幕間 ヤクトの民と戦巫女の少女
はるか昔、この森にまだ名すらなかった頃。
森には『害獣』と呼ばれる生物が無数に跋扈していた。
害獣は頻繁に人里へと下り、周辺の村々を荒らし、人を襲い、子供を喰らった。
人々に害獣へ対抗する術はなく、地獄とも思える蹂躙の日々が長いこと続いたという。
そんなとき、森に程近い人里に、一人の女が訪ねてきた。
女は旅人だった。
己を「ヤクト」と名乗った彼女は、危機に瀕した人々の状況を見て言った。
『わたしがどうにかしましょう』
女は人里で信頼を築いた仲間たちと共に、害獣の蔓延る森へと分け入った。
そして、己の命と引き換えに、その森で最も力のあった害獣を討った。
以来、森に住む害獣の数は目に見えて減少したという。
国土の蹂躙に悩まされていた国の王は、ヤクトと共に戦った仲間たちを讃え、彼らに森の所有権を与えた。
仲間たちはヤクトの偉業を忘れぬよう、森に移り住み、自らを「ヤクトの民」と名乗った。
森がヤクト大森林と呼ばれるようになったのもほぼ同時期である。
ヤクトの民は常に森を監視し、人里を守り、再び悲劇が起こらぬよう、害獣と戦うことを己の使命とした。
さらに。
ヤクトは生前、一人の男と愛を育み、子を授かっていた。
偶然か、ヤクトの子は女児であった。
ヤクトの民は男とその子を村に迎い入れ、子に森を守る使命を与えた。
これがヤクトの民と、戦巫女の起源とされる。
ヤクトの血筋に生まれた女児は、例外なく森を守る戦巫女としての使命を帯びる。
クシャマリもその一人だった。
前任の巫女であった母の死に際して、クーはヤクトの名と、巫女の立場を正式に継いだ。
森のために戦い、森のために死ぬ。
それはクー自身、当然のことであると思っていたし、幼い頃より聞かされてきた話だ。
成人すら迎えておらず、しかし慣習に従って使命を課せられた少女は、自分よりも遥かに屈強な村の戦士たちと共に戦うことに恐怖を覚えなかった。
そんなクーがその日、生まれて初めて恐怖心を抱いた。
変化があったのは、つい今朝がた。
見回りに出ていた戦士の一人が、酷い手傷を負って戻ってきたところに端を発する。
「森で『魔獣』を見かけた」
戦士の報告に、村の人々の間に衝撃が走った。
魔獣。クーも詳しいことを知らないが、害獣よりも遥かに大きく、「体内により多くの魔力を孕んだ個体」であると聞く。
一説によれば、初代ヤクトが命をかけて討ったのも魔獣であったという話だ。
女子供は震え慄き、村長たちは大広間に籠って会議を始めた。
会議にはクーも参加し、森を守る戦巫女として意見を述べた。
「王都に応援を要請しよう」
最終的に村長が導き出した答えは、ヤクトの民にとって苦渋の決断だった。
初代ヤクトが魔獣を討ってから五百年。
その間、彼らはずっと森を守ってきた。
今さらになって他者の力を借りるなどもってのほかだ。
しかし、村長の判断に抗弁する者は誰一人としていなかった。
魔獣と遭遇し、命からがら戻った戦士の惨状を見て、反対できる者などいるはずもない。
「すぐに書状を出そう。王都が擁する『聖竜騎士団』は魔獣討伐を専門とする組織だと聞く。彼らに助けを求めば、あるいは」
「しかし村長さま。魔獣が関わってくるとなれば、『教団』のほうも黙ってはいないでしょう。国王の目に触れる前に書状自体が破棄される可能性も……」
「そのときは我々の力だけで対処するしかない」
村長は深いため息を吐くと、会議に参加していたクーと戦士団長のほうへ向きなおった。
「クーとリオンは戦士団を率いて村周辺の見回りに徹しておくれ。くれぐれも慎重に、無理だけはしてならぬ」
「はい」
「心得ました」
二人の了承の言葉で、会議は解散の流れとなった。
そして、見回りに出たクーは、ソレを見ることとなってしまった。
……躍るような身のこなしで短刀を振るい、血飛沫に舞いながら、害獣を苦もなく駆逐していく黒髪の少年の姿を。
物陰から見ているだけでも、彼に対する畏怖のような感情を覚えた。
壮絶な光景。その洗練された動きは美しく、一切の無駄がない。
しかし、クーが少年の動きに見惚れていたのも束の間。
空気そのものを揺さぶるかのような凄まじい咆哮が響いた。
生まれて初めての恐怖を抱いたのは、今日だけで二度目だった。
森の木々を軽々と薙ぎ倒し、現れたのは二つ首の巨大な物体。
それが件の魔獣であると悟るのに、それほどの時間はかからなかった。
足が震えた。まともに立っていられないほどに。
真っ先に逃げたくなった。戦巫女の使命を負う者として許されないと知ってなお。
クーが冷静になれたのは、ひとえに、先ほどの少年のおかげだ。
彼は巨大で異形な魔獣と対峙して、なお対等にやり合っていた。
信じられなかった。目を疑った。
嵐のような猛攻を掻い潜り、勇敢に立ち向かっている。
その姿は、クーの目から見て、お伽噺に出てくる英雄のように映った。
恐くはないのか? どうして一人であんなものに立ち向かえるのか?
そう疑問を抱いた瞬間。
不意に、少年が足を滑らせた。
(危ないッ!)
気づけば、クーは飛び出していた。
同行していた戦士団の援護を受けて、急いで少年の元へと近づいて。
必死にその手を掴み、ひたすら逃げて、逃げて、逃げて。
魔獣の気配がしなくなったところで、ようやく息を吐くことができた。
そして、自分が少年の手を力強く握っていたことに気づく。
顔から火が出そうなほど恥ずかしくなって、慌てて離れた。
少年はそんなクーの様子をポカーンと見ていた。
その後、少年を尋問した。
尋問でわかったのは彼の名前と、記憶を失っているらしいということ。
クーは迷った。
得体の知れないこの少年の処遇をどうすべきか。
少年は明らかに怪しい人間だった。
見たこともない漆黒の髪色と、あの鮮やかな身のこなし。
記憶喪失というのも嘘の可能性が高い。
生かしておくには危険すぎる相手だ。
それでも、クーはその場をいったん保留とし、判断を村長にゆだねることにした。
戦士団に少年を拘束させて、村まで連行する。
何も知らない少年は「いきなりなんなの!?」と仰天していたが、その処遇自体、ヤクトの民にとっては特別待遇だったのである。
(わたし、どうしちゃったんだろ)
戦士に連行される少年のあとを追いながら、クーは自分の胸の中にある経験したことのないモヤモヤに疑問を持つ。
その間も視線は無意識に少年の背中を追い、熱を帯びていた。
要するに、アレなのだ。
ヤクトの戦巫女は、生まれて初めて一目惚れをしてしまったのである。