第10節 脱獄とウイスキー
十真は既にトウキー市内を歩く観光者の一人となっていた。彼は顔には出さないように努めてはいたが、人生初めての「脱獄」にとても興奮していた。
(脱獄なんてiPhoneでしかやったことしかないのに…)
脱獄といっても、壁の緩んだところに少し力を入れたら、身体を通り抜けるのに十分な隙間が空いて、独房からは簡単に出ることができた、それだけだ。独房のある拘置棟から出るのに少し時間がかかったが、出入り口には鍵はかかっていなかった。
これはロッシーが自動管理モードのスイッチを切ったことが原因だが、そんなことを十真は知る由もなかった。
――ブロクエム
街に夕暮れが近づいてきていた。ここはトウキー市の南西にあるブロクエムという繁華街らしい、並んでいる店舗や屋台から食欲を刺激する匂いが漂ってくる。それに色街の雰囲気も若干混ざっているようだ。大人向けの繁華街というところだろう。そして街を歩く男たちは全て長い毛が身体中から生えている。この街の大半はこういう種族なのだということに十真はようやく気づいた。つまり、独房にやってきた男もこの街では普通の人間なのだろう。猿人だと見くびり、しまったことをしたと思ったが、今となってはどうしようもない。
一方、女には毛は生えていないがやけに脂ぎっている。
自分のような種族はここでは珍しいのか、やけに他人の視線を感じる。悪意はなさそうだが、居心地の悪さを感じざるを得なかった。
独房にあった鏡で自分の姿は確認している。この立派な肉体であれば、女に間違われることはないが、そういう趣味の人と思われても困る。
(いっそのこと、さっきの独房に戻るか…)
だが、戻るという判断はもうありえない。
しかし、彼はお金を持っていなかった。
ずっと干し肉と即席スープばかりだったから、新鮮な野菜や肉、魚なども食べたいと思っていたのだが、諦めるしかなさそうだ。
「おい」
明らかに自分に向けられた声に十真が振り向くと、見覚えのある男が居た。
ロッシーである。
今度は二人の間に透明な壁は無い。
「あ、あんたは」
「…入境許可が下りたのか?確か、タザア…だったな」
ロッシーはあれ以来、十真のことを思い出しもしなかった。
トウキ麦農家に共通するものなのか、彼自身の性格なのかはわからないが、自分の職務から外れた事柄については、極端に無関心になる性格だった。だから、街中を歩いている十真を見たとしても、取調べが終わって入境許可が下りたのだろう、としか考えなかった。
「独りか?」
この口調は尋問調だなとロッシー自身も考えた。入境許可が下りた相手に対してなら、もう少し友好的に振舞うべきだ。トウキー市民は言われているほど閉鎖的でないことを見せなくてはならない。
「ああ」十真はそう答えた。
とっさに逃げようとも考えたが、ロッシーの態度が友好的であることを感じとって、思い留まったのは運が良かった。わざわざ、向こうから声をかけてきた理由がわからなかったが、顔を知っているのは、彼一人しかいない。会話できれば少しくらい情報が取れるかもしれない。
だから「一杯やらないか?」というロッシーの申し出はありがたいものだった。
ロッシーが十真を連れて行ったのは「ユキ・ドゥア」というスポーツ・バーのような雰囲気の店だった。だが、十真はその店に圧倒されていた。この世界が日本より明らかに上であることに気づかされたのだ。
店の壁面や天井が全てディスプレイとなっていた。しかも、壁のディスプレイは反射式であり、光で目を刺すような感覚はない。ロッシーは席に着くとテーブルを軽く叩いた。テーブルもディスプレイになっており、テーブルの上にメニューの料理が立体表示された。これなら、メニューと実際に出てくる料理のイメージがずれることもない。
「何にする?俺のおごりだ、好きなものを頼め」
ロッシーは少し大物ぶって見せた。
「この土地の郷土料理がいい、なにかお薦めはあるか?」
十真は定番のセリフを吐いた。
「郷土料理というだけなら、ビラスの干し肉、ソジシアの塩漬けだが…」
ビラスの干し肉、と聞いて、十真の食欲が半減した。ここに来るまでビラスの干し肉は毎日口にしていたものだ。
「あまり美味そうじゃないな」
「…最後まで聞け、いまどきの料理もちゃんとある」
――1時間後
「だかるぁ、保安部なんて大したことねーんだお、わかるくぁ、タザア?」
ロッシーは四杯目のウイスキーを空にしていた。十真はようやく二杯目に口をつけ、そこからはあまり進まなかった。かなり癖のある味だ。だが、この味なら飲んでいるうちに癖になるかもしれない。
トウキ麦は収穫時期によって、麦としての性質が変わることは既に述べたが、その性質を利用して同じ畑のトウキ麦を2度に分けて収穫し、それを原料にしたウイスキーをブレンドするのが、トウキ市で醸造されるウイスキーの主流である。
ロッシーは、最初まあ飲めやといった構えだったが、二杯目からは独演会になっていた。十真が酔いの回った頭でロッシーの言いたいことを整理した。
「ということは、この街から出たいということか?」
「ああ、そうだよ、いつまでも麦ばかりというのもどうかなって、俺たちの世代はみんな多かれ少なかれ思ってるよ」
「でも、一年の半分は自由なんだろ?」
「ああ、そういう見方もできるな、でも、一年の半分は縛られるんだ」
「そういうものなのか」
「そういうもの…ん?」
表情を少し変え、ロッシーは懐から何か取り出した、携帯電話のようだ。
(ガラケーか)
十真がほっとしたのも束の間、ロッシーが「ガラケー」を操作すると、形が変わってスマホのサイズになった。折りたたみ式のスマホは十真の時代には無いものだ。彼は怖れを感じながら、ロッシーが操作してから、再び、スマホを畳んでしまう動きを見ていた。
「噂をすれば、なんとやらだ、バカ部長からだよ」
十真は少し嫌な予感がしたが、ロッシーは呂律の回らない口調で聞いた。
「タザア、お前、何かしたのか?バカが必死で探してるぞ」