かくれんぼ
昔、私がこどもの頃、それは日本が高度成長期と言われた時代だが、空き地によく古い冷蔵庫が棄ててあることがあった。当時のこどもたちはかくれんぼをする時、いろんなところに隠れた。隠れられる場所ならどこにでも隠れた。棄てられた冷蔵庫など、その最たるものだろう。けれどもあの冷蔵庫というものは、一旦閉めてしまうと、中からは開かない構造になっているらしい。こどもの力なら当然のこと、決して開かない。その為、かくれんぼの最中に冷蔵庫に閉じこめられて、酸欠死するこどもが相次いだと言う。私たちは親や学校の先生によく言われたものだ。どんなことがあっても、冷蔵庫の中にだけは隠れてはいけないよ(私自身、冷蔵庫の中に這入ったことがないから何とも言えないが、あるいは冷蔵庫に隠れて酸欠死したこどもは、小さな冷蔵庫の中で鬼を待っている内、またたく間に酸欠状態になってしまったのかもしれない)。
私は居間の炬燵にぼんやりとしていた。座椅子に深く腰かけていた。何時なのか判らない。部屋には時計の類のものはなかったし、テレビもラジオもなかった。あるのは腕時計だけだったが、とうに電池が切れていて動かなかった。
時刻など私にはどうでもよかった。もう幾日もこんなことをしていたような気がする。いつからだろう。何も食べていない。カーテンは閉めたままであって、カーテンを透かして光など入ってくる時間帯ではなさそうだったので、外は昼でないことは明白であったが、私は隙間から外を見るのも恐ろしく感じていたから、この数年間というもの、一度もカーテンを開けたことはない。
私は精神を病んでいた。統合失調症だった。それはハンディではあったが、一方で作家を目指していて、もうずいぶんいろんな小説を書いた。それ以前は詩人として一部に知られていた。俳句もやっていて結社の同人をしていたこともあるが、金が続かなくなり、辞めてしまった。けれど俳句も詩も未だに詠んでいる。小説も書いているが、あることがあってすっかり自信を失くし、ここのところ何も書いてはいなかった。そんなことはいいが、ともかく、眠かった。死にたくなるほどに眠かった。部屋にいて起きていても、眠いことに変わりはなかった。部屋に俯いてまどろんでいると、大きな声が聞こえたけれど、その声は異国の言葉のようで、何を言っているのかさっぱり判らなかった。
目が醒めると真夜中だったと思う。外の様子に耳を澄ましたが、おもてを人が通っている気配はなかった。もともと夜、人が行き来するような界隈じゃない。外を見たわけではないが、空気がそう言っていた。
しばらくして北側の玄関の呼び鈴が繰り返し鳴った。人の気配がしないのにこれが鳴ること自体、怪談めいている。私は基本的に呼び鈴が鳴っても応答しないことにしている。誰か確認できない限りは応答しない。絶対にしない。
それでも誰なのか気になったから、立ちあがって玄関の覗き穴から覗いてみた。誰もいないようだ。そう思っていたら、唐突にがらがらと音を立てて南側の窓のシャッターが下りた。誰が閉ざしたのか。こんな夜に。突然で、何のことなのか私には意味が判らなかった。夢なのかとも思った。私は以前にもこんな夢を見たことがあるような気がする。
とにかくシャッターを開けようと思った。が、どういうロックが掛かったのか、みしりとも動かない。何故開かないのか。このシャッターは内側からもロックを掛けられる式だが、そのロックは掛かっていないようだ。他にもロックがあるのだろうか。どこかが引っかかっているのかもしれないが、とにかく私の力ではどうにも開けられない。玄関のドアから出て、外の様子を見てみようかと思った。まだ誰かいるかもしれないが、外灯を点けておけば変な奴は来ないだろう。それでドアのロックをひねって玄関を開けようとしたが、このロックが何故かびくともせず、解除できない。ドアノブをしきりに動かしたが、開かない。どういうことなのだ。この部屋には他に窓も出口と言えるものもない。つまり私は完全に閉じこめられてしまった、ということか。これは夢だ。そうに違いない。と思ったからしばらく眠ることにした。真っ暗だと怖いので、明りを点けたまま眠った。私はいつも蛍光灯の明りを消さずに眠る癖がある。どのくらい眠っただろう。自分の感覚では一、二時間ほどであったろうか。再び窓を開けてシャッターを揺さぶってみたり叩いたりしてみたが、閉まっていることに変わりはない。玄関はどうだろうといろいろやってみた。近所迷惑と思いつつ、蹴ったりもしてみたが、ドアは頑丈で開かない。思わず呟いた。夢ではなかったんだ。
