第一部【あくまでこれは現実なのだと】
元地球――『データ世界』
学校裏、森林にて。
「よっ!」
掛け声と一閃。
少年は右手に握りしめたストライカーソードの一撃で、モンスター『ロックゴリラ』を真っ二つに切り捨てた。
飛び散る鮮血。返り血を浴びた体は赤く染まるが、一瞬で染みもモンスターの死骸も消えてなくなる。
深紅の短髪――赤坂晴斗。ハンドルネーム『ルビ』は、一息ついて剣を鞘に収める。
通算百匹目のモンスター――通称『モブ』を討伐したことで、本日のノルマは達成した。己に課した鍛錬を欠かさず続けて、一年余りが経過している。
約一年前の高校入学時、仕事の都合で動けない両親を都心に残して、岡山県へと飛び出してきた。心配症の妹二人までもが付いてきたのは誤算であったが、結果として家事を引き受けてくれて助かっている。
休息無しで百匹ものモブを討伐すると、流石に汗だくになる。現実と相違ない雫を拭きつつ、呼吸を整えた。
舐めると塩辛く、見るだけで暑くなる。汗そのものとしか表現できない液体が、この世界が、ゲームだなんて信じられない気持ちは今でも大いに理解できる。
世界が改変され、さも『インターネットゲーム』そっくりになったにも関わらず、現実に限りなく近い。
リアル志向? 美麗グラフィックと濃厚なシナリオ! ついでに豪華な声優陣!
そんなレベルではない。
暑ければ暑い、寒ければ寒いと文句を垂れ流すし、甘いも辛いも痛いもくすぐったいもなにもかも、リアル。五感が生かされているなんて、ゲーム――非現実世界としては未完成だろ! なんて騒いでいた人もいた。
が。
もしも味覚が損なわれていたらどうだろう? 食事の楽しみは、根こそぎ奪われていたのではないか? サプリメントでほとんどの栄養を調整し、食の楽しみを求めて作ったパンが、無機質で味のないガムのようだったとしたら。
触覚が失われていたらどうだろう? ほら、あの、色々と触る楽しみがなくなっていただろう。――何を触るつもりなのか、果たして触る機会が訪れるのかは、あえて明言しないが。
兎にも角にも、人間の感情とはかくも単純な構造をしている。全ては、五感を用いられて生まれる、無数の感想のゴール地点でしかない。
――本を『見て』『読み取り』『理解』して、感動する。
――高級ステーキを『食べて』『味わい』『美味しい』と舌鼓を打つ。
――サボテンを『触って』『棘が刺さって』『痛い』と涙を流す。
この通り、五感とは全てスタート地点となり、すべからくゴール地点に感想が待ち受ける。
単純なフローチャートはしかし、もし失っていたら人生において刺激の一切が失われていたところだ。
こと今の世界を『感じて』『体験して』『楽しい』と感じるルビにとって、五感のありがたみを心底感じずにはいられない。
さて、マスターアップから数ヶ月の慌ただしさときたら……さながら、エサに群がるアリの如しだった。
否。エサにありつく目的がある分、アリの方が統率が取れている。有象無象の様相をもしも宇宙人がはるか頭上から見ていたら、今が好機とばかりに侵略に来ていてもおかしくはない。
混沌とした世界、異形を成した動物の数々。愛くるしかったチワワから巨大な牙が生えたり、ウサギに獰猛な角が生えたり。さらに、人間には特殊な能力が宿り、身体能力が飛躍的に向上した。
自分の意志ひとつで可視化されるウィンドウの数々は、未だに成分が解明されておらず、汗を拭ったタオルもストレージから一瞬で具現化できる不思議な代物。収納もまた、意志ひとつで可能。洗濯はどうなってるのか、一晩悩んだことがあったが、考えないことにした。
どこぞの未来からやってきた、青い猫型ロボットすらも舌を巻くようなとんでも技術。もはや世界では当然の理として確立されたそれはまさに――
まさに、ゲームの世界。
ゲーマーならば、一度や二度は憧れただろう。『この世界で生きてみたいんだけど!』なんて荒唐無稽な夢物語を叶えてくれたような、素晴らしい世界。
かつて、パソコンやゲーム機などの媒体を用いて遊べたMMORPG――同時接続型多人数オンラインロールプレイングゲームは、ネットゲームの中でも特に人気の高いジャンルであった。リアルがゲームになった今では、そのサービスのほとんどが終了してしまっているが、昔は時間と宿題を忘れるほどに没頭して、先生に怒られていた。
「ま、でも夢の世界がどれだけ気楽だったか、だなぁ。うん、元引きこもりゲーマーにこの辛さは、日光を強制的に浴びせられるヴァンパイアの苦しみの如し」
夢は夢のままであり続けることが正解だと、ルビは言う。
仮に宝くじで一等賞に当選することが夢だったとしよう。夢が現実となり、何億もの大金が一瞬にして舞い込んできたとする。
本当に幸せだろうか?
大金を手にした恐怖。
誰かに話しても大丈夫か?
使い道はどうする?
