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凪沢隼人という人間。2

海原俊也はラーメンが大好物だ。昼はほとんど、会社からほど近い場所にあるこのラーメン屋で味噌ラーメンを食べている。このラーメン屋に来る理由はあくまで会社から近いという立地条件のみだ。味はお世辞にも美味いとは言えない。だが、不味いなら不味いなりに癖になってしまうのが不思議だ。今日も変わらず不味いラーメンを啜っていると、胸ポケットに入れていた携帯が震えた。長く振動しているので電話だとすぐに分かった。ポケットから取り出すと、ディスプレイに表示された名前を見ずに通話ボタンを押した。

「はい、海原です。」

出始めに名前を名乗るのは仕事上の癖だ。それがプライベートで、相手が誰か分かっていても必ず名前を名乗ってから会話を始める。

「もしもし?凪沢だけど。」

電話は凪沢隼人からだった。小学生の頃からの友人だ。海原が「あぁ、なんだお前か。」と言うと、凪沢は「え?誰だと思ったの?」と聞いた。だが、海原は特定人物を想像していたわけではなく、ディスプレイを見なかった結果、「誰だろう?」と思っていただけなので、その疑問には答えなかった。

「いや、で、どうした?」

ラーメンを啜りながら話の続きを促す。仕事の電話なら絶対にやらないが、凪沢が相手ならズルズルと啜る音が聞こえていようとも気にしない。

「うん、今日さ、また岩澄湖に写真撮りに行くんだけど、一緒に行かないかと思って。」

海原と凪沢が生活拠点とする地域は、都会に比べると幾分か自然がそのまま活かされている。その中でもほとんどが手付かずのまま残されているのが岩澄湖という湖だ。岩澄湖は水深7mの湖なのだが、水が清らかで温度も一定に保たれる環境のおかげで覗き込めば底が見える。手を伸ばせば触れるのではないかと思えるほどに近く見えるが、実際は足も到底つかない深さだ。その鮮明度と、人の手が加えられていないありのままの自然に囲まれた湖は、凪沢が常に持っている写真を撮る上のコンセプトに合致している。1週間前にもそこを訪れていたのだが、その時は道に迷い湖にたどり着くのに時間がかかってしまった。向かった時間も昼過ぎと遅く、着いた頃には陽が傾き始めたので写真は諦めて帰ってきた。今日はそのリベンジに行くつもりらしい。が、

「でももう昼だぞ?今から行っても前と同じ事になるじゃないか。」

そうなのだ。前も昼過ぎに向かい、結局断念しているのだから、今回も似たようなケースになる可能性が非常に高い。

「だって前回は迷ったじゃない。今回はもう道がわかるから迷わず行けるよ。」

確かにそれはそうなのだが、迷ったと言っても10分程度同じ場所を行ったり来たりしただけなのだ。ならば今回スムーズに行けたとしても撮影に回せる時間は10分程度しかないという事になる。そんなもので行く意味はあるのかどうか、海原には無駄にしか感じていなかった。しかし、それを言う方が無駄な事は、長い付き合いの海原には分かっていた。この男は、こうと決めたら意地でもやるのだ。

「分かったよ。迎えに行けばいいのか?」

「あ、助かる。」

凪沢は殊更明るく言った。狙いはやはり車か。凪沢は車を持っているが、免許を持っていない。車は父親が乗っていたのをそのまま譲り受けている。何故免許を取らないのかと聞いた事があるが、凪沢は「だってめんどうくさいでしょ。」と答えた。それ以上の追求はしない。それが全ての答えだからだ。車は仲間内で出かける時にたまに使っているのでメンテナンスはされているから、動かそうと思えばすぐに使える。だが、持ち主が使わないのじゃ、維持費がやたらとかかるだけの厄介な物だと思うはずなのだ。それでも、凪沢は絶対に車を売ろうとはしなかった。


かくして運転手として遣わされた海原はラーメンも食べ終わり、一度会社に戻ると外回りのまま直帰する旨を上司に伝えてまた外に出た。会社から凪沢の家までは10分程度でたどり着く。今日は信号にもほとんど引っかからず、10分もかからなかった。凪沢の家は古い木造の一軒家だ。中学生の時に、父親が事故で亡くなってからはずっと1人で住んでいる。身内は他にいない。と海原は聞いている。母親が何故いないのかは追求したことが無いので分からないが、凪沢と初めて会った時からすでに母親の存在はなかった。離婚か、死別か、どちらにしても聞いていい話でもないので聞く気にはならない。ただ、父親の事故死は海原にとっても身近に死を感じた瞬間であり、その連絡を受けた時は衝撃が走った。