あ、そうだ。電話だ。電話をかければいい。とにかく助けを呼ぼう。まだ目が醒めたばかりでぼんやりしていたが、考えた。この部屋に電話は無い。携帯電話はどうしたんだったか。見当たらない。変だな。何故携帯電話がここにないのだろう。そのこともこの期に及ぶまで私は忘れていた。私は携帯電話をよく失くす。以前も失くしたまま一週間ほど出て来なかったことがあった。その時携帯は意外にも、座椅子のクッションの裏という、ごく身近な場所に隠れていたのだが、こういう度忘れを時たま私はやる。そのうち出てくるだろうか。
パソコンはあることはあるが、ずいぶん前からメールが出来なくなっている。インターネットも接続不良で繋がらない。何者か、ハッカーの仕業かも知れないが、そうではない可能性もある。とにかく、そんな理由もあって、私はいつしか生活が投げやりになっていた。
助けを呼ぶとしてもどうすればいいだろう。私はアパートの隣人のことを考えた。この建物は二階建てで昔から人の住まないアパートであった。八室あって、二階には誰も住んでいなかったが、私の住む一階の一号室とその東隣、二号室だけ人が住んでいた。けれどもどう伝えればいいだろう。東隣の人は癇癪持ちで、以前も、物音がうるさいと玄関のドアを蹴られたことがある。
どんどんと、壁を叩いてみた。あいにくこちらはモールス信号のような高等な伝達手段は知らない。とにかくどんどんと、繰り返し叩いてみた。
すると、しばらくして向こうから、どん、と物凄い音で壁を叩かれた。叩いたというより、思い切り足で蹴られたようだ。
それで、「助けてください」と叫んでみた。繰り返し叫ぶと、もう一度、壁を蹴るような物凄い物音が聞こえた。そして、南側の窓が開き、
「この野郎。いま何時だと思ってやがる。今度やったら、ぶっ殺すぞ」と凄むような叫び声が聞こえた。
そうか、やはり真夜中だったか。ならば当然だ。申し訳ないことをしてしまった。これではいくらやっても無駄だ。こんなことをやっていても隣人は助けてはくれない。それで私は助けを求めることをしばらくやめにした。
自分がこのまま出られないということは、まずないと思うが、とにかくうまく出られる方法を考えないと。大丈夫。うまくすれば出られるはずだ。問題は助けを呼ぶ方法、手段だ。
この、山のふもとのアパートの西隣には、もう一軒、大きな三階建の社宅があったけれど、その会社が倒産したせいでつぶされ、今は広大な更地になっている。東隣は交通量の非常に少ない道路がある。つまりここらは大変寂れた区域であると言うことだ。南側はこれもだだっ広い駐車場兼更地。その南は広域避難所になっている。何もない広場である。その南は深い森だ。こんなところで大きな音を立てたところで、誰にも聞こえない。北には隣に社宅があった時代から二m近い、高いブロック塀がある。その向こうには東西に、やっと普通車が行き交える程度の、蛇が蛙を呑んだような狭い道が走っていて、その北は倒産した会社の駐車場であった関係で、現在車はまったく停まっていない。その周辺はすべて山麓特有の森に覆われている。そして人家はない。つまりここらは僻地で、半径百m以内に人の住む家は一軒もないということだ。
