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家を出てからちょうど一週間が経った。
荷解き自体は最初の一日で終わった。実家とは同じ町の中でそれほど離れているわけではない。それに一人暮らしで持ち出す荷物もそう多くはなかった。
そして七日間は家の周辺を散策していたのだ。
一日一度は剣を振っておかないとすぐに腕は鈍るので、巨大な剣を毎日振っても迷惑にならない場所はあるだろうか。自分の食事を毎日用意するのは面倒なので、たまに食べられるようなお店はあるか。ギルドへの近道は。良い感じのお昼寝スポットは。
部屋を決めた時はほとんど家賃しか気にしていなかったので、そういうところがおざなりになっていたのだ。
そして今日。流石に一週間も仕事をしないのはいけない。一週間が終わったと区切りも良くて、ようやく私は新居からギルドに足を向けた。
この道は一度確認は済ませているが、仕事をしに行くと思えば初めて歩くのと変わらない心持ちである。
朝も早い時間であり、ギルド内に人は少ない。
酒場も開いてはいるがこんな時間から酒を飲む人間は、いくら粗野な冒険者と言えどそうは居ない。
依頼が張り出されている掲示板は空いていたので、ゆっくり見ることにする。
スライムの討伐。護衛の依頼。薬草採取。ダンジョンに行くのでパーティメンバーの募集。農作業の手伝いなんてものもある。
引っ越した後の依頼なのだから派手に行こう。
「……ハーニーさん、本当にコレを受けるんですか?」
「そんなに無茶かな?」
私が選んだ依頼を受付嬢――最近、彼氏ができたと噂のキリカ――が何とも言えない表情で言う。
普段ならすぐに受領のスタンプを押すはずだが、中々動かない。
内容はグリズリーという巨大な熊型の魔物二体の討伐。
普通の熊と生態のほとんど変わらないグリズリーは魔物と言うよりは動物に近いが、魔力を有しているので熊とは一線を画す強さを持っている。それが二体だ。キリカの心配も当然である。
「ハーニーさんは前に討伐したことがありましたよね……。でも今回は二体だし……」
確かにグリズリーは強力な魔物だが、それに匹敵する武器を私は持っている。
むしろ背中の剣の大きさを考えると、小さい相手よりは大きい相手の方が攻撃しやすい。
「もし危なくなったらすぐに逃げるよ。引き際くらい心得てるしね」
「まぁ、そうですね。ハーニーさんなら大丈夫でしょう!」
少々渋ったものの、最終的には受領してもらえた。
冒険者の中には、受付はさっさと依頼を受領しろ、なんて言う者も居て、実際にそういう受付も居る。しかしキリカはちゃんと内容と冒険者の実力が釣り合っているか判断してくれるので、それを理解している冒険者達から慕われているのだ。
今回の私はギリギリ合格だったようだ。
強力な魔物を二体討伐するだけあって、報酬も色がついている。大きい出費をしたばかりの私には嬉しい依頼で、無事に受けられて良かった。
準備の買い物だけ済ませて早速グリズリーを探しに行くとしよう。
依頼を受けてから三日目。私はグリズリーの姿すら見つけていなかった。
グリズリーが目撃されたのは町からそう遠くない森の中。本来であればこの森にグリズリーは生息しておらず、もっと遠くに生息しているはずだ。
それが何かの弾みでここら辺にまでやって来たのだろう。今はグリズリーの発情期だったはずなので、若いオスとメスの駆け落ちかもしれない。
人間の男女であれば応援したくなるが、魔物のそれはただの迷惑だ。
何にせよ、ここに住み着かれて繁殖でもされたら厄介だ。城壁があるとは言え、あまり強力な魔物が付近に増えると人や物の流れが止まりかねない。
グリズリーが縄張りを示すための痕跡は何度か見かけているので、森に居ることは居るのだろう。
「お……! また見つけた……」
木に何重にも深い爪痕が刻まれている。これがグリズリーの縄張りを示すサインだ。
どれだけの強さでどれだけの範囲にどれだけ深く刻まれているかでグリズリーの強さを判断できるのだが、これは相当な個体ではないだろうか。
「と言っても、ほとんど本でしか見たことないけどね」
私が暮らす町の近くにグリズリーは生息していない。前に討伐した時も今回のように迷い込んで来た個体で、その一体の痕跡しか見たことがないので比べようもない。