海原も凪沢の父親とは面識があった。何度か家に遊びに行く事もあったし、泊まりに行く事もあったからだ。あまり口数が多い人ではなかったが、男の優しさが滲み出ている人で、愛情だけは人一倍強かった様に見えた。そんな凪沢の父親が亡くなったのだ。唐突に命が奪われる恐怖を感じた。葬儀には凪沢と同じクラスだった人達はほぼ全員が来ていた。中には父親と面識がない奴もいたのだろうが、あの重い空気の中で笑う者は一人もいなかった。当時海原は違うクラスだったのだが、葬儀には参列した。母親が行けと言ったのもあるが、自分でも行かなければという気持ちがあった。しかし、いざ行ってみれば自分の立ち位置もよく分からず、凪沢の姿を見つけてもなんて言ったらいいのか分からずに狼狽えていた。焼香を済ませて凪沢に向かって小さく頭を下げる。凪沢も小さく頭を下げた後、海原の目を見て言った。

「皆いなくなっちゃった…」

海原を見る凪沢のその目には涙が溜まっていた。今にもまぶたからこぼれ落ちそうなそれを袖で拭い、凪沢はまた遺影に視線を戻した。海原は何も言えなかった。何を言っても薄っぺらい言葉にしかならないと思った。両親は健在で兄弟もいる。皆、愛情に溢れてるとは言い難いが、それでも家族として側にいる。そんな環境の人間が、今全てを失ったという人間に何を言えただろうか。上っ面の言葉を口にするのだけは絶対に嫌だった。だから海原は何も言えなかった。ただ、共に故人を悲しむ事だけは許されていた。


海原はもう何度目か分からない、凪沢家の敷居を跨ぐ。呼び鈴はない。いや、あるけど鳴らない。なのでそのまま扉を開けて中に入って行くのが定例だ。来客はどうしているのだろうかといつも思う。広い玄関で靴を脱ぎ、ドカドカと当たり前のように廊下を進む。間取りは知っている。廊下を間に右側には仏間がある。左側はリビングだ。廊下を突き進むと階段があって、二階には凪沢の部屋がある。対面にはもう一部屋あって、そこは来客用の寝室になっている。凪沢はリビングにいるのだろうかと行ってみたが姿がない。自室で準備でもしているのかと思ったが、階段に足を向けてふと思いとどまる。仏間だ。海原はそう思った。そうだ、そうだった。今日は凪沢の父親の命日じゃないか。海原が静かに仏間の扉を開けると仏壇の前で正座して手を合わせている凪沢がいた。

「あ、来たんだ。早かったね。」

凪沢は海原を見つけて明るく言う。

「あぁ、つうかお前なんで言わないの?今日、寿昭さんの命日じゃん。」

少し苛立った口調で言うと、凪沢はきょとんとした顔で「なんで?」と言った。

海原は「それはこっちが聞いてんだ。」と言いかけたのだが、口からは息だけが漏れた。凪沢の父親が亡くなってからもう10年以上が経っている。最初は知人なんかも手を合わせに来ていたのかも知れないが、今は多分凪沢一人だ。凪沢自身も誰かに手を合わせてもらおうだなんて、父親の死を悼んでもらおうなんて思ってはいないのだろう。だから言わない。言うつもりがないのだ。凪沢にとっては海原もその他の知人も父親を通して見たら変わらない立ち位置にいるのだろう。それもそうだ。命日を忘れていたのだから、それは同じ事だ。なんの文句が言えただろう。口をつぐんだ海原を見て、凪沢は尚も不思議そうな顔をしていたが、海原は「早く準備しろよ。行くぞ。」とだけ言った。「そうだった、そうだった。」と言いながら仏間を出て階段を登っていく凪沢の後ろ姿を見送ってから、海原は仏壇に向かって手を合わせた。

仏壇には凪沢の父親である寿昭の遺影と寿昭の名から1文字取った法名がある。海原は凪沢の父親を「寿昭さん」と呼んでいた。凪沢が父親を「寿昭」と呼んでいたからだ。父親を名前で呼ぶという事に最初は違和感こそあったのだが、いつの間にかそれが自然なもので、2人が親子というより兄弟や親友の様な関係であった姿を見れば、それの方がしっくり来るようになった。海原は遺影を眺めながらぼんやりと思っていた。


凪沢は、父親を亡くし、最後の肉親を亡くし、気の合う親友を、あの日失ったのかと。

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