あの、ドアのロックは何とか開かないだろうか。私は今になって部屋にプライヤーなどの工具がないことを、つくづく後悔したが、そんなことを言っても始まらない。硬い棒のようなもの。たとえば調理用具のおたま。ちょっと使えるだろうか。試してみたが、ロックは左へ(下へ)ひねって開ける式で、ドアノブの上に付いているので、てこの原理では開けられないし、このロックの堅さからすると、仮にてこの原理を使ったとしても、おたまのようなひ弱な調理器具では簡単にひん曲がってしまうかも知れない。菜箸も同じく。二本使って挟んでもみたが、重くてピクリとも動かない。これ以上やったら折れてしまう。ハンマーがあったから、錆びついているのかとロックをカンカン叩いてもみたが、まったく反応は無かった。そういうことではないらしい。
紙にメッセージを書いて外に出すことも考えた。郵便受けから出せるだろうか。やってみた。紙を半分だけ出して郵便受けに挟んだままの状態にしておく。そうしてしばらくして玄関に行ってみたら、紙が無くなっていた。風で飛んでいったのだろうか。そんなはずはないが。それで今度は郵便受けの閉じ口のところへ、テープで剝がれぬようしっかり紙を留めた。すると、しばらくして紙は引きちぎられていた。誰かの仕業だろうか。よく判らないが、紙のメッセージを書くのは無駄な試みだったのかも知れない。
ドアの間からは、とも考えたが、結果は同じだろう。隣人か何者かによって、妨害される。何故こんな目に遭うのか判らない。とにかく助かる手段が一つ消えた。もうメッセージを伝える方法はドアを叩くか声しかない。そう考えて、私の心はまた暗くなった。
実家から助けが来ることはあり得ない。私は時々実家へ行くことがあるが、向こうからの訪問を受けたことはない。私は一人っ子であるし未婚の独身で子供もいない。また、父も母も高齢で脚が悪く、車の免許もない。よって向こうから私の部屋を訪問するなどと言うことはあり得ない。
よくないことを思い出した。肝心なことを忘れていた。先日、母から「もう来ないでくれ」と絶縁を言い渡されたのだ。父は黙っていた。つまり両親とも意見は同じということだ。うろたえた。私は前述のように精神を病んでいて、長年両親に精神的にも金銭的にも負担をかけ過ぎた。けれど、そう言われたことがショックだったために、逃げるように実家を出て、そそくさと帰ってきてしまった。その時不注意で携帯電話を実家に置き忘れてきたようだ。そうなのだ。携帯はきっと実家にある。そして実家はそう無闇に遠くない。歩いて行ける距離ではないが、車やタクシーならすぐだ。普通の親なら持ってくるだろうか。そう言う親もいるかもしれない。だが、父も母もものぐさで、わざわざ携帯電話を届けに私の部屋へ来るような、奇特な人ではない。それにもちろんパソコンも持っていないし、キーボードの打ち方どころかメールの打ち込み方も知らない。携帯メールすらやったことがないのだ。よって私のパソコンがメールを使える状態にあったとしても、親からメールが来ることもないし、メールが不通になっていることなどに気づく親でもない。返信の仕方も知らないのだ。そのうち携帯電話は私の方から取りに来るだろうと思っているかもしれない。少なくとも、私が来なければ来ないで勿怪の幸いと思っているだろう。私の顔など二度と見たくないと思っているはずだ。誰が好き好んで、携帯電話など届けに来るだろうか。
私は生活保護を市から頂いて暮らしている。よって民生委員の人が来るかもしれない。しかし、年が改まって、今年の一月から担当の委員さんが代った。一度顔を見せに前任の人と一緒に来たけれど、その時の様子では、私を見て、怯えているようだった。実際、以前の民生委員さんはドアを開けて私が顔を見せないと、市役所からの封書を渡すようなことをしなかったけれど、今度の人は、先月ノックだけして、郵便受けに封書を投函し、何も言わずに行ってしまった。もしかすると今月もそうかもしれない。だとすると望みは持てない。
