凪沢隼人の体質。1
岩澄湖は凪沢の家から車で約1時間かかる。道中はほとんど無言に近く、助手席に座る凪沢は眠そうに目を細めている。海原は胸ポケットからタバコを取り出して片手で器用に火を付けた。窓を少しだけ開けると紫煙が吸い込まれる様に外に流れる。凪沢が小さくケホッと咳をした。そういえば凪沢はタバコが苦手だった。それでも吸うのはやめないけれど。
「ねぇ、海原はいつからタバコを吸うようになったの?」
凪沢は外を見つめて言った。
「多分、高2。」
「ふーん、悪い高校生だね。」
「皆やってんだろ。」
あえて凪沢に向かって息を吐く。ちらりと目線だけを海原に向けて、眉間には小さな皺を刻んだ。
「やってないよ。少なくとも俺はやってない。」
凪沢は些細な反抗をするが、海原はそれを意に介さずに「お前は変なところでいい子なんだよな。」と言った。
「変な所って。法律で決まってる事を守ってるだけでしょ。」
まぁ、全くその通りなのだが、世間の厳しさはまだ徹底しているとは言い難い。自販機からは未成年者が購入出来ないように工夫がされているが、コンビニなどで買うには外見が大人びていたら気づかないだろうし、曖昧でもなかなか確認するのに勇気がいるものだ。それに、身近な大人がそれを許してしまえば、手に入れる事は簡単であろう。与える者も強く罰せられなければ、なかなか未成年者の喫煙を防ぐ事は難しいのかも知れない。
そんな他愛もない話もたまに挟みながら、車は神秘の湖へと向かう。
岩澄湖に着いたのは15時を回った頃だった。朝方に雪が降ったせいで道が悪く、結局1時間半もかかってしまった。岩澄湖に行くには歩いて林を抜ける必要がある。その小道だけが、唯一人が手を加えた場所だ。凪沢は首から一眼レフのカメラを下げ、海原は手ぶらでその小道を歩く。林を抜けるまでに5分、その間、誰ともすれ違う事はなかった。林を抜けるとすぐ目の前に岩澄湖が現れる。柵もない湖は、本当にあるがままの姿でそこにあった。
「前回も見たけどやっぱり透けてるなぁ。」
海原が湖を覗き込む。今日も変わらず手を伸ばせば届きそうな場所に底が見える。
「落ちないでよね。」
凪沢が海原の後ろでその姿を眺めながら言った。
「泳げるから大丈夫だろ。」
「この寒さでも?」
「…多分」
凪沢がふふっと小さく笑う。凪沢は昔からそうだ。男らしさと言ったら少し違うかも知れないが、凪沢の所作には重さがない。大きな声で笑ったり、怒鳴り散らしたりする所を海原は見たことがないし、咳をするにも、くしゃみをするにもなんだか勢いがなく、見ているこっちがすっきりしない。しかし、長年付き合ってきた海原は、もうそんな事はいちいち気にしていないのだが。
「俺、写真撮ってくるから。」
そう言い残して凪沢は湖の縁をのんびり歩いていく。海原も特にやる事がないので、なんとなくその後ろを少し遅れて歩きながら、そろそろ陽が傾き出すなぁと思っていた。なんだかんだ前回よりも到着が遅くなってしまっている。こんな事なら前回も写真は撮れたのに。そう思いもしたが、凪沢にはそれはあまり関係ないようだ。今も軽快にシャッターを切る音が聞こえる。先週と今の違いがなんなのか。海原には分からないその境界線が、凪沢の中には存在するのだろう。
凪沢がシャッターを切り出してから5分程経った時、林の方からガサガサと草木の擦れる音がした。風が吹いて擦れているわけじゃなく、何か生き物が歩いているが故に擦れている。そういう音だった。海原はぴたりと足を止めた。全身に緊張が走る。音のする方に体を向けたまま視線は凪沢を追いかける。凪沢はこの音には気付いていないようだ。擦れる音は次第に近づいてきているように聞こえる。それとも恐怖心からの錯覚なのか。錯覚であればいい。海原が音のする方を凝視していると、林の中から急にバサッと何かが飛び出してきた。海原の心臓は跳ね上がり体が勝手に後退る。しかしそこに地面はない。グラっと体が傾き何かを掴もうとした手は宙を掴む。つまり何も掴めないまま、海原は見事に湖に落ちた。
「だっ…冷たッ‼︎」
針で貫かれた様な鋭い痛みが電流の様に足から頭へと駆け抜ける。凪沢が言うように、最早泳げる泳げないの話ではなかった。
「ちょっとちょっと。本当に落ちないでよ。」
写真を撮るのに夢中だった凪沢がいつの間にか近くに来て海原を見下ろし呑気に言った。そんな「悠長な事を言ってる場合か!」と心の中で叫んでいたが、とにかく今は湖から這い出る方が先だった。凪沢が手を差し伸べ、その手を掴んでなんとか這い上がる。服からはボタボタと水が滴り落ちていた。
「ちっ…もう帰るぞ!」
歩く度に靴からジュワッと水が溢れて気持ち悪い。濡れた服もそれだけで冷たくて敵わないのに、その上風が吹くと最早氷を纏っているのと大差はない。海原はぎこちない動きで車へと急ぐ。凪沢はその姿を見てまた、ふふっと笑った。
車にたどり着いたは良いものの、濡れたままで乗る事は出来ない。後部座席にタオルか何かなかったかと探していると、凪沢が「はい」とタオルを渡してきた。凪沢にしては珍しく準備がいい。というか、良すぎる。海原が湖に落ちることを想定していたわけでもあるまい。海原は疑問に思いながらも、今はありがたい存在なので「サンキュ」と言って受け取った。受け取って気付いた。これはどう見たって凪沢のものじゃない。海原が知る限り凪沢は、ピンクでしかもなんだか分からないウサギの様な白くて耳の長いキャラクターがプリントされたいかにも乙女チックかつ子供染みたものを持つ様なタイプではない。余程の趣味でも持っていなければ、凪沢に限らず25歳の男が持つ様な代物でもない。
「お前…なにこのタオル?」
実は乙女趣味…という可能性も捨てきれないので念の為聞いてみた。
「さっきそこですれ違った人がくれた。海原が湖に落ちたところ見てたみたい。」
すれ違った人なんていただろうかと思ったが、そんな事よりあんな無様な姿を見知らぬ女性に見られていたなんて大恥も良いところである。その人が戻って来たりしないうちに早く帰ってしまいたい。海原は急いで体の水を拭き取ると早々に車に乗り込んだ。こんな状態でも自分で運転して帰らねばならないなんて過酷にも程がある。
「あ、タオル返さないと。」
そのまま持って行くわけにも行かないが、恥ずかしすぎて顔を合わせたくはない。どうしたもんかと悩んでいたが、「あぁ、それ持って行っていいって。また戻ってくるのも大変だからって。」
実にありがたい話だ。女神なんじゃないのかと思う。海原はお言葉に甘えて、そうさせてもらう事にした。心の中で「ありがとう、女神様。」と呟いた。