しかし森を進むに従って痕跡の間隔が狭まっているように思う。
これは一体目のグリズリーが近いかもしれない。
背中の剣に手をやり、いつでも引き抜けるようにしておく。それでなくとも森の奥には強い魔物が多いのだ。すぐに対応できるように気を張らねばなるまい。
と、注意を張り巡らす私の耳に水の流れる音が届いた。
頭の中の地図だと、川は森の深い場所を流れている。これは想像していた以上に踏み込んでしまったらしい。
「こんなことならジリでも連れて来れば良かった……」
幸い、これまで大した魔物と戦っていない。大抵はこちらが先に見つけて戦闘を回避してきたのだ。
しかし帰りも同じように行くとは限らない。
後悔の念を抱きつつ歩いている内に小川に辿り着いた。
近くに生っていた食べられる実をもいで休憩することに決めた。
「これが安全な場所だったらな……」
日の光が遮られていた森の中と違ってここは明るい。水面も陽光をキラキラと反射していて見とれてしまう。そして木々に囲まれているから空気も澄んでいる。魔物さえ現れなければ、これだけピクニックに最適な場所もない。
二つ目の木の実を食べ終えた辺りで、そんな私の願望を打ち破るように何かが小川に現れた。
下流の方で動いている黒い影はこちらに気づいていない。ゆっくりと木の陰に隠れて観察する。待ち望んでいたグリズリーである。
一体しか居ないが二体同時に相手するわけにもいかないので好都合である。
少しずつ近付いて様子を窺う。グリズリーは水分補給に来たようだ。
小柄な私の二倍近くもありそうな大きな体に思わずため息が漏れる。前に倒したグリズリーはもう少しだけ小さかったと思う。これは骨が折れそうだ。
「ま、やるしかないか」
何とか少ないやる気を振り絞る。
剣を抜いた私はそのやる気がどこかへ行かない内に、飛び出してグリズリーへ切りかかった。
寸前で気づいたグリズリーが威嚇するように立ち上がる。私の二倍以上もある巨体だ。
その肩から腰までにかけてを一直線に切り裂く。
しかし刃は、ギギギと岩でも切ったかのような感触と音を立てる。見るとグリズリーの体にはほとんど傷がない。
「……もう最悪」
この結果に驚いたのは私だけだったようで、グリズリーは自身の体を信頼して攻撃の体勢を取っていた。
振り下ろされた右の前足には鋭い爪が生えている。
「グモォォォォォォ!」
「ぐぅ……!」
素早く剣を引いてそれで受け止めるも、ズッシリとした重みに潰されそうになる。そしてもう片方の前足も使ったのか、その重みが倍になる。
グリズリーの動きはそれほど素早くなかった。攻撃した後でも防御が間に合うくらいだ。
しかしそれを補って余りある攻撃力。
私の二倍以上もある体格に、体重差はもっとあるはずだ。そして魔物だけあって魔力が流れているのだろう。毛の硬さもそれに因るもの。
こちらの攻撃は効き辛い。あちらの攻撃は重い。
早速この依頼を受けたことを後悔する。
「でも諦めるわけにはいかない、よね!」
せっかく一人暮らしを認めてもらえたのだ。その第一歩目の依頼から躓くわけにはいかない。
幸か不幸か、これだけの大きさのグリズリーはオスの個体だろう。目的の二体のグリズリーがつがいであれば残りはメスの個体。このオスさえ倒せば残ったメスは体が小さい分、もう少し倒しやすいはずだ。体力がある内に出会えて良かった。
そしてあちらの攻撃は避けようと思えば避けられるのだ。
まだ勝機はある。
前足をついてこちらへ向かって駆けて来るグリズリー。巨体に似合わぬ素早さであるが、身体強化の魔法を使っていれば簡単に逃げられる。
身体能力を強化してさえいれば負けないのだ。まずは集中力を切らさないことが大切だ。
「ガオオオオオオ!」
「甘い!」
私の目の前で立ち止まり、倒れ込むような勢いで両前足で切り裂く。
しかしそれはジャンプすることで容易に躱すことができた。
そして今度はこちらの番である。
「くらえ!」
空中で体勢を整え、切っ先をグリズリーの無防備な背中に向ける。そして重力に従ってそのまま剣を突き立てた。
身体強化の魔法を使わなければろくに扱えない重量の剣に加え、小柄とは言え私の体重。
それでも剣は完全に刺さることはなかった。
「……え?」