インターネットが出来ていた時は今日が何日か意識していたけれど、接続不良になってから、一度深夜の停電でパソコンの電源が切れてしまったせいもあって、カレンダーが初期化されてしまった。また、折からのものぐさが高じて、カレンダーも買わなかった。元来が時間に縛られたくない性質だったということもある。よって今日が何日か判らない。パソコンのカレンダーは停電の日から二ヶ月ちょっと経ったので、買い上げの年、二〇〇九年の一月一日の日付から始まり、今二〇〇九年の三月一七日になっているが、今年は二〇一四年だ。そして私の記憶が正しければ、まだ二月のはずだが、もう何日かは判らない。
と、言うと、ごみ出しの日はどうしていたかと疑問に思われるだろうが、閉じこめられるまで、燃えるごみは隣人のごみを出すのが気配で判るので、それに合わせていた。他のごみは滅多に出さない。もともとごみの多い生活はしていないので、これでいいと言えた。ごみの集積場所はブロック塀に沿った百mほど西にあった。よって普段からブロック塀が邪魔で、ごみ出しの人の気配は遮断されて聞こえない。それに近隣のどこの人もごみ出しは車でしていることを知っている。徒歩でしているのは、せいぜい私ぐらいだろう。車で移動ではご近所さんも近くを車で通ったところで、ブロック塀のこともあるし、私の部屋の物音も声すらも聞こえまい。つまりごみの日が判ったところで、助けを呼ぶことはまず無理ということだろうか。
とにかく、今私がすべきは今日の日付と現在時刻を知ることだ。今日が何日か知ることがどれほど大切か。それは今の私には生死にかかわりかねないことだ。生きるためにどうしても知らねばならない。今はなんとか暮らしているが、そのうち必ず生活が成り立たなくなる日が来る。しかしだ。二月の初め、収入申告書を市役所に提出したきりで、三月の分出せないわけだから、三月の締めの頃には、職員が心配してやってくるはずだ。携帯電話にも連絡が入るはずだが、あ、しまった。
私はいつも使い終えると、携帯電話の電源を切る癖がある。電池がもったいないからそうしてしまうのだが、実家に置いたきりの携帯電話も確か電源が切ったきりのはずだ。だったら、両親がスイッチを入れない限り、市役所の着信に気づくはずもない。市役所からの電話に二人のどちらかが出れば、ものぐさな両親でも事態の把握は出来ずとも、私の身に何かが起きたことに気づくだろう。しかし、電源が入っていなければすべてはパーだ。それに、この忘れものに気づいても、電源を入れるほど二人は物好きではない。赤の他人になり果てた自分たちの息子の所有物などに、関心を払う人たちではない。望み薄か。
しかしだ。つらつら考えるに、とにかく毎月の締めの時期が近づいたら市役所の職員が来るはず。収入申告がなければ生活保護費は下りない。職員も冷血人間の集まりではないから、何かと精神障害者である私の心配をしてくれる。申告書の提出がなければ、必ず来てくれる。以前にも医者にかかる体力もなく、病気で部屋に長く伏せっていた時、心配して来てくれた。市役所の次の締めは来月の二〇日だと聞いている。その時までは何とか食いつなごうと思った。
家賃、そして電気、ガス、水道、電話は銀行口座からの自動引き落としである。だから、締めの翌月まではこれらのライフラインが止められる心配はない。また、翌月も預金はそのまま残るわけだから、食費などのためのお金は下ろされずに銀行にそのまま残ることになる。その金額がどれくらいかは判らないが、一ヶ月ちょっとの猶予はある、ということだ。
恐ろしいのは偽造キャッシュカードなどで預金が下ろされる場合だが、私の生活保護費など、犯罪者にとってははした金だろう。私は他に預金もないし、そういう被害に一番遭いにくい人間と言えるのは確かだ。それにそんなことまでくよくよ考えていても、外へ出られないことには何も始まらない。私は前向きに生きることの意味を思った。余計な心配事は考えないことにした。
ところで食料はどうだろう。充分あるだろうか。冷蔵庫などの買い置きを見ると、大根半分(約十五センチ)、人参二本、山東菜一束半、白菜少々、あと卵が六個、納豆が七パック。玉葱二個、豆腐一パック、じゃがいも六個。あと米が四㎏ちょっと。これならしばらくは持ちそうだ。
