第2節 高校男子は20代を顧みる
――高校の体育館、午前11時45分
藤安 仁子は、女子バレーボール部の春休みの練習を終え、体育館の後片付けをしているとき、向かいの校舎の二階から誰かがこちらを伺っていることに気づいた。充実した練習の余韻を乱す闖入者に仁子は呪詛の言葉を吐く。
「だっるいな~今日もいるぅ」
仁子は、それが蜂宮 耕平であると見る前から分かっていた。彼の性格からすれば、連絡手段を全てブロックすれば、直接コンタクトを試みてくることは想定の範囲内である。同じ高校というのはこんなとき面倒だと彼女は考えた。
「ねえ、ヨミぃ」
同じ部活の小代美に、仁子は声をかけた。小代美は友人が指差した先を見て、仁子が何を言いたいのかわかった。
「ハイ、ハイ、今日もそうするのね」
自分一人しかいない生徒会室から、耕平は、諦めと未練が混ざった気持ちで、体育館の出入口を眺めていた。
いや、未練など全くない。
ただ、連絡手段をいきなり遮断された理由を聞きたいだけだ。決してストーカーなどではない、そう自分で言い聞かせる。
そもそも、自分は暴力も暴言も仁子に振るった覚えは無いのだ。
「また、あのデカ女かよ」
ようやく出てきた仁子が身長の高い女生徒と一緒にいるのを見つけ、耕平は嘆息した。平生だ、身長180センチメートルを超え、性格はかなりキツい、こういう微妙な話をするとき、勝手に割って入ってきて話を掻き回す。
百害あって一利なしの相当ウザいタイプだ。
「わざとだよな…」
耕平が、仁子から平生の話を聞いたのは一度だけ、それほど上手くないのに身長だけでバレーをやっていると不満を聞かされたことがあった。そんな相手と、仁子はこの三日間、部活後、一緒に下校している。
あきらかに自分を近づけさせないようにするためだ。
(この分では、春休み中に仁子と直接話すのは難しいかも知れない)
そう思いながらも、耕平は仁子が突然自分と連絡を絶った理由を知らずに済ますわけにはいかなかった。
校門を出る仁子の窓から後姿を見送った後、耕平は形ばかり生徒会の仕事をする、とはいっても過去の書類整理だ。生徒会では3年以上経った書類は廃棄するのだが、廃棄する前にスキャナーで取って、DVDに保存しておくことになっている。それは手間こそかかるが、難しい仕事ではない。
青春真っ盛りの高校一年生男子が春休みに出てきてまでやる必要はないし、それほど急ぐ仕事でもない。なので、誰かに非難されない程度に仕事を終えると、耕平は学校を後にした。
学校から徒歩12分、彼は最寄り駅に着くと、自宅とは反対方向の電車に乗り、3つ目の駅で降りた。運賃は片道220円、往復で440円になる。高校生にとって決して安い金額ではない。だが、耕平はこんな気分に陥ったとき、ここを訪れないわけには行かなかった。
駅に着くと、彼は真っ先にトイレに向かった。そこで彼は眼鏡をかけ、帽子を被り、マスクをする。かなり怪しい姿だが、天気予報で必ず花粉情報を伝えるこの季節であれば、それほど奇異には映らない。手袋もつけるがこれは目立つのでポケットに手をいれる。
改札を抜け、勝手の知った商店街を10分ほど歩く。前回来たときよりもシャッターの下りた店舗が増えたような気がした、何度が行ったことのある定食屋も閉店していた。少し残念だが、あの値段であの味では仕方ないとも考えた。
そして、耕平は目的の場所に着いた。
見上げた先には築28年の7階建てのマンションがあった。
彼はポケットから鍵を取り出すと、マンションのオートロックを開け、中に入った。管理人室に人のいる気配はない。三年経っても管理人は不在のままのようだ。もう管理人を置く気もないのだろう。
エレベーターに乗る。監視カメラに顔が映らないように俯いて乗る。
6階のボタンを押し、6階で降りる。だが、降りる間際に必ず1階のボタンを押す。そうしないと6階で止まったままになるからだ。
エレベーターが下に動き出したのを確認すると、彼は非常階段で4階まで降り、最終目的地である40X号室の前に立った。
その部屋のドアには、電気やガスの新規申込の案内書が、埃をかぶったままぶら下げられていた。今も事故物件のまま、次の入居者は決まらないらしい。
そんなことを考えながら、耕平は素早く鍵を開け室内に入る。
錆びた電気コンロ、長年使われず黄ばんだ小さな冷蔵庫、目地が茶色に変色したユニットバス、そんな古びた設備を横目に三歩で通り過ぎ、6畳の洋間に入ると、洗濯物をかろうじて干せるバルコニーが見えた。
単身者向け賃貸マンションとしては、標準的な間取りである1Kの部屋、ここは24歳から34歳まで彼が暮らした部屋である。この部屋で暮らした最後の年、彼は失意の真っ只中にあった。3年付き合っていた彼女にフラれ、不況を理由に会社を退職させられたのである。
次の職場を探す気力が沸かないまま、彼は無為に数ヶ月を過ごしたが、結婚資金として貯めていた貯金があったので、しばらくの間は生活の問題はなかった。
しかし、貯金は無限ではない、金を使うだけなら、残高はいつか0になる。そして、その日は彼が思っていたよりもずっと早くやって来た。
家賃やクレジットカード、電話料金、公共料金の延滞が始まった。
人生は時として簡単に下降する。
彼の両親は他界していたし、きょうだいは4年前に嫁いだ妹がいるものの専業主婦であり、彼が妹の夫と折り合いが悪く、妹も夫の味方についてからというもの、事実上縁が切れたかたちになっていた。親族とも付き合いはなく、これといった友人もいなかった。
我が身を振り返ると、彼は自分には何も無いことに気づいてしまった。
ぼんやりと彼は自殺を考えた。
そんなとき、彼はスマホに「リィンカーネ」がインストールされていることに気づく。
なんらためらうことなく、彼は「転生実行」ボタンをタップした。
次に気づいたとき、彼は中学二年生の男子、蜂宮 耕平として、病院のベッドの上にいた。それまでは事故か何かで意識不明の重態だったらしい。それまでの過去のことを覚えていないのは、事故の影響、として片付けられた。
それからの彼は、周囲に言わせれば「まるで生まれ変わった」かのように生活態度を変え、この地方で一番の高校に進学したのである。
だが、耕平として生まれ変わった彼であっても、中学二年生から高校一年までの三年間には、それなりの苦悩や挫折はあった。そんなとき、彼は住居侵入罪に問われる危険を冒してでも、この場所に戻り、以前の自分の人生を顧みる時間を作った。
やがて、高校生はその部屋を出ると、非常階段を静かに駆け下りて行った。
眼鏡とマスクに隠れたその顔はここに来る前とはすっかり異なり、自信と元気に満ち溢れていた。