凪沢隼人の体質。2
車を走らせる事再び1時間。ようやく町にたどり着いた。その頃には車の暖房のおかげで寒さと水の冷たさはなくなっていた。残るは濡れているという居心地の悪さくらいだ。それを早くどうにかしたい海原は、現在地から一番近くにある自分の実家に寄る事にした。もちろん凪沢も道連れである。海原の実家はそこそこ大きな佇まいをしている。父親が弁護士をやっているので、収入に見合った大きさである。海原は地下にある車庫に車を止めると、車庫から家の中へと繋がる扉を使って中に入った。凪沢は車で待ってると言ったのだが、海原が強引に中に入るように進めてきたので渋々家に上がる事にした。海原が強引に進めたのは、もてなそうという善意の気持ちではない。
「あら、何、帰って来てたの?」
地下の階段から上がってきた海原とばったり遭遇した人物。濃い化粧を施し、髪はほぼ金髪に近い。パーマがかかっているせいで余計にギラギラと光って見えるその髪型はスナックのママそのものである。
「息子が帰って来てそれかよ。」
「だってあなたもう半年は帰って来てなかったじゃない。このまま一生帰ってこないんだと思ってた。」
真っ赤なルージュに染まった唇を尖らせて皮肉を言う。
「俺はそれでも良かったんだけどな。」
「じゃあなんで来たのよ。」
本当にこの女は俺の母親なのだろうか。顔を合わせる度にいつもそう思う。息子を息子と思わぬ様な態度や発言。教育的指導とは言いがたく、まるで下僕の様に虐げられて来た海原は、どうしても認めたくない所である。しかし残念な事に実の母親である事はしっかりと証明されている。過去にDNA鑑定をした事があるのだ。その結果が99%の親子関係を証明した。残念だ…とは言っても所詮根底には愛情がある事も知っている。
「着替えに来ただけだよ。」
階段を登りきり、自室に向かう海原に
「着替えってなんで?」
と追求しかけた所で、凪沢が
「夏子さんこんにちは。」
と声をかけた。
夏子には凪沢の姿が見えていなかった様で、一瞬驚いた顔をすると、すぐに大きな口をニンマリと三日月の形にしてキラキラと目を輝かせた。
「隼人くんじゃないの‼︎」
その声は海原と話していた時より2オクターブは高い。まるで数年ぶりに恋人と再会した時の様だ。
「お久しぶりです。」
「本当ねぇ!全然会いに来てくれないんだからぁ!」
「まぁ、機会がなくて…」
「そうよねぇ。あの子がもっと帰って来たらいいのに、仕事だなんだって言い訳して全然来ないんだから。そうだわ、ね、お茶しましょう。こんな所じゃなんだもの。」
夏子はそう言って凪沢の腕を掴むと無理矢理リビングに連れて行った。家が大きければ、中の部屋も当然広い。凪沢にとっては落ち着かない程広く感じる。
部屋を掃除するのは大変だろうなぁと考えていると、強引にソファーに座らされ、レモンティーが入った高そうなティーカップが目の前のテーブルに置かれた。
「ありがとうございます。」
「ふふ、さ、飲みましょ。今日は寒いから温まるわ。」
凪沢がティーカップに手を伸したが、掴む前にすっと浮かび上がった。
「あ…」
凪沢より先に、ティーカップを持ち上げた海原が、我が物顔でそれに口付ける。熱かったのかわずかに眉間にシワが寄る。
「こら俊也!あなたまた行儀の悪い!飲みたいなら自分でいれなさい!」
「こいつより俺の方が冷えてんだからいいんだよ。」
事情を知らない夏子はその意味が分からずに首をかしげる。
「意味の分からないこと言ってないで隼人くんの分入れてきなさい。」
「いいんだよ、すぐ帰るんだから。」
そう言ってティーカップを元に戻す。半分ほど残ったそれを、凪沢は何を気にするでもなく飲み干した。だが少し物足りなさは感じる。
「もう帰るの?せっかくなんだから晩御飯食べていきなさいよ。仕事じゃないんでしょ?」
「仕事じゃないけど、こいつ、送んなきゃなんないから。」
海原が凪沢を指差して言った。
「隼人くんは何か用事があるの?」
「いや、特に何も。」
「ならいいじゃない。ねぇ?」
凪沢は海原を見つめた。
海原も
(少しは口裏合わせろよ…)
と思いながら凪沢を見つめ返した。