よいことをもう一つ見つけた。新年を前に調味料を多めに買い置きしておいたのを、ここのところ自炊を怠けてすっかり忘れていた。味噌が赤白一パックずつ。醤油が濃口薄口ともにボトル一本ずつ丸々残っている。麺つゆも一リットルをちょっと使っただけ。三温糖も未開封が一袋。塩もクッキング・ソルトの業務用があって、少なくとも半年は持ちそうだ。味醂も料理酒も一リットルが一本余り。サラダ油も一リットルが未開封。胡麻油もオリーブオイルも大瓶が半量くらいある。酢も米酢と林檎酢がある。ワインビネガーまで未使用のものがあった。だしの素もお徳用の大箱が二箱。それらが未だにそっくり残っているのを、流し台の物入れスペースの隅っこに見つけた時、思わず快哉を叫んだ。これがあれば、何とかなる。お米も、雑炊などにして量を増やし、食費を節約すれば、十分やってゆける。問題は今日が何日か判らないことだ。外へ出られれば判るが。どうすればいい。
とにかく現在の正しい時刻を知ろう。市のイベントや祭がある時は、必ず朝や昼に音だけの花火が鳴る。だが、二月の駅伝は雪のため中止になったと聞いている。二月にはもうイベントは無いし、三月にもない。
この町は三交代の人が多く働いていて、クレーマー対策に市も頭を悩ませているせいか、広報無線で時報が鳴らない。あの時報を「うるさい」という人が多いのだ。運動会の子供たちの歓声や、アナウンスや音楽すらうるさいと言う人がいる昨今である。時報もただの騒音にしか聞こえないのかもしれない。
広報無線? あ、そうだ。広報無線。三月一一日は震災の日だ。何か広報無線でお報せがあるかもしれない。それに、行方不明の人のお尋ねをする時に日付をもしかしたら言うかもしれない。注意深く聞いてみよう。
たった今、玄関のドアでカタンと音がした。市役所からの封筒が投函されたようだ。民生委員さんだ。私は玄関のドアに駆け寄って、民生委員さんへ叫んでみた。ドアを叩いた。助けて! 助けてください。
外で気配がした。ひいいという声がした。民生委員さんの悲鳴だ。私のことを気味悪がって、逃げてしまったようだ。
私はドアを叩きつづけた。叫びつづけた。
すると、そのしばらくあとに、今度はドアを蹴るような、物凄い音がした。それと同時に私は衝撃で後ろへ跳ね飛ばされた。
「うっせえんだよ。今度やりやがったら本当に殺すぞ」
隣人の声だ。私は怖かったが勇気を振り絞って叫んでみた。ここで怖がっていては駄目だ。
「すみません。ドアのロックが解除できなくて、本当に開かないんです。助けてください」。
「へへへ、上等じゃねえか。なら、死ね。死ね!」
隣の男はそう言ってドアを蹴ると、行ってしまった。
駄目だ。これではいくら助けを呼んでも、ドアを叩いても誰も助けには来てくれないかも知れない。どうすればいいのだ。
それから何日経っただろう。外の様子は判らないが、玄関の覗き穴からの様子だと夜、広報無線の放送があった。注意深く聞いたが、今日、午前九時ごろ市内山宮にお住まいのとまでは言ったけれど、日付は結局言わなかった。これは駄目だ。やはり震災の日まで待たねばならないらしい。幾日待てばその日は来るのだろう。永遠に来ないのではないのか。そんな馬鹿なことを考えた。ぼんやりとした不安が自分の心を覆った。「絶望」と言う言葉が脳裏に見え隠れした。
今日、電気屋さんが来て、電気の使用量を記した検針票を郵便受けに入れて行った。私は寝ていたけれど、その音で目が醒めた。慌ててドアのところへ行った。ドアを叩いた。「助けて下さい」と叫んでみた。許される限り大声で叫んでみた。けれど、返事はなかった。行ってしまったようだ。
ドアを叩くと、みんな気味悪がって行ってしまう。精神障害者はそんなに気味が悪いのだろうか。私は生きていることがつくづく哀しいと思った。でも、誰か気づいてくれるはずだ。判ってくれる人がいるはずだ。めげずに助けを求めつづけよう。そう思った。
