第8節 美佳の転生
――日本、晩秋のある朝
それはちょうど田室 十真の魂が、この世を後にした翌朝のこと。
郊外の住宅地に建つ、とある家のリビングルーム、3人掛けのソファに一人の女が寝転んでいた。
彼女の名前は美佳(49)、3歳年上の夫との間に二人の子供がいる。
上は高2の女、下は中2の男だ。
美佳は、夫と二人の子供を、職場や学校へ送り出して、ようやく一息ついたところだった。家族の目に決して触れることのない隠し場所から煙草と灰皿を出すと、スマホを見ながらソファに寝転びメビウスに火をつけた。こうしてリビングで煙草を吸うのは気持ちいいものなのだが、家族がうるさい。子供は当然だが、夫も煙草は吸わない。後で消臭スプレーしておけば大丈夫だが、今朝はそれも面倒くさいと美佳は考えていた。
誰がなんと言おうとも、彼女は今、ここで、吸いたいのだ。
「あ~あ、あと、10日かあ…」
美佳は残り10日に迫った誕生日を憂い、誰に遠慮することなく大きな溜息をついた。とうとう、40代までが終わろうとしている。
美佳は自分の腹をつまんでいた。いつの頃からか癖になった仕草だ。ただ、今では摘むが掴むに変わっていた。自分の腹は掴めるようになったが、代わりに、人生におけるチャンスを掴めなくなっていることに気づいていた。
以前なら簡単に通ったはずのスーパーのレジのパートに採用されなかった。
子供二人が小学校に上がった時に2年ほどパート勤めをした同じスーパーなのに、だ。当時は時給が安かったので適当な理由を付けて辞めたのだが、最近、求人の張り紙を見たら、昨今の人手不足の影響だろう、時給がかなりアップしていた。これならば復帰しても良いなと申し込んだら、結果が不採用となったのだ。
あのときは、自分の都合で辞めたが、それまで職場での人間関係が悪かったわけではないし、能力にも問題はなかったはずだ。
あの時と違うといえば…
…年齢だけだ。
美佳は二本目のメビウスに火をつけた。
YouTubeで新しい猫や犬の動画でもないかと探した。赤ん坊の動画はあまり好きじゃない。やがて、あんな風になると分かっている。美佳は今朝の子供達の態度を思い出して、また、頭にきた。
子供たちは母親を何だと思っているのだろう。都合の良い家政婦だとでも思っているのだろうか?
ろくに時間割も教えてくれないくせに、深夜に出した体操服が、今朝には洗濯済となって畳まれており、朝晩はお腹が空いたときには食事の用意ができていて、常に掃除が行き届いているのは当たり前だと思っている。
もちろん、美佳にもそう信じていた時期はあった。
彼女にとって、家族のための家事がむしろ喜びだった時期もあった。しかし、家族がそれを当たり前のサービスと感じ、感謝の気持ちが無くなった時、美佳の気持ちは切れた。
夫や子供から「ありがとう」という言葉を聞かなくなって、ずい分月日が流れている気がする。
家族は誰一人、誉めてもくれないし、感謝もしてくれないが、それでも家事は今までの通りのレベルを維持している。
そんな自分を誉めてやりたかった、例え、それが自分だけだとしても。
特に興味を引く動画は無いな、と思ったとき、急にスマホの画面が落ちて暗くなった。
「くそッ、こんな時に」
美佳は毒づいたが、いくら文句を言ってもスマホが治るわけではない。重い身体を動かして、寝室の枕元に置いてある充電器を取りに行った。コネクタをスマホに刺し、スマホの電源を入れると、幸いスマホは起動した。
しかし、パスコードを入力してメニュー画面を見たとき、美佳は叫んだ。
「なによこれ!」
メニューにあるはずのアイコンが全て消えていた。ただ一つあったのは、「リィンカーネ」という見覚えのないアイコンだけだった。何でこんなことになっているんだろう、これはコンピュータウィルスか何かではないかと思いながらも、美佳はそのアイコンをタップした。どうせ他に手はない。後は携帯ショップにもって行くしかないのだ。
キャラクター設定のような画面が現れた。
画面には「転生実行」と表示されている。よくわからないが、先に進めることにする。
『実行するには、20フッセが必要です。現在37フッセが使用できます』
どうやら使用できそうだ。
『質問1. 転生先の時代は?
