誰も見てない部屋
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
うわっ、ちょっと、つぶらやくん!? いきなりドア開けるのやめてくれない?
今から着替えようってところだったから……無防備な私もいけないけど、ちょっとご遠慮願える? 数十秒で済ませるから。
はい、お待たせ。失礼したわね。
学校の教室のドアって、前と後ろ、どちらかは内側から閉められるけど、もう片方は鍵がないと閉められないから、密閉状態にできないのよね。目張りなり張り紙なりしておけばいいんでしょうけど、そんな手間なんてかけないでしょ、普通?
ただね、つぶらやくん。さっきあなた躊躇なくドアを開けたでしょ。放課後だから、誰もいないと、無意識に思っていなかった?
これからは、あらかじめノックをしておいた方がいいかも知れないわ。前々からこの学校にある怪談の、新情報を手に入れてね。
君、この手の話が好きだったでしょ? 耳に入れておかない?
つぶらやくんも知っているでしょう? 「誰も見てない部屋」の話。
これはどこにでも現れ得る、日常の空間。可能性はあるけど、実現は難しい景色。
そうやって、この校舎にいる誰一人も、そこにいない。見てもいない時、そこでは色々なものが遊んでいる、という話。
鬼の居ぬ間に洗濯。それは何も、私たちに限ったことじゃないわけね。じゃあ、もし、「鬼」に出会ってしまったら?
直接、命を脅かす存在に限らないわ。クモやゴキブリ、そのほか何でも、自分が目にしたくない生き物が、テリトリー内にいることに気がついたら、あなたはどうする?
共存、などできないわね。逃がすか、殺すか……自分に身体的、精神的害が及ばないことを確認できるまで、私は安心しないわよ。
そして、それは向こうも同じみたい。
今から数十年前に、教育実習生としてこの学校に来ていた大学生のひとりが、行方不明になったわ。
最後に見かけた人が、職員室の教頭先生。職員室内の自分の机で作業をしていた実習生が、ふと「忘れ物!」と声をあげて立ち上がった。ちょうど部活動でほとんどの先生が席を外している数分間だったらしく、室内には教頭先生しかいなかったの。
教頭先生に頭を下げて、部屋を出ていく教育実習生。けれども彼は下校時間を過ぎても、他の先生たちが帰宅を始める時間になっても、一向に職員室へ帰って来なかったの。
彼の荷物はここに残されたまま。教頭先生は校舎の見回りをしつつ、彼を探し始めたの。
実習生の担当科目は数学。時間が許す時には、校舎2階にある教材置き場の空いたイスと机を使って、自主学習しているということが、他の先生の報告にあったわ。
教頭先生が真っすぐにその教室に向かうと、扉を開けた。けれども、すぐに扉を閉めると、自分の鼻と口を両手で覆いながら、近くのトイレに駆け込まざるを得なかったの。
教室置き場の中に、異様な臭いが漂っていたらしいの。先生が少し嗅いだだけで、鼻の中も、喉の奥も、直接指を突っこんでかきむしりたくなるような、かゆみと痛みを覚えたとのこと。
蛇口から水をどんどん出して、鼻腔も喉の奥も洗った先生だけど、それは気休め程度。自ら離れて数分が経つと、またぶり返してきて、我慢できなくなってしまう。その症状が何日も続いたとか。
この一連の出来事は、当時の先生たちの間で共有されたけど、教頭先生の体験については半信半疑だったと聞くわ。話をされたその日、先生方が教室置き場に様子を見に行っても、聞いたような異様な臭いはなく、症状も出なかったとのこと。
けれど、実習生の行方に関しては、とうとう見つからずじまいだったそうね。
それから数ヶ月後。校長先生から許可をもらった教頭先生の手から、学校の先生と全校生徒に災害用のハザードマップとは別の、避難場所を示された地図が配布されたの。
もしも、教頭先生が出くわしたような事態にあったら、ここに逃げ込むように、と。
それから二十数年後のこと。
当時を知る先生たちは、もはやおらず話だけは先生方の間で共有されていた。
生徒たちへの避難場所のプリント配布もされていたけれど、発端に関してはぼかされて、「異様な臭いと、鼻や喉の刺激を感じたならば、ここに行きなさい」とだけ説明されている。
その避難場所というのは、災害時の避難場所である校庭の隅にある、焼却炉の裏側だったの。そこには地下に向かって続いているという、観音開きの銀色の戸が取り付けられていたわ。普段は鍵がかかっていて、誰も入れず、プリントにどれほどの意味があるか、と疑問に思う者も多かったとか。
夏休みの、ある一日。その日は秋の合唱コンクールに向けて、あるクラスの指揮者が、練習のために学校に来ていたの。
伴奏者は都合が合わずに、休み。指揮者は先生の指導と伴奏で練習をしたわ。
たっぷり二時間ほどだったかしらね。昼過ぎから始めた練習、心なしか音楽室に入る日の光が、少し赤みを帯びてきたように感じられたの。