それにしても、私は誰に閉じこめられたのだろう。誰かの恨みを買うようなことをしたのだろうか。私の住まいを知っているのは、年賀状を出した居酒屋のママと、ペンフレンド、詩友、俳句仲間、それから作業所の所長と援護寮の寮長ぐらいで、飲み仲間すら私の住所は知らない。
私は車もバイクも持っていない。生活保護のためだから当然だが、その他に自転車も持っていない。以前は持っていたが、ずっと前、コンビニに駐輪している時、新品の自転車のタイヤを、ナイフのようなものでズタズタにされたことがある。どういうわけかわからない。以来どこへ行くにも徒歩。歩くのが元々好きなせいもあるが、自転車にはもう乗りたくない。
部屋に閉じこめられる前のこと、つい最近の夜だ。スーパーで買物をした帰り、雨が降っていたが、私の後をつけてくる者がいた。気味が悪いので走って逃げたけれど、向こうも走ってついて来た。アパートまで来ると、私は慌ててドアの鍵を開け、中へ這入って閉めたが、あれは何者だったんだろう。
その後も、真夜中と思われる時刻に呼び鈴が鳴ることが幾度かあった。覗き穴から覗いてみると、街灯の蒼い光に照らされて、薄黒い、フードをかぶった男が、のっそりと立っていた。何者だろう。あの男がやったんだろうか。
だけれど、誰にやられたにせよ、とにかく助けを求めなければならない。何者かに何らかの妨害をされているかもしれないが、関係ない。
とにかく、今日が何日か。今が何時か、知ることが先決だ。それを知らないことには。
あ、検針票。そうだ、検針票だ。検針票があった。今日の電気屋さんの検針票には今日の日付が書いてあるはずだ。何故今までそれに気づかなかったのだろう。私は玄関のドアのところに落ちている検針票を見た。検針日二月二五日。そうだ。これが今日の日付なのだ。
唯一の窓である南窓が閉ざされているので外からの光はほぼ一切入って来ない。よって朝か夜か判断するには覗き穴から外を見るほかない。パソコンの時計はまったくでたらめだが時間の経過は判る。それで私はパソコンで時刻を見て一時間おきに覗き穴から外を見ることにした。途中寝てしまうこともあったが、時刻ごとに○か●でノートに記しを付けた。今は二月だから明るくなるのは六時半近くだろうか。その辺りに目星を付けて注意深く外を見た。その結果、このパソコンの時計で午前三時頃は未だ暗く、午前四時だと明るくなっていることに気づいた。夜明けはこの三時と四時の間だ。私はパソコンの時計を大まかだけれどその辺りの時刻(つまり七時頃)に合わせてみた。
食料を持たせるために、出来るだけ食べないことにしたが、山東菜や豆腐など日持ちのしないものは、早めに味噌汁にして食べた。豆腐の賞味期限は二月の二二日とある。日付が判った昨日から明けて今日は二六日。豆腐は期限を四日超過しているが、「賞味期限」とは「美味しく食べられるのはこの日までですよ」という意味だから、この日を過ぎてもすぐに食べられなくなるわけじゃないということを聞いたことがある。なら大丈夫だ。とにかく匂いを嗅いで変でなければ大丈夫に違いない。
このような外界から遮断された生活をしているけれど、不思議と孤独は感じなかった。せめて清潔な暮らしをしようと、ちょくちょく風呂には這入った。石鹸もシャンプーの類も幸い充分な買い置きがあった。入浴剤が好きでこれが沢山あることも、生活を明るくしてくれた。以前飲み仲間の間で将棋大会があり、三位に入賞した時の賞品も入浴剤であって、これの他にもそれ以前に買い置いたのがあったから、入浴剤とシャンプーの類は事欠かずに済む。こんな不自由な暮らしで希望も持てないが、せめて気分だけは明るく、楽しく暮らそうと思った。
他に困るのは部屋が真っ暗になることだろうか。少なくとも光の入らない部屋に灯りは欠かせない。よって心配は電球の類の寿命が尽きることだが、閉じこめられる直前に、スーパーで、四〇ワットと六〇ワットの電球を買ってあった。これはラッキーと言う外ない。居間の蛍光灯は昨年付け替えたものだから、あと数年は持ってくれるはずだ。明りはともかく問題ない。