そもそも家に無理矢理上げたのは海原だ。夏子と会えばあれやこれやと言われるのが面倒で、凪沢を無理に上げたのだ。しかしそうしなければ、自分一人着替えて出てくるのは容易かっただろうに。
夏子が凪沢を可愛がっている想像は出来ても、この展開までは想像していなかった。
結局、これと言って断る理由も見つからず、それにあまり断りすぎると機嫌を損ねるので夕飯を食べる事になってしまった。
夏子は派手な外見とは裏腹に和食を作るのが上手い。すでに下ごしらえはしてあったのか、テーブルに並んだ料理の量にしては随分と早く出来上がった。
夏子は準備をしている間もしきりに凪沢に話しかけ、凪沢は夏子に対して常に微笑んでいた。
海原はそれをただぼんやりと見つめ、
(俺の前ではこうは笑わないなぁ。)
と思っていた。
「さぁ、食べましょうか。」
と夏子が席に付くと、凪沢は夏子の向かい側に座り嬉しそうに言った。
「久しぶりに夏子さんの手料理食べるなぁ。僕、夏子さんの作る和食大好きなんだよね。」
「そんな事言ってくれるの隼人くんだけよ。俊也も光也もパパもそんな事言ってくれないもの。」
光也は海原の8つ下の弟だ。年が離れているせいか、凪沢はここ数年はずっと会っていない。それは海原も同じだったようで、
「あ、光也元気?」
と海原が聞くと、
「元気よ。あなた家族なのに親戚みたいなこと言うのね。」
と、夏子は殊更冷たく言った。
「光也くん、今高校生?」
「そう、高校2年生。」
「へー、一番楽しい時だね。僕が最後に会った時は小学生だったのになぁ。」
凪沢は高校を卒業してからしばらくは海原とも疎遠になっていた時期がある。その後、あるきっかけで再会するまではお互い噂話すら耳にする事はなかった。なので光也と会うなど以ての外だ。
「多分もうすぐ帰って来るわよ。せっかくだから会って行ったら?」
「そうだね。でも僕の事覚えてないんじゃない?」
「それならそれでいいじゃない。むかし話でもしたら思い出すわよ。なんなら俊也の事も忘れてるかも知れないわね。」
「なんでだよ!俺は凪沢ほどじゃない!」
「似たようなものよ。」
海原も最後にあったのは2年前だった。家を出てから何度か帰ってきてはいるが、光也が不在だったり、短時間しかいなかったりで、結局2年も会っていない。年末年始すら、会うことがない。忘れられてることはないにしても、最後に会った時とは随分変わってるんだろうと海原は思った。
久しぶりの夏子の手料理とあって、いつもより食が進み、あっという間にテーブルの皿は綺麗になった。海原も凪沢も久しぶりの美味しい料理に満足していると、玄関の方から
「ただいまー。」
と声が聞こえた。
「あ、光也が帰ってきたわ。」
その声が聞こえてから間もなくリビングの扉が開かれる。その先に立っていたのは、茶髪で制服のボタンも半分しか止めていない、まさに不良を形にした高校生だった。
その姿には凪沢だけではなく、海原も目を丸くした。
(あの頃と違い過ぎるだろ…)
と二人は思った。
しかし目を丸くしたのは光也も一緒で、海原が居ることに驚いていた。
「うっわ、珍しい!何?なんかあったの?あ、結婚?」
その位の事が無ければ居るはずがないと思っているのだ。2年も会わなければそう思うのも無理はない。
「ちげーよ。そんなん陰りもねーわ。」
「それはそれで寂しい話だな。で、本当にどうしたの?」
「なんもねーよ。こいつと出掛けてた帰りに着替えに寄っただけ。」
海原が隣に座る凪沢を親指で差して言うと、それにつられて光也が凪沢を見た。その瞬間、光也の目は海原を見た時よりも大きく開かれ、
「うそ‼︎」
と声を上げた。
「こんばんは。お邪魔してます。」
凪沢が微笑みながら挨拶をすると、光也の顔はみるみると赤く染まり
「ここここんにちは!」
と言った。
「え、なにその反応。怖いんだけど。」
海原は光也の赤面に一抹の不安を覚えた。
「光也、覚えてる?」
夏子が聞くと光也は大きく何度も頭を縦に振った。
「凪沢隼人さんですよね⁉︎まさか会えるなんて…‼︎隼人さん2年前に個展開きましたよね。俺あれに彼女と行ったんですよ、兄貴がチケットくれて。あ、もうその彼女とは別れたんですけど。」
