EXAct:戦姫3
風が吹き抜ける。
見上げるわん太郎の視界には、剣を大地に突き立てて前を睨みつけるアネフェアの姿があった。
未だに血色の良くない顔。
その表情は厳しい。
平野を見下ろす丘の上、アネフェアの眼前には、戦場が広がっていた。
魔獣の大群が黒く塗りつぶしてしまった大地。
おぞましい赤の光が、まるで禍々しい星空の如く輝く大地。
立体映像が映し出すその光景は、一度でもそんな戦場を経験したことのある者にとっては、ふっと腐臭まで漂って来そうなほど惨たらしいものだった。
「姫さま!」
アネフェアのもとに駆け寄って来た騎士が、鎧を鳴らし勢い良く膝をついた。
「左翼、オルトラン将軍、魔獣群を撃破!このまま進軍するとのことです!」
伝令の騎士は、喜色を隠さない。その声は興奮に震えていた。
「魔獣群本隊は、もう直ぐそこです!我らは勝てますな!」
アネフェアの後方に並ぶ高級将校たちが、ゆっくりと歩み寄って来た。
皆勝利を確信したかのような、余裕に満ちた顔だった。
しかし、アネフェアの顔に緩みはない。
それは、体調だけが原因ではないのだろう。
「オルトラン隊には、突出し過ぎないように伝えて欲しい」
アネフェアが振り返る。
まるで剣がなければ立っていられないような覚束ない足取りだった。
「皆、勝利は直ぐそこだ。しかし、勝利を前にした時こそ、油断が生まれる。気を抜かないで欲しい」
アネフェアの弱々しい声は、遠雷のように響く戦の音の中で、どれほどの者に聞こえただろうか。
声を張り上げた為か、アネフェアは頭に手を当ててよろけてしまい、片膝をついた。
「姫さま!」
「大丈夫ですか!」
「誰ぞ、姫さまを救護所へ!」
ざわめく周囲の大人たち。
彼らにしても、承知しているのだ。
魔獣との戦いが続く間は、要が必要になる。人々が1つの目的に向けてまとまるための要、つまり、アネフェアが。
駆け寄って来た女官に支えられ、アネフェアが陣の後方に退いて行く。
「後の事は、我らにお任せを!がははははっ!」
威勢の良い巨漢の騎士の声に、アネフェアがそっと顔をしかめた。
その痛々しい姿を見上げて、わん太郎が後を追う。
鎧を脱がされ、寝間着姿でベッドに横たえられたアネフェアは、苦しそうに息をする。
以前の映像よりも、具合が悪くなっているように見受けられた。
魔獣の障気に倒れた者にとって最も良い治療法は、銀気の癒やしを受ける事。
この場合、銀気の癒やしの術を使える者があまりいないということが問題になる。
他の方法としては、魔獣の影響のない空気の良いところで、ゆっくりと静養すること。
この場合は、長期の療養が必要になる場合が多い。
戦場から離れられず、多忙に仕事をこなすアネフェアが、銀気の癒やしを受けていないのであれば、症状が悪化するのも当然と言えた。
「はっ、はっ、うう……。カエラ、すまない、迷惑を……」
アネフェアの声に、ベッドの脇に水差しを用意していた女官が、首を振る。
「姫さま、気がつかれましたか。どうぞ、ごゆっくりとお休み下さい」
眉間にしわ寄せ、目を瞑るアネフェア。
しばらくの沈黙。
やがて耐えきれなくなったかのように、再びアネフェアが目を開いた。
「……すまない、カエラ。ヴァンはいるか?」
おずおずと尋ねるアネフェアに、女官は優しく微笑んだ。
「先ほど、姫さまが少し眠られている間に、来られましたよ」
「……そうか。何か言っていたか、ヴァンは?」
「僭越ながら、君の為に頑張って来るよとのお言葉が聞こえました。ふふっ、慕って下さる殿方がいらっしゃるというのは、羨ましい限りですね」
病床の姫君を元気付けるためか、女官は明るい声で冗談めかすと、アネフェアは恥ずかしそうに押し黙った。
「では、姫さま。ごゆっくりと」
「……ああ。すま……」
頭を下げ、その場を去ろうとする女官に頷いたアネフェアは、しかしそこで唐突に押し黙ってしまった。
何かを考え込むように沈黙するアネフェア。
訝しむ女官の前で、虚空を睨み付けていたアネフェアは、突然体を起こした。
「姫さま!」
慌てて女官が駆け寄る。