心配なのは風邪などの病気だが、人からうつされることはないわけだし、自ら罹るにしても、余程の不摂生をしない限り、部屋に閉じこもった状態で、風邪をひくことはまずない。自分が健康であることがこんなにありがたいとは、今まで自覚したこともなかった気がする。
唯一不満があるとしたら、不謹慎だが、酒が充分にないことだ。私は酒豪ではないが酒が好きだ。酒の残りはどうだろう。今のところトリスのボトルが半量近くある。量ってみたら三〇〇㏄がちょっと欠けるくらいの量があった。どうしようか。計画的に二日に一度飲もう。量は三〇㏄。水割りにすればいい。それなら十回に分けて十九日間持たせられる。日付にして三月一六日まで。運命の日の四日前。
納豆の賞味期限は二月の二〇日である。もう一週間近く過ぎているが、以前賞味期限を一ヶ月過ぎた納豆を食べたことがある。晩秋だったが、充分食べられただけでなく、味もまろやかになっている気がした。気温のせいもあったかも知れない。夏だったら危ないかもしれないが、晩秋だったせいもあってお腹はこわさなかった。とにかくあと三週間ぐらいは納豆も大丈夫だ。おまけに今は春先で、納豆のような食品はただでさえ日持ちがする。うまくすれば、もっと持ってくれるかも知れない。あ、卵はどうだろう。卵は二月一八日。これも冬、二十日くらい過ぎたのを生で食べたことがあるが、生でも充分食べられた。生が駄目なら茹でたらいい。怖ければ割ってみよう。匂いを嗅いでみよう。変な臭いがしなければ大丈夫。大事に食べよう。
ともかく、今は食糧があるから元気でいられるが、食糧が底をついたらどうすればいいのだろう。いや、それまでに市役所の職員さんが、必ず来てくれる。希望を持って暮らそうと思った。一番いけないのは希望を失うことだ。希望さえ持てれば何とかなる。根拠のない希望でもいい。とにかく三月の二〇日。二〇日までは何としても生き抜こう。あと二十三日間。とにかく生きよう。
今、私のいる居間を、今年の蠅が一匹飛んでいる。普段なら殺虫剤を撒いて死なせてしまうところだが、「彼」は数少ない私の同居者だ。私と一緒にこの部屋にいる。言わば「仲間」である。というより、もう一人の自分を見ているような気がする。死なせるには忍びない。そんな可哀相なことは出来ない。蠅が気の毒である。どんなおぞましい姿をしていても、生きているのである。命なのだ。命とは目に見えないが、どんなものであっても、きっときれいなものだと思うのだ。そう思うと私の胸の内に熱いものが込みあげてきた。
このように考えてみると、生きていることがまるで「たからもの」のように感じられるのは何故なのだろう。茹で卵を作ろうと冷蔵庫の卵を取り出している時、考えた。卵を見つめていて、しぜんと涙が浮かんできた。何故だか生きていることが愛しくてならなかった。
思えばこのようなことになるまで、私は自分の命というものを大切に考えて来なかった気がする。作家になることを夢見てはいるものの、おのれの作品を先日他人に批判されたこともあって、自信喪失状態に陥り、自分の生活がひどく情けなく思えもして、今年の初めはほんとうに死んでしまおうかと思ったことが、幾度もあった。踏切を前にして飛び込もうかと思ったこともある。それが今はどうだろう。何とかして必死に生き延びようとしている。自分の内面にこれほどの「生きようとする力」が残っていたなんて、今まで思ってもみなかったことだった。
夜。毎夜八時を入浴の時間に決めたので、今は入浴後である。理由もなく少し朦朧としていた。これは普通の人でもあるかも知れないが、私の病気でもよくあることだ。ただ、入浴をこまめにしていることで、生活に「張り」が生まれ、幻聴や幻覚のようなものが起こりにくい精神状態に持って行けていた。あまり肉体的には健康的な生活とは言えなかったかもしれないが、精神的には健全に近い状態でいられたことは、私の命の存続にとって有利な条件と言えた。