2年前、確かに個展を開いていた。3日間という短い期間しかやらなかったのだが、光也は来てくれていたらしい。
「そうだったんだ。ありがとう。」
「俺めっちゃ感動しました!あんな写真見た事ないです!風景だけなのに表情があるっていうか、楽しい気持ちになったり切ない気持ちになったり、写真見てそう思ったの初めてだったんですよ!彼女も見ながら感動してたみたいで、写真集買ってましたよ。あ、もう彼女じゃないんですけど。」
「いちいち最後にいらん事ぬかすなよ。」
海原が怪訝な顔をして言った。
「2年前のは海原と初めて一緒に仕事した個展だったんだよ。照明とか配置は全部海原が決めたから、感動も海原のおかげかな。」
海原はイベントなどのコーディネーターをしている。一つのブースに何をどう置くか、照明はどの角度からどの位の明るさで当てるのか、細かいところまで指示を出す。海原の勤める会社は個人事業なのだが、小さな個展から大手企業のイベント依頼など規模は様々だ。規模は違ってもそのイベントに合った最良の空間を作り上げるのが海原の仕事だ。
2年前、凪沢は海原に個展を開かないかと提案された。海原が何を思ってそう言ったのか分からなかったが、凪沢は二つ返事で了承した。それからわずか1ヶ月後には小さな個展が開かれ、3日間という短期間で1万人が来訪した。
「でもあれは良かったよな。俺もあんなに人が来るなんて思わなかったよ。全然来なかったから困ると思って色んな人にチケット配ったんだわ。」
「確かにいっぱい来てくれたよね。特別宣伝もしてなかったんだけど。」
「駅でポスター貼ってもらっただけだよな。」
2人がその時を思い出して不思議そうに首を傾げた。それを見ていた夏子と光也は同じ顔でため息をついた。
「隼人くん、分かってないわ。あなたって世間では結構騒がれてるわよ。若きイケメン写真家って。」
その事実に凪沢だけでなく海原も驚いた。
「コイツがイケメン⁉︎ないない‼︎」
「そうだよ、夏子さんの贔屓目じゃないの?」
それには光也が反論した。
「それがマジなんだって兄貴。確か今日もなんかの番組で紹介されるって言ってたぜ。」
光也がおもむろにテレビをつける。何回かチャンネルを変えた後、
「これだ。」
と言って止めたのは【世界の絶景100】という特別番組だった。
「これの中で隼人さんの撮った絶景の写真と、隼人さんの事も少し紹介されるみたいですよ。」
「なんでお前がそんな事知ってんの?」
「公式サイトに載ってた。」
「そんなの…チェックしてんだ…」
弟とはいえ、凪沢に対する執着心に恐怖を覚えた海原だった。しばらくテレビを見ていると、光也が言った通りに写真が紹介された。VTRで海の絶景を紹介したあとに、その場所を撮った美しい写真として紹介され、更にその写真を撮った写真家として女性アナウンサーが触れる程度の紹介をした。
『皆さんもご存知かと思いますが、こちらの写真を撮られたのは今をときめくイケメン写真家の凪沢隼人さんです。19歳の時にはすでにプロの写真家として活動し、この海の写真は20歳の頃に写真集を発売する際に撮られたそうです。』
まごう事なくテレビの中のアナウンサーは澄んだ声で「イケメン写真家」と言った。海原と凪沢は眉を寄せて訝しみ、夏子と光也は目をキラキラさせてテレビに映る海の写真を見ている。
「ね、言ったでしょ。むしろなんであなた達が知らないのか不思議なものだけど。そういうの、番組側から連絡が来たりするんじゃないの?」
夏子の疑問に凪沢は困った顔をしていった。
「来てると思うんですけど、テレビは見ないからどういう番組かよく分からなくて、とりあえず紹介程度ならOK出しちゃうんですよね。俺のサイトも写真集を発行してくれた出版社さんが特別に管理してくれていて、詳しい事はその担当にお任せしてるので。写真の紹介はもっぱら写真集から抜粋される事が多いから、結局出版社さんに確認も取らなきゃならないし。」
「お前のそのズボラな所をわかってくれてるわけだ。」
海原の言葉に凪沢が頷く。
「丹野さんだよ、個展開く時に写真集の納品してくれたでしょ?」