どれだけ毛が硬くて皮膚が分厚かろうと、これだけやればダメージは与えられると思っていた。
それが、剣の四分の一程度だろうか。ダメージには違いないがこれが決定打になることはないだろう。
その証拠に、
「グルルァ!」
「いっつ!」
グリズリーは振り向きざまに爪撃を放ってきた。その爪先が胸をかする。たったそれだけで、防具越しにもいくらかの衝撃が届いていた。
まともに受ければどうなるかわからない。
後ろに跳んで距離を取る。こうして私はまたグリズリーと向かい合うことになった。
「どうしよう……」
向こうも私を警戒しているのか、低く唸りながら動こうとしない。幸いにも考える時間はあった。
しかし時間があれば良い考えが浮かぶかと言われれば、そうとは限らないのだ。
結局、考えに考えても力一杯突き刺す、しか思いつかないのだ。斬撃よりは可能性はあるだろう。逃げるのは試してからでも構わない。
「ガルルルァァァァ!」
私が気合いを入れたのを感じ取ったのだろう。グリズリーも雄叫びを上げながら突っ込んで来た。
対する私も剣を刺突の構えにして踏み出す。
そして渾身の力で突き出した剣はグリズリーの肩口に半ばまで突き刺さった。
「やった!」
と、喜びも束の間。
痛みに悶えるグリズリーがのけぞった。深々と刺さった剣は抜けることなくそのままだ。そしてそれを掴んだ私も持ち上がる。
「ぐっ……」
思わず手を離してしまいそのまま投げ飛ばされるような形になる。
運悪くその先に木が立っており、背中を強かに打ち付けて頭から落ちる。
「頭がクラクラする」
一瞬だけ目眩を起こしたような感覚に陥る。口に出せるだけの余裕もあり、私はすぐに立ち上がった。
そして目の前には怒りの形相のグリズリー。
剣が肩に刺さっている分、その恐ろしい雰囲気もいくらか増しているように見えた。
しかし恐ろしいのはその見た目だけだ。
「グルァ! グルァ!」
右から左から、続けざまに放たれる爪。何度も何度も繰り返されるその攻撃を私は余裕を持って躱していた。
痛みで我を忘れているのだろう。剣が刺さった左前足は動かし辛そうでその分、攻撃にも隙が多く生まれていて躱しやすいのだ。
「これ、返してもらうよ」
ほんの一撃で天秤は傾いた。
後ろにあった木を足場にして、グリズリーの上を跳び越える。そのすれ違いざまに剣に手をかけ、力の限り引き下ろす。
半ばまで刺さった剣はこれまでの苦労が何だったのかと思うくらい簡単に、グリズリーの前足を切り落とした。
「ガァァァァァァ!」
尚も戦意は失わないようでその叫び声は痛みに悶える声でなく、私を噛み殺そうとする憤怒の声だった。
次の攻撃に備えて私はありったけの魔力を身体強化に費やす。
この後のことは考えていなかった。とにかく目の前のグリズリーを倒すことしか頭になかったのだ。
振り返ったグリズリーが鋭い牙の並んだ口を開けて迫る。
それに対して私は、さっきの数倍の力を込めた剣を突き出した。
戦いの過程がどれだけ激しくとも、決着の瞬間は呆気なかった。
「終わった……」
思わずその場にへたり込んでしまう。ありったけの魔力と言っても、動けるくらいの魔力は残している。体が疲れているのではなく、精神が疲れているのだ。
まだ依頼の半分を終わらせただけなのに、すでに全部終えたかのような達成感だ。
そのまま地面に寝転がりたかったが、とりあえずグリズリー討伐の証を採らなければ。
ゴブリンと同じようにグリスリーの証も鼻。
基本的にその魔物につき一つしかない部位を採取するルールだ。基本的には鼻だが、グルフロウみたいに比較的小さい魔物は尻尾だったりする。頭が三つあるケルベロスはどうだったか。
討伐の証以外にも、グリズリーの内蔵の一部は薬になったりもするし、肉も部位に依っては高く売れる。そういった物を一緒に採って少しでもお金を稼ぐのだ。
今回はもう一体も狩らなければいけないので、このグリズリーは放っておく。
流石に魔物の内蔵を持って戦いたくはない。それに血の臭いは他の魔物ももおびき寄せてしまう。
切り取った鼻に付いていた血を川で洗い流す。専用の袋に入れて用事は済んだ。
移動してから休憩しよう。もうすぐ夕暮れだ。今日はこれで終わりだ。
剣を背負い直し、川を渡ろうとする私。その背後でガサガサと何かが近付いてくる音がした。