差し出されたその手を握り締め、アネフェアは顔をしかめながらも睨むように女官を見た。
「ダメだ!ヴァンを行かせないで欲しい!あれは、敵の渦中に飛び込む気だ……。伝令を!ヴァンに無茶をしないよう、伝えて……」
そこまで一気にまくし立てたアネフェアは、力尽きたかのようにベッドに沈み込んだ。
「……ヴァンは、光の剣を手に入れるつもりだ、伝承の。魔獣どもが支配する地深くにあると伝わると、学者が……。無謀だ……。勝ちを急いではダメなんだ。ましてや、ましてや、私なんかの為だなんて……」
「姫さま、お気を確かに!今医師長をお呼び致しますから!」
頭を下げ、女官が天幕を飛び出して行く。
アネフェアは、険しい表情で、荒く乱れた息をしていた。薄着の胸が、激しく上下する。
わん太郎がベッドに飛び乗ると、小さく呟く彼女の声が聞こえて来た。
「……ヴァン、無茶はするな」
瞼がゆっくりと閉じていく。
苦しそうな吐息が少し落ち着き、やがて寝息に変わる。
その深い眠りに落ちて行く瞬間、彼女の白い唇が言葉を紡いだ。
ヴァン、行かないで、と。
薄暗い天幕の中で手元にランプを置いて書き物をするアネフェアは、やはり鎧姿だった。
男たちが代わる代わるやって来ては、戦況の報告をしていく。
どうやら、アネフェアたちの軍は、順調に魔獣を撃破し、その本拠地と目される峡谷地帯を目前にしている様だった。
その奥に控える魔獣どもを生み出す存在、元凶を撃破すれば、戦いは終わる。
誰もがそう信じている様だった。
彼らが言う元凶とは、恐らく女王型だろう。
あの屍、禍ツ魔獣は、ユウトがエシュリンの楔を引き抜く事によって初めて解放されたのだから。
アネフェアも、体調は未だに良くない様だったが、勝利への期待を隠せないようだった。
そのような軍議の情景が、何度か繰り返し映し出される。しかし、そのどこにも、ヴァン・ブレイブの姿はなかった。
会議の合間、書類を書いている間、アネフェアは、何度もちらちらと天幕の入り口を窺う。
そして、そっと溜め息を吐いた。
恐らく。
まだ戻らぬヴァンを思って。
恐らく。
エシュリンの楔を求め、独り戦うヴァンを案じて……。
映像が切り替わった。
やはり天幕内にいるアネフェアが、ほっと息を吐き、独り書類をまとめている光景が映し出された。
軍議が終わった直後だろうか。
ばたばたと激しく天幕を叩く雨粒の音が、不安をかき立てる程に激しく響き渡っていた。
わん太郎は、アネフェアを一瞥した後、落ち着きなくキョロキョロと辺りを窺い始めた。そして、たたたっと天幕の入り口に向かって駆け出した。
「どうした、わん太郎?夜だぞ。雨も降っている。外には出られないぞ」
アネフェアが後ろから声を掛けて来た。
わん太郎は、しかし天幕の入り口をかりかりと前足で掻く。
不意に、映像の視点が持ち上がった。
わん太郎の胴に回された細い腕。
「どうした、わん太郎」
優しげなアネフェアの声が、すぐ近くで響いた。
「ん?」
わん太郎がそっと後ろを窺うと、アネフェアの金髪が微かに揺れるのが見えた。
アネフェアに抱きかかえられたわん太郎は、それでも短い前足を外に向かって伸ばす。
「何かあるのか、わん太郎?」
アネフェアはしょうがないなという風に、天幕の扉を開いた。
雨の音が強まる。
まるで、嵐だ。
降りしきる雨が、幾多の線となって、夜闇を流れる。
ふわっと香る濃い水気の匂いと濡れた土の匂いが漂ってくる様だった。
歩哨などの姿はない。その代り、天幕から漏れ出た明かりの照らす中に、人影があった。
アネフェアがはっと息を呑む。
「ヴァン!」
アネフェアが思わず雨の中に踏み出そうとして、しかしそれを押し止めるように、ヴァンが一歩進み出た。
ヴァンは、傷だらけの姿だった。
鎧は傷つき、ひしゃげ、その下の衣服はボロボロ。乾いた血でどす黒く変色していた。顔にも血が流れた跡が残っている。未だに残るその跡を、滴る雨が、流し去ろうとしていた。
傷は、既に塞がっているようだったが……。
「アネフェア。直ぐに軍を退くんだ」
低いヴァンの声。
