第2節 転生マッチングアプリ「リィンカーネ」
――晩秋のある夜
夕方から降りだした雨は激しくはなかったが、さりとて、傘なしで歩くにはこの季節の雨は冷たかった。繁華街からは酔ったサラリーマンたちが急ぎ足で駅に向かっている。そろそろ終電の時間が近づいていた。
そんな彼らとは対照的に、道端に男が一人で座り込んでいた。冷たい雨も終電もこの男には関係ないように見える。
男の名は田室 十真、年齢29歳、職業は会社員、独身で一人暮らし、恋人はいない。
会社の宴会帰り、十真は酔いつぶれていた。誰にでも酔い潰れるほど飲みたいときはある、しかし、この日の十真には悪いことが重なっていた。
まず、財布が無い。スーツの左ポケットにあるはずのそれが無い。落としたのか、忘れたのか、盗られたかすらもわからない。普通ならこれで酔いなどいっぺんに冷めるはずだが、十真は別のことで頭がいっぱいになっていた。
『十真先輩、これからもご指導よろしくお願いします』
Nの言葉を思い出して、十真は舌打ちをした。
Nは十真の3年後輩であるが、今回の人事異動で十真を抜き課長への昇進が決まった。これはNの昇進祝いを兼ねたさっきの宴会でNが十真に言った言葉である。
こういう言葉をスラッと言えるから課長になれるのだし、これを聞いてイラッと来るようだから、こんなところで酔いつぶれているのだと十真は思った。
今何時だ?
彼はスマホを取り出そうとしたが、今度はスマホがいつもの胸ポケットになかった。財布に続いてスマホまで無くしたのかと思うと、これから取らなければならない手続きが煩わしく面倒臭かった。
来月からはNをN課長と役職付けで呼ぶ、考えるとこれも面倒臭い。
十真は家に帰るのも、何もかも、これからすること全てが面倒臭くなっていた。
思えばここ何年か、十真にはゲーム以外に楽しいと思えることがなかった。つまり、この数年、彼にとって仕事は全く楽しいものではなかったのだ。
十真は気づいていないが、見ていないようで、人は見ているものだ。彼のやる気のなさは露呈しており、社内における彼の昇進の芽は既に絶たれていた。十真自身がその事実に気づくにはまだ数年かかるだろうが、気づいたときには手遅れで、現状を甘んじて受け入れるか、辞表を書く以外の選択肢しかないことに気づくだろう。
「ふー、何やってんだろうな、俺」
財布もなく、スマホもない。助けを求めようにも連絡がとれなければどうしようもない。
ようやく、事態の深刻さに気づくと、彼はポケットやカバンを探った。無くしたつもりのものが出てくることもままあるからだ。すると、案の定、ポケットにスマホがあった。
大きな安堵と共にスマホを取り出して、パスコードを入力する。開いたメニューを見て、彼は一段と落ち込んだ。
違う、俺のスマホじゃない。
彼の目には映っていたのは、全く違う画面だった。それに手に取った感覚も少し違っている。よく見ると、スマホの機種が違っていた。
何で他のスマホなんか持っているんだ。どこかに預けたわけでもないのだから、取り違えたなんてことは有り得ない。
しかし、それにしてはパスコードが同じだ。
酔って触覚がおかしくなっているのか、そうでなければ、パスコードが同じなんてことはありえない。そう思って画面を見直すと、雨の水滴がスマホの画面に落ちた。
十真はやばいやばいと呟きながら、覚束ない足取りで立ち上がると、雨を避けられる場所によろよろと逃げ込んだ。十真にとっては自分が濡れることよりも、スマホが濡れることの方が大事である。
彼はスマホのメニュー画面を見直すと、やはり自分のスマホのような気がしてきた。パスコードは自分のものだったからだ。とりあえず誰かに電話しようと思い、電話帳を操作するが、アドレスが一件もない。電話番号を直接入力しようと思ったが、電話番号が全く思い出せなかった。そもそも覚えている電話番号などないのだ。
それによく見ると、スマホにはアプリが殆ど入っていないことにも気づいた。
スマホの初期化でもしてしまったのだろうか?誰かに悪戯でもされたのだろうか?
困ったことになったと思いながら見ると、アプリが一つあった。
――リィンカーネ
彼は反射的にアプリを起動していた。
どんなゲームだろう、と思う間もなく、キャラクター設定のような画面が現れたので、酔った勢いのまま設定を行う。
画面下には「転生実行」と表示されている。RPGだろうか、まあ、ゲームはこれしかないようだから、やってみる事にする。
『実行するには、20フッセが必要です。現在27フッセが使用できます』
どうやら使用できるようだと十真は思った。フッセとはポイントのようなものだろう。残り少なくなるが構うことは無い、使ってしまえ。
『質問1. 転生先の時代は?
・現在 ・過去 ・未来 ・おまかせ』
なんでもいいやと言いながら、彼はおまかせを選んだ。質問に次々と答えていけばできる形式のようだ。
『質問2. 転生先の場所は?
・日本 ・外国 ・異世界』
彼は異世界を選ぶ。
『質問3. 今の記憶は引き継ぎますか?
・引き継ぐ ・引き継がない』
選択するなら引き継ぐに決まっているだろう。転生するなら前世の記憶がなくては面白くない。
『質問4. 強さは?
・普通(努力次第) ・強い ・人類最強』
もちろん、人類最強がいいに決まってるだろうと、十真は呟いた。
『質問5. 好感度は?
・1から100までの数字で指定』
意味がわからなかったので、詳細をタップしてみた。どうやら、数字はパーセントの表示であり、転生先にいる恋愛対象となる性別の何パーセントが自分に好意を持つのか決められるらしい。
要は女からどれくらいもてるのかということだ、じゃあ100パーセントがいい。
『質問6. 財力は?
・1から100までの数字で指定』
これも100、詳細はタップしなくていい、彼が選ぶのは決まっていた。
『質問7. 魔力は?
・1から100までの数字で指定』
これも100だろう。
最後に確認画面が表れた。細かい文字がびっしりと書いてあったが、彼は読まずに確認をタップした。読むやつなんているだろうか?どうせお決まりの文句だろう。
数秒後、彼の身体に異変が起きる。
十真の見る世界が急激に回転し始めた。これは酔いからくるものではない、全く違う理由から来るものだった。
「何が起こってるんだ?」
そう呟いたのが、彼の人生における最後の言葉となった。どんなアプリなのか知らないまま、彼はアプリを動かし、その結果、十真の心臓は鼓動を止めた。
そのことに気づかぬまま、彼の魂はこの世を後にした。