現実になった途端に襲いかかる、様々な問題。あたかも自分が悪いことをしていると誤解してしまうような現実に、むしろ夢心地でいたままの方が幸せだったのではないかと錯覚するくらいに。
いいか、それは錯覚なんかじゃない。夢心地でいた方が幸せだ。断言する。
なぜなら、俺は実感しているから――ルビは言った。
ゲームはボタン一つ、クリック一回でモブを攻撃し、倒してくれる。無心で、無気力に、ただ作業的に倒して倒して倒しまくって、経験値とお金を得て強くなる。仮に死んでしまったとしても、少しばかしのペナルティを支払うだけで、何度でも復活する。
――ああ、なんて夢のようで。
――ああ、現実はなんて非情で。
モブを斬り殺せば、生々しい肉の感触が腕を駆け巡る。生肉を調理する際、包丁で切る感覚とは大違いだ。
断末魔の叫びは嫌でも鼓膜を震わせ、飛び散る鮮血が周囲を染める。浴びた返り血は体温ほどに生ぬるく、ドス黒い鉄臭さが体中に浸透していくようで不愉快極まりない。
死骸や浴びた血液などは数秒で消えてしまうシステムになってはいるが、心地よいものではない。
逆に、攻撃されれば痛い。痛覚が働くのだ。
どうだろう、これでも夢が叶ったら幸せと言えるだろうか?
夢のままであった方が、現実を知ることなく平穏無事に人生を送れていたのではないだろうか?
ゲームの世界に行けたらいいのに……なんて、バカな妄想くだらない逃避で済ませておくほうが平和なのだ。宝くじだって、当たった時のことを妄想するのが楽しいのであって、当たってしまえばきっと困惑が真っ先に来るだろう。
偶然にも、ルビが振り分けられた職業――タンク職は防御力や体力に秀でている。他よりも格段に耐久性が高く、数値的に強化された肉体への痛みはかなり軽減されている。
それは遅い来る敵から、身を挺して味方を守るためであり。自分から攻撃を貰うために、注意を向けさせる役職。
ならば平気か?
そんなわけがなかろう、と。
痛いものは痛く、わざわざ自分から攻撃を食らうなんてマゾヒストもいいところだ。しかしタンク職の仕事は、盾。
同時に、圧倒的に人数不足で不人気な役割。地味で華がなく、単調で痛い。ド派手な攻撃技を持つアタッカーや、綺羅びやかな回復技を操るヒーラーの方が活躍して見える。
ゲームなら、ゲーマーなら、自尊心の塊たる人間の有象無象は、自己主張の乏しいタンクをやりたがらなかった。
こと現在においては、自動的に割り振られているがために人数のバランスは取れているが――
やれ不遇だ、やれ損な役回りだ?
全くもってその通り!
俺だってそう思うぜ!
いかなマゾヒストでも、戦場に進んで飛び出すのは訳が違う。彼らあるいは彼女らが求めているのは、刹那的な快楽か? 命を失う危険性のある痛みか?
否。
永続的な痛みに対する特殊な快楽! それこそがマゾヒストの望みだろう? ――いや、自分自身はマゾヒストではないので知らないけれど。
とどのつまり、神に与えられた職業の中、タンク職に振り分けられた人がそれだけで冒険の世界から身を引くのは当然。致し方あるまい!
なんて、熱弁は全て過去に。
高校入学と同時に出来た友人に語り、赤坂晴斗という少年の人間性を深く知らしめることとなった。
「死と隣り合わせってのは、衛生上大変よろしくない。平穏に暮らしたいがための死と隣り合わせな日々とか、なんだそれハリネズミのジレンマ?」
某モンスターをハンティングするゲームかと。強くなるために素材を得るために強いモンスターを倒さなければならないけど、倒すために強くなりたいと。負のサイクルだ。
まぁ、ハリネズミのジレンマとは、少しニュアンスが違うか。
ノルマを終えたルビは、誰が聞いているわけでもないのに苦い表情で愚痴をこぼした。
しかしマスターアップ前から、事故や病気で唐突に命は失われていた。理不尽な死が隣人だったのは、どの時代だって同じだ。無作法にずけずけと訪れて、容赦なく奪っていく暴君だ。
いわば、危険度の違いだ。
血気盛んなモブは、こちらに敵意が無くとも攻撃を仕掛けてくる。
アクティブモブと呼ばれ、眼と眼が合った瞬間に始まる殺し合いに、一瞬たりとも気を抜くことが出来ない。
今しがた切り捨てたロックゴリラ。レベルにして、平均二十五前後のモブ。約九割がアクティブで占められた好戦的なモブで、逆にノンアクティブ――温厚で敵意の無いロックゴリラはほぼ確認されていない。
ルビよりは大きく格下の相手。万が一にも負けはない――死なないためには必要な、安全なレベルのモブ。得られる経験値は相応に少ないが、死に腹は代えられない……もとい、背に腹は代えられない。
何度でも言い聞かせた。これは、ゲームではない。
ゲームに似て、非なるもの。
現実。
死ねば、死んだまま。
絶対に、生き返ることなんて――
――ないのだと。