海原は2年前を思い出す。数秒思案して思い立つ人物がいた。
「あぁ、あのメガネの弱そうな人?」
「そう、弱そうって言うか、温和なんだよね、凄く。まぁ、喧嘩は弱そうだけど。」
「あの人ならそういう世話とかしそうだな。個展の時も色々やってたもんな。マネージャーみたいだった。ご飯準備したりな。」
色々と思い出してきて海原は笑った。
「そう、気にしなくていいって言ってるのに何かと気にかけてくれてるんだよね。」
「まぁ、分からなくはないけどな。お前を見てたらつい手を出したくなるのは。」
海原がヘラヘラと笑いながら言うと、凪沢は片眉を上げ、心外だという顔をした。
「よく言うよ、今日は俺が海原を湖から助けてやったっていうのに。」
「なにそれ、湖?」
夏子が食らいつく。海原はさっきまでの表情から一変し、明らかに動揺していた。
「そう、岩澄湖まで写真を撮りに行ったら、湖に落ちたんだ、この人。そこから引っ張りあげて上げたのが俺。あのままだったらさすがに危なかったと思うんだけどな。」
意地の悪い表情を浮かべて、横目で海原を見た。海原はパクパクと口を開け、反論したいのに何も言葉が出なかった。
「だから着替えに来たのね!あんたバカじゃないの!」
夏子は豪快に大口を開けて笑い、光也も腹を抱えて笑っていた。
「だってしょうがねぇだろ!森から何か飛び出してきたんだよ!びっくりして後ろに下がったら落ちたんだ!」
開き直ったのか、頬を少し赤く染めながら海原は言った。
「大体あの湖に柵が付いてないのがおかしいんだよ!誰だって落ちんだろ!」
「それはしょうがないよ、あまり人が立ち入る所でもないし、自然をありのままに残しておきたいっていう意向があっての事なんだから。」
「それは分かってるけど…。そういえば、森から出てきたのって何だったんだ?」
湖に落ちてからはそんな事を気にしている余裕がなく、急いで車に乗り込んだので、その事は頭からすっぽりと抜け落ちていた。
「あぁ、それね。」
そう言って徐にカメラを持ち出した凪沢は、ある一枚の画像を見せてきた。
「これ。」
差し出されたカメラのモニター部分を凪沢を除く3人が覗き込んだ。
「あっ」
3人が一様に同じ反応をした。凪沢がクスクスと小さく笑う。
「そう、キツネ。」
森から飛び出したキツネは空を飛ぶように高く高く舞いがあり、体にまとっていた雪は舞い落ちて、キラキラと輝く星屑のように見えた。
「…ねぇ、隼人くん。あなたやっぱり凄いわ。」
夏子は画像を凝視したままポツリと呟いた。
声には出さなくても、海原も光也も同じ事を考えていた。
「ふふ、ありがとうございます。」
柔らかい笑顔で素直に感謝の言葉を口にする凪沢は、頬を赤くして照れている様でもあった。
「他にも色々撮ったんでしょう?見てもいい?」
「どうぞ。」
夏子にカメラを手渡した。覚束ない操作で画像を切り替えていた夏子が急に大笑いをし出したのはすぐの事だ。
「え、なに?どうしたの?」
光也もその画像をみた瞬間にまた腹を抱えて笑いだした。
「なに?」
海原は何か嫌な予感を抱えながら覗き込むと、そこにはキツネに驚いて湖に落ちるまさにその瞬間が写っていた。
「おま…お前!」
顔を真っ赤にして怒る海原を見て、凪沢は珍しく声を上げて笑った。
「写真って怖いよねぇ」
笑いすぎて涙が滲む目をこすりながら凪沢が言った。
「お前が言うな!」
海原はその画像を消そうとカメラを奪おうとして、夏子に手を弾かれる。
「これ、傑作ね!いい写真だわ。家に飾ろうかしら!」
「やめろ!」
海原の顔はこれでもかと言うほどに赤い。それは羞恥からなのか怒りからなのか分からない程に。凪沢はそんな海原を見て、懐かしい気持ちになっていた。
いつの事なのか分からないけど、いつかもこうやって声を上げて笑っていた。いつからそうではなくなったのか、もう思い出せない。
流したままになっていたテレビは、いつの間にかニュース番組に変わっていた。
そのニュースでは、少女が行方不明になった事を伝えていた。深刻な顔をしたアナウンサーが、『少女に関する情報を集めています』と言った。