雨の音の中に吸い込まれて行きそうだ。
「そんな事よりも!ヴァン、手当てを!」
「いや、聞いて欲しい」
雨の中に立ったまま、ヴァンが語り出した。
ゴーレム兵器発掘の過程で知った、光の剣。
それを手に入れるために、魔獣の群れをかいくぐり、北の大渓谷にたどり着いたこと。
光の剣を手に入れ、そこで対峙した黒い騎士。
そして、光の剣を抜きはなったがために動き出した存在。魔獣などよりさらに強大で邪悪な……。
「わかったんだ。あれこそが、魔獣の祖たる者だ。あれを完全に蘇らせてはいけない」
押し黙るアネフェア。
ヴァンは暗い声で続けた。
「あれが完全復活したら、僕たちは滅ぼされてしまう……」
「ヴァン……」
「大丈夫。させないよ。僕が、必ず封じてみせる。僕は、光の剣を集める。あれを封印するんだ。過去抜かれた光の剣が、世界各地にある筈だから。力がいるんだ。強い、力が……」
「ヴァン!独りで無茶をするのは止せ!みんなで力を合わせれば!」
ヴァンはそこで、困ったように笑った。そして首を振る。
「アネフェア。黒騎士は、女王型の大型魔獣を集結させている。直に、さらなる魔獣群が押し寄せて来るよ。君は、今すぐに退くんだ。守りを固めた方がいい」
「……ヴァン、」
ヴァンがくるりと踵を返し、歩き始めた。
「ヴァン。それは、君が必要だと思う事なんだな」
アネフェアは静かに問い掛ける。
彼女の声は、雨音なんかに負けずに、確かにヴァンに届いた。
ヴァンが立ち止まる。
微かに振り返り、そっと頷いた。
「勝つ為には、必要だ」
「みんなのためにか?」
「……ああ」
沈黙。
そして、アネフェアが一歩進み出た。
雨の中へ。
「ならば行け、ヴァン。私は、君の帰りを待っている。君が、勝利をもたらしてくれるのを!わ、私の君が!」
わん太郎が見上げると、唇を噛み締めたアネフェアが、真っ直ぐにヴァンの背を見つめていた。
雨に濡れた髪が頬に張り付いている。
雨粒が、つうっと頬を伝う。
「……うん。任せて欲しい。必ず、僕はこの戦いを終わらせて見せるよ」
ヴァンは、そう言うと再び歩き始めた。
アネフェアの為に、とは口にしない。
しかし去り際のアネフェアを一瞥した優しい目は、彼の思いを雄弁に語っていた。
同じように、アネフェアも口にしない。
行かないで、とは。
彼女の立場が、背負うものが、そんな思いを口にする事を許さない。
雨足は激しく、全てを飲み込む。
その中でしばらく立ち尽くしていたアネフェアは、抱えていたわん太郎をそっと天幕の中に返した。
「わん太郎。私も行かなくては。軍議の準備だ」
そう言ってアネフェアは笑った。
しかし直ぐに顔をくしゃっと歪める。
「ううっ、……くっ」
その悲しそうな顔を片手で覆い隠して、アネフェアは立ち上がった。
そして、大きく深呼吸する。
「……負けない」
アネフェアは、きっと唇を引き結んで、雨の中に飛び出して行った。
そこからは、わん太郎が映し出す映像がだんだんと短くなって行った。
恐らくヴァンがいなくなった事で、銀気の補給が出来なくなったからだろう。
そんなわん太郎が捉えるアネフェアの周囲の状況は、ヴァンが言った通り厳しいものになりつつあった。
繰り返される敗戦の報告。
押し寄せる魔獣群の報告。
戦線はどんどん後退し、陣中には勝っていた頃の華々しい雰囲気は残っていなかった。
その中で、アネフェアだけが声を張り上げ、激を飛ばしていた。
その顔色から、体調は決して良いとは思えなかったが……。
次にわん太郎が映し出したのは、何か大きな布の下のような空間だった。
もぞもぞともがき、わん太郎はその布の下から這い出す。
眩い光が射す。
目の前には、どこまでも広がる草原と遠く霞む山々の風景が映し出された。
そして、肩を落として歩く兵士たちの列。
わん太郎は、どうやら兵士たちの列と併走している荷馬車の荷台にいるようだった。折り畳まれた天幕のその上だ。
わん太郎が周囲を見回した。
隊列を組んだ兵たちの列は、ずっと遠くまで続いていた。
彼らがやって来るその向こうに見えるのは、立ち上る黒煙。