「じゃあ、練習はこれでおしまい。お疲れ様。真っすぐに帰りなさいね。それと、何回もいうようだけど……」
「変な臭いや刺激を感じたら、あの避難場所に逃げなさい、でしょう?」
「うん、そう。ちゃんと守ってね」
先生が音楽室に鍵をかけている間に、指揮者は階段へ。昇降口へは向かわず、二階にある自分の教室へと足を向ける。ポスターの宿題があったにもかかわらず、勘違いして教室に置いていってしまった、ポスターカラーを回収するためだった。
――わけのわからない迷信に、いつまで縛られているんだろう。
指揮者はそんなことを考えながら、足音を忍ばせつつ、小走りで自分の教室へと向かった。
だから、気にも留めなかった。他の教室が前と後ろ、もしくはそのいずれのドアも開け放って換気をしているにも関わらず、自分の教室だけが閉め切ってしまっていることを。
その子がドアを開けた時、教室の窓もカーテンも閉め切っていた。
窓の数は4枚。柱を挟んで黒板側に2枚。反対の掃除用具入れ側に2枚がはまっている。カーテンもそれに合わせて、1枚ずつ、左右から閉じ合わせることができるように、取り付けられていたわ。
その一番黒板に近い窓とカーテンが、開いていた。そこにワイシャツと長ズボンを身につけた人が、背中を向けて立っていたの。
頭の向こうから、黄色みが混じった煙が飛んでいく。それは黒板消しの掃除をするときに舞うものと少し似ていたけれど、彼の姿を見るに、それは絶対考えられなかった。
なぜなら、その子の肩から先はすっかりなく、空っぽのワイシャツの袖からは、窓の外に漂っているものと同じ、黄色がかった煙が漏れ出していたから。
彼が振り返る気配。それよりも早く、指揮者はドアを乱暴に閉めると、一目散に階段目掛けて逃げ出した。
鼻や喉が、かきむしりたいほど痛い。同時に、虫よけスプレーを何倍も濃厚にした刺激が、鼻の内側をちくちくと刺している。
階段を降り始めたところで、「ドン」と自分の教室の辺りから、大きい音。続いて「ガシャーン」とガラスの割れる音がした。
「彼」には腕がない。ドアを開けるなどと行儀の良いことはせず、そのまま押し壊したのだと思われたわ。そして、それは自分を追いかけてくる、という明確な意思表示……。
階段を駆け下りる指揮者。降り切った時、後ろからの足音もまた、階段を降り始めたわ。
気を抜けない速さだったわ。とっさに焼却炉までの道を考える指揮者。
左手の昇降口は論外。焼却炉の反対側。
右手の渡り廊下は悪手。10メートルほどの廊下を走る必要があり、追跡者の足では追いつかれる可能性が高い。
ふと、足下を見る。人ひとりがかがんで出られそうな、窓ガラスが壁に取り付けてある。火事で煙に巻かれたとき、這いずった状態のままで脱出できるように、と作られた避難経路。
背後で階段を下ってくる足音を聞きながら、彼はかがんで窓を開けると、その中へ身体を滑り込ませる。
抜け出て窓を閉めるや、「ドン」と向こう側から窓を蹴られた。汚れた上履きの先が見える。手がない以上、自分のようにかがんで取っ手を握りながら開ける、というのはできない。足を引っかければ行けるかも知れないけど、教室のドアを強引に破った時のことを考えれば、そこまで頭が回るとも思えない。
案の定、窓をがんがんと蹴りつけ続ける、上履き。窓にひびが入り出すよりも早く、指揮者は焼却炉を目掛けて駆け出していたわ。
いつも見ている、地下への銀色のドア。それが今日はさびついたように、赤茶けているのを指揮者は見て取ったわ。
――この先、どうすればいいのか。
もたもたもできず、ひとまずドアに近づいたところ、指揮者のあごを打つギリギリの高さで、ドアが内側から開け放たれたわ。
そこから伸びた腕が、指揮者の足を掴む。そして中へ引きずり込むや、腕の主は逆に外へと出ていく感触がしたの。
悲鳴をあげる間もなかった。ただ、自分の足を掴んで引っ張り入れ、外へ出ていった影。外からの光に照らされたその姿は、自分に瓜二つだったそうよ。
ドアが強引に閉められる。そうなると、この中は真っ暗。手探りで這ってみたけれど、指の先にぶよぶよした肉片の感覚が触れると、指揮者はもう動こうという気にならず、ただただじっとしていたそうよ。
どれだけの時間が経ったかしら。銀色のドアがひとりでに開いたの。
外からの光を見て、思わず身体を乗り出す指揮者。
そこには何倍も薄くなった、「彼」の臭いと、自分を追って来たであろう上履きの後だけが残っていたわ。「彼」も、自分によく似た姿をしたあれも、どこにも見当たらなかったの。
教室のドアと、廊下の下部の窓が割られていたのは残っていて、指揮者は「彼」がいたことを改めて実感したけど、この体験話はあまり多くの人には話さなかったみたい。
ただ、この後。学校でみんなが遊んでいる時など、ほろのついたトラックがやってきて、中から降りてきた人が、何度も焼却炉の辺りを調べまわっては帰っていく、ということが続いたらしいけど。