三月一一日がやってきた。広報無線が久しぶりに鳴った。ぼんやり聞いていたが、ふいに「東日本大震災」の震災記念日であるとのアナウンスがあった。よかった。私の見立てた「日付」は間違っていなかった。震災が起こった二時四六分には恐らくサイレンのようなものが鳴るだろう。サイレンが鳴ったらパソコンの時刻を合わせよう。その時刻が二時四六分なのだから。三月二〇日まで今日を含めて十日。あと少しだ。
あの二月二六日以降、私の生活は規則正しいものになっていた。朝六時に目覚めると、食事を作り、食べた。三月一一日の時点で、まだ納豆が三パック、卵が二個残っていた。
その日、三月一一日のことを書いてみよう。朝食。納豆の一パックをご飯にかけて食べた。昼の間は執筆にいそしんだ。書物は部屋に沢山あったし、ヒントになるものも多かった。詩や俳句も詠んだ。俳句は毎日お題を決めた。例えばこの日は「春の月」で十句。部屋に閉じこめられても、春の月の情景は、ありありと目に浮かんだ。潤井川の河川敷を歩いているときに、春の月を見たこと。実家で、あるいは援護寮にいたときにも、お月見をした。イメージは豊かに生まれて尽きることがなかった。
お昼は食べないから、お腹が空いたけれど、その分お夕飯は美味しかった。今日は玉葱をスライスして、土鍋に雑炊を作った。雑炊だからご飯は少なくても充分だった。卵は半分だけ使い、あとはラップして冷蔵庫に入れた。かき玉雑炊としては物足りないかも知れないが、だしの素がたっぷりあったから、物足りなさは余り感じずに済んだと言えるだろう。まだじゃがいもが一つも使わずに残っている。これは心強い。大根もあと五センチほど。人参も一本ある。煮物にして冷凍にしておけば持つだろうか。やってみよう。
三月一六日の夜、お粥の夕食を食べた後で、グラスに向かった。最後の酒。ショットグラスにした。最後ぐらいストレートで飲もう。少しずつ、味わいながら飲んだ。安酒だが本当にうまい。全身に沁みわたるような清冽な味に思えた。しみじみ飲んでいると涙が浮かんできた。けれど我慢した。泣くまい。とにかくこの酒の味を、二度と忘れないために、一口、一口、大切に飲んだ。私の頬を静かなしずくが伝った。
三月一八日の朝、東隣の人が車に乗ってどこかへ出かけた。失業していたようだが、就職活動に出かけたのだろうか。とにかく今日は当分帰って来ないようだった。隣に人の気配はまったくなかった。
午後二時ごろ、おもての駐車場に音がした。隣人が帰ってきたのだろうか。そう思っているとドアをノックする音がした。市役所の人が来たのだ。職員の担当の中村さんだった。声がした。
それなのに何という不覚だろう。私は不意をつかれたせいか、咄嗟に声が出なかった。怖い夢を見ている時、助けを呼びたくても声が出ない、あるいは金縛り。あの時そのまんまの感じだった。
しばらく玄関前にしていた気配が消えた。不在だと思ったのだろう、中村さんが帰ってしまう。その時ようやく平常心に戻ったのか、金縛り状態から解けた私は、立ちあがると玄関のドアに駆け寄り、ドアを叩いて、叫んだ。
「助けてください、助けて」
返事はなかった。南側の窓を叩こうと駆け寄ったが、おもての駐車場から車が去ってゆく音が聞こえた。駄目だった。私は目の前が真っ暗になっていた。もう助けは来ないのだろうか。全身の力が抜け、その場にしゃがみ込んだ。
それからどのくらいの時が経っただろう。遠くから救急車の音が近づいてくるのが聞こえた。救急車が南の方で停まったようだった。近くのようだ。そう聞こえた。どこかで急病人があったのだろうか。近所に家はない。
それとも遠いのだろうか。無理だろうか。けれど望みを失っては駄目だ。
私は南の窓を開け、シャッターを叩いた。
助けて! 助けてください。
私はシャッターを叩きつづけ、叫びつづけた。