけだな」
生首に呆れられても困るってもんだ。
勢いとはいえ先輩にここに残っていると言ってしまった手前、勝手に帰るのも気が重い。ここは不本意ではあるが信長の話に付き合いながら先輩を待つことにした。
「ところで明智、貴様今回の掃除屋のことをどう見る」
信長は巨大な虫を退治する人達のことを『掃除屋』と呼び、掃除屋と出会う度にこうして俺に感想を尋ねてくる。それに対していつもなら凄い、カッコいいなどと雑に返しているのだが、今回はそんなちゃちな言葉だけであの衝撃を語りたくなかった。
「……かなり若かった気がする。それに、今までの人より動きが良いって感じだったかな」
「今回は貴様でも一目置いたか。そう、今までの奴らよりあの女子は強い。あれに狙われたら流石の儂でも一筋縄ではいかぬかもな」
信長は過去に何度か掃除屋に狙われている。それは恐らく、巨大な虫を退治するのと同じ理由だろう。信長はあちら側の世界の人間だ。俺にしか見えなく、声も聞こえない。本人は自らを『幽霊』と名乗っているくらいだ。
しかし素直に退治される奴でもなく、こいつは雁首一つの身でありながらこれまで何人もの掃除屋に一泡吹かせ平然とした表情で生還してきた。
そんなこいつが掃除屋を素直に褒めたのは初めてだ。掃除屋の中でも相当の手練れなんだろうとは感じていたが、それほどなのかと再認識する。
「じゃあ今度こそ退治されるといい――」
「明智君まだ残っているわね」
信長に悪態を吐こうとした瞬間、叶芽先輩が駆けながら帰ってきた。何やら俺に用事があるらしい。
「実は私、望遠レンズを買ったの。それを試してみたいから一緒にテラスまで行かないかな」
「い、行きます。行かせてください」
一度ならず二度も思いもよらぬ奇跡。さっきの後悔を踏まえて少し前のめりで返事してしまったが、何にしても今度はチャンスを掴むことができた。
信長も絶対逃すなと目配せを送っている。俺は復活した喜びを噛みしめながら先輩と一緒にテラスへ向かった。
「いい景色ね。これならこのカメラを使うのも楽しそう」
ご飯を食べた後だからか先輩の機嫌がさっきよりも良くなっている気がする。告白、とまでいくのには早すぎるが思い出くらいは作りたい。思い出も作れないならせめて連絡先くらい。
自分の気持ちがいつもより高揚しているのが分かる。先輩と研究室以外で話すのは初めてだが、まさか場所が少し変わるくらいでこんなに動揺するとは思いもしなかった。言葉に表すなら特別感だろうか。そんなものを感じてドキドキする。
「高かっただけあって綺麗に映るわ。明智君も覗いてみる」
「え、あ、えっと」
空気に呑まれ過ぎて言葉がすぐに出なかった。もう少し冷静にならねば、心にそう念じながら先輩からカメラを受け取る。
望遠レンズから覗く景色は細かいところまでよく見える。向かいの窓で楽しく笑っている人達、運動部がサボって閑散としている運動場。何気ない光景がレンズを通して眺めていると妙に楽しく感じた。先輩はカメラのこんなところに惹かれているのかななんて考えながら視線を移すと、先輩は曇った表情を浮かべていた。
「私の研究でもこれぐらい綺麗な景色を撮れるようになるといいんだけどね……」
不意の先輩の弱音に少し驚いた。弱音を吐いたことに驚いたんじゃない。俺に対して不安を打ち明けてくれたのが嬉しくて驚いたのだ。しかし人の悩みに喜んでいてはバチが当たりそうだ。俺はカメラに視線を戻して気持ちを落ち着かせる。
「先輩ならできますよ。俺も先輩の研究が上手くいくように祈っています」
「ありがとう。でも明智君は私のことより自分の研究したいものを見つけないとね」
「そうですね……」
手厳しい言葉に苦笑しながらも俺は漫然とカメラを覗き続ける。すると往来が少ない小道の方にまた幽霊らしき巨大な虫を見つけた。形としてはアシナガグモが一番近いか。誰かと戦っているようでクモの視線の先を辿った後、俺はカメラから視線を外した。
「先輩、ちょっと用事思い出して……すみません俺帰ります」
俺に先輩にカメラを返し、急いで建物を降りていく。早く駆けつけなければ、そう思っている俺の隣で信長がどうしたのだと話しかけてきた。
「お前があの場を離れるとは……何を見た」
「いつも人気の無い通りの方で今朝の掃除屋の子が巨大なクモみたいなやつに襲われていた。それもかなりヤバそうな感じだ」
「なんだと。あの女子はかなりの強者だぞ。お前の見間違いでは――」
「でも確かに見たんだ。もし見間違いだったんならそれでいいが、そうじゃなかったら……」
「どうするつもりだ」
建物の外へ出たとき、信長のその言葉で俺は立ち止まった。
「もし女子がやられていたら、助けにでも行くつもりか。それは向こうの世界へ足を踏み入れるということだぞ。二度とこちら側の世界には帰って来れぬかもしれない。たとえ帰って来られても通り過ぎていられたはずの厄介事が次から次へと降りかかってくるかもしれない。お前はそれでも行くと言うのか。面倒事の嫌いなお前がか」
「確かに俺は面倒なことは嫌いだよ。でもな、だけどな……」
信長にどれだけ釘を刺されようと、俺の心は既に決まっていた。
「取り返しのつかないことはもっと嫌いなんだよ」
何年振りに怒鳴ったんだろう。自分で驚いてしまった。
恥ずかしさはあったが、後悔はない。俺はその勢いのまま信長を睨みつけて去ろうとした。すると信長は待て、と俺を呼び止めた。
「人生は挑戦してこそ輝く。貴様が輝く瞬間を何年待ったことか……」
信長は笑っていた。笑っているのに、いつもと何か違う。凄みを纏って俺を見た。
「行くぞ明智。だがやるからには勝利しか許さぬぞ」
いつも身近にいたから忘れていた。こいつは、いやこの男は体を失おうとやはり第六天魔王と謳われた男、織田信長なのだと。
「……最初から乗り気ならそう言えよな」