第5節 高校男子の小さなミッション
――7月22日、夏休みの午後
蜂宮 耕平の自室を桜井 遊美子が訪れていた。
「耕平君って、本当によく勉強してるね、ちょっとガリ勉すぎない?」
桜井 遊美子が実に感心したように言う。実際、彼女は蜂宮 耕平の勉強に取り組む姿勢に心底感心していた。
「そうかな、これだけの猛暑だと、外で遊ぶのは夕方じゃないと無理だろう。でも、勉強は今のうちからでも始めておくに越したことはないからさ、俺は覚えも悪いし、毎日コツコツやるしかないからね」
真正面から褒められたことに、少し照れながら彼は答えた。
「もう志望大学とか決めてるの?」
二人が通うのはこの地方で一番の進学高だ。他の高校生と比べれば、大学進学についても関心は高い。
「絶対、N大より上かな、決めてるのはそれだけ」
「N大より上?なんか理由あるの?」
N大は悪い大学でもないが、就職で特別優遇されるほどでもない。中の上という位置づけだ。
では、なぜ耕平がN大の名前を出したのか?
理由は簡単だった。耕平が「前の人生」で卒業した大学がN大だったからである。だが、その理由を遊美子に話してもわかるはずがない。
「いや別に無いけど」
だから、答えは漫然としたものになる。
「つまり、N大が最低ラインってことだね」
確かにこの高校からN大というのはあまりパッとしない進学先だ。
「最低?そんなことないぞ、N大の学生は結構やる気があるし、就職課もしっかりしているから」
「えっ、もう就職まで考えてるの?」
進学先の就職課まで考えているのは、高校二年生としてはかなりの少数派に違いない。
「いや、なんか、そう人から聞いた…だけ」
また、耕平の声が尻すぼみになる。
最低、という単語に忘れていたはずの愛校心が反応してしまったことに、耕平は気づいた。ふと、大学時代のことを思い出す。あまり勉強も友人関係もアルバイトも誇れたものは何一つなかった。
耕平はこれを全て塗り替えたかった。
「さすが、耕平君だね。そこまで考えてるなんて」
遊美子が感心の声をあげる。彼女は事あるごとに彼に感心することが多かった。
彼女とは春休みにクラスの何人かでカラオケに行ってから仲良くなり、こうして会う機会が増えていた。
今日は18時半から近くで中規模の花火大会があるから一緒に行こう、といつも遊ぶ友人にメッセージを送信したのだが、その時、耕平はもし時間を持て余すようだったら、一緒に勉強しようと付け加えるのを忘れなかった。
生まれ変わった耕平の考えとしては、そこで勉強に付き合ってくれるのが良い友達で、それに全く乗ってこない友人は、イマイチと分類して、距離を調整するようにしていた。
今日、真っ先にやってきたのは遊美子だった。
暑い中、午後2時には家に来て、かれこれ2時間はエアコンのよく効いた部屋の中、ローテーブルを挟んで勉強をしている。
つまり、彼女は良い友人ということになるのだが、耕平は少し警戒していた。
耕平には前世における32歳までの記憶と経験がある。
プレイボーイではないが、付き合った女性は複数いたし、ある女性にはのめり込んで人生を棒に振った経験もある。だから、遊美子が自分に特別な関心を持っていることには早くから気づいていた。
(多分、粉をかければ落とせるだろうな)
32歳の耕平の目で見れば、女子高生の遊美子と付き合うのも悪くない。
だが、高校二年生男子の視点から考え直すと、そんな面倒臭いことはしたくなかった。遊美子のことは好きではあったが、それは友人としてのもので、恋愛感情までは抱いていなかった。少なくとも現時点では。
だが、そんな相手でも付き合えば、男の慣性の法則が働くものだ。
手を繋ぎたくなって、キスをしたくなって、その先まで到達したくなるだろう。
耕平の前世の経験上、こういうことは本気で好きでない相手の方が、気負いの無い分、そういう関係を持つまでの過程が簡単だともわかっていた。
そして、それがつまらないことだとも耕平にはわかっていた。
――むしろ、上手に童貞を楽しまなくては
それを考えると、まだ、特定の女子と付き合うのは危険だ。
清らかな交際ができるのは高校生までだ、大学生になると少し難しくなる。だから、こういう微妙な関係をダラダラと続けるのがいいのだ。どうせ、高校卒業すればそうは行かなくなる。
そんな、余計なことを考えていると、玄関のインターフォンが鳴った。
「深ちゃんか、小笹君かな」
気になる男子の部屋で2時間も二人きりでいることで遊美子は息苦しさを感じていた。助かった、という表情が表に出た。そして、耕平はそれを見逃さなかった。
「じゃ、見てくるよ」
耕平は立ち上がると、自室を出て階段を下りた。
できることなら、耕平はチートで無双な特殊能力を以ってファンタジー世界に転生し、気の合う仲間(可愛い女の子が複数)とパーティーを組んで、世界を救って世間に称賛され、国造りや子作りに勤しみたかった…のようだが、冷静に考えるとそんなポジションの空きなど滅多に無いことくらいわかりそうなものだ。
結局、転生マッチングアプリ「リィンカーネ」は耕平を同じ世界の比較的近所に転生させてしまった。
それには華のかけらも無かったが、転生後の世界を一から勉強する手間はかからないで済んだ。
この勝手の分かった世界で、大学進学と清らかな恋愛という小さなミッションを成功させる。それが自分の当面の目的だと思うと、耕平は少し物足りなさを感じ始めていた。