・現在 ・過去 ・未来 ・おまかせ』
美佳はなんでもいいやと思いながら、おまかせを選んだ。
『質問2. 転生先の場所は?
・日本 ・外国 ・異世界』
美佳は異世界を選んだ。日本や外国では面白みがない。
『質問3. 今の記憶は引き継ぎますか?
・引き継ぐ ・引き継がない』
選択するなら引き継がなくては面白くない。「引き継ぐ」を選んだ。
『質問4. 強さは?
・普通(努力次第) ・強い ・人類最強』
別に異世界で戦いたいわけではないが、弱いのはいやだ、人類最強を選択した。
『質問5. 好感度は?
・1から100までの数字で指定』
だいたい、こういうゲームで100とか選ぶと逆効果になるのがお約束だ。キモい豚のような男にもててもしょうがないので、50を選んだ。
『質問6. 財力は?
・1から100までの数字で指定』
これは80にした、こういう値も大き過ぎないほうがいい。
『質問7. 魔力は?
・1から100までの数字で指定』
これも同じ理由で80にした。
最後に確認画面が表れた。細かい文字がびっしりと書いてあった。まるで生命保険の約款のようだ。
確認ボタンを前に、美佳の手が止まった。
(もしかして、マジ…?)
彼女は、もし、これが本物なら何が起こるだろうかと考えた。いやいや、本物であるはずがない。せいぜい新手の性格診断か何かだろう。画面のデザインもイマイチいけていない気がする。
それでも美佳はためらった。もし、これが本物なら家族を捨てることになる。
(どうする?)
美佳は自問自答した。
いや、自分が家族を捨てるどうこう言う前に、自分は既に家族から顧みられていないのではないか?
もし、これが本物であっても構わないし、ニセモノなら起きて洗い物をしよう。
美佳はボタンをタップした。
数秒すると、彼女の身体に異変が起きた。
世界が急激に回転し始めた。目眩のようだが、理由がわからない。
「何が起こったの?」
――高い山の頂上から転がされているみたいだ
目が回るのと、岩が身体中にぶつかって痛くてしょうがない。
「痛い、痛い、痛いよう」
大声で叫ばずにいられなかった。身体が坂を転がり落ちていき、止まらない。
「やめて、やめ…」
既に身体中の骨が折れているような感覚だ。
もうだめだ。
まるで今の自分という材料を削って、その中から新しい自分を削り出すようだった。
そんな考えが頭に浮かんだ途端、
美佳の意識が切れ、全てが真っ暗になった。
途切れ途切れの意識の中、複数人の会話が聞こえてきた。何か歓声のようにも聞こえる。
急に周囲が眩しくなった。目など開けていられない眩しさに加えて、身体中が痛くて仕方ない、美佳は力いっぱい泣いた。
「おめでとうございます。男の子です」女の声がした。
「元気な産声だ。ようやくこの家に男が…でかした、よくがんばった」と興奮した男の声がした。
「…抱かせて」別の女の声がした。
聞きなれない言葉だが意味は理解できた。
右手に何か当たったので反射的に握っていた。美佳はそれが大きな指だとわかった。
(私、いま赤ちゃんなの?)
うまく動かせない身体で美佳は考えた。
(じゃあ、本当に生まれ変わったんだ。さっきまで主婦をやってたのに…あれ本物だったんだ。私、男みたいだけど、性別は男を選んだかな?)
しかし、美佳は急に眠くなった。今まで感じたことのないほどの強い眠気だ。
これほどの眠気には勝てそうにない、美佳は逆らわずに目を閉じた。
(まあいいや、寝よう)