どうやらここは、敗残兵の列のようだった。
「魔獣だっ!」
誰かが叫んだ。
「うわぁぁぁ!」
「に、逃げろぉぉ!」
「し、死にたくない、死にたくなぁぁ!」
途端に隊列は乱れ、兵士たちはバラバラに逃げ惑い始める。わん太郎を乗せた馬車も停車してしまう。
隊列の左手、微かに隆起する丘の向こうから、黒い固まりが押し寄せて来るのを、わん太郎も捉えた。
「逃げるなっ!隊列を組んで戦え!戦え!お前っ!」
指揮官らしき騎士が怒声を張り上げる。しかしそう叫ぶ指揮官の顔も、引きつっていた。
蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う兵士たちの中には、騎乗した騎士の姿もあった。
敗戦を重ねた軍は、もはや軍としての体裁も失いつつあった。
「撤退する!」
その阿鼻叫喚の中に、凛と響く声。
鎧を身につけたアネフェアと彼女に付き従う騎士隊が、魔獣群の前に整然と展開していく。
「皆!エクス砦まで走れ!ここは私と近衛が引き受ける!」
剣を引き抜いたアネフェアが、吠えた。
「姫さま!」
「わ、我らも!」
未だ恐慌に陥っていなかった一部の者たちが、アネフェアのもとに集まって来た。
しかしアネフェアは、彼らを一瞥し、直ぐに迫り来る魔獣群を睨みつけた。
「お前たちは、兵と非戦闘員を逃がすのだ。エクス砦で部隊を再編して反撃に出れば、まだ勝ち目はある。行け!」
アネフェアの一喝に、騎士たちは力なく頭を下げた。歯を食いしばり、中には目元を拭う者もいた。
「近衛第1隊は、側面に回り込め!第2隊はここで魔獣を迎え撃つ!」
「「了解!!」」
必死の形相で、アネフェアは指揮杖代わりの剣を振る。
やがて、わん太郎が乗った馬車が、再びゴトゴトと動き始めた。
アネフェアたちに背を向け、魔獣群から逃れる方向に。
散らばる荷物を避けて、わん太郎は荷台の後部に回り込む。
「来たぞ、構え!」
アネフェアの叫びが遠く聞こえた。
石造りの廊下に走る人々の足音が慌ただしく反響していた。
薄暗い室内。
廊下の喧騒とは打って変わり、重苦しい空気が澱んでいた。
天蓋付きのベッドの周りには、騎士や文官、メイドなど、様々な人々が集まっていた。
その中心、白衣を着た初老の医者が、静かに首を振る。
「出来るだけの治療は、致しました」
「ひ、姫さまは助かるのだろう!」
巨漢の騎士が、声を上擦らせながら怒鳴った。
怒鳴ったところで状況は変わらない。しかし、怒鳴らずにはいられない。
医者の次の言葉を待つその場の誰もが、その騎士と同じ心境であることは一目瞭然だった。
耳に痛い沈黙の後、医者はやはり首を振った。
「もともと魔獣の障気で弱られておりました。そこへ、この外傷。魔獣の一撃は、鎧を砕き、腹を裂いています。血は止めましたが……。後は、姫さまの体力次第かと」
集まった人々の中から、呻き声が上がった。メイドたちの中には、泣き出す者もいた。
痛ましげに視線を逸らす者。
怒声を上げて、部屋を出て行く者。
医者が席を離れ、他の者もアネフェアの側を離れていく。
そして最後まで残っていたメイドのアリシアも席を立った。
アネフェアは傷つき、倒れた。
誰もが、絶望に打ちひしがれていた。
部屋の明かりが落とされる。
映像が切り替わっても、その状況は変わらなかった。
ベッドで眠り続けるアネフェア。
医者やメイドのアリシア。巨漢の騎士など、時々によって取り巻きは違ったが、アネフェアが起き上がり、わん太郎を抱き上げる事はなかった。
そっとベッドに近づき、わん太郎が映し出したアネフェアの顔は蒼白で、美しくはあったが、まるで生気が感じられなかった。
まるで、精緻な人形が横たわっているような……。
そんな同じようなシーンの繰り返し。
そして、映像の記録時間もどんどん短くなり、一回が数分程度になった頃。
静かに扉を開き、アネフェアの部屋に入って来た者を、わん太郎が捉えた。
入り口で暫く呆然と立ち尽くしたその者は、やがて意を決したように彼女のもとに近づいて来る。
ランプが照らす淡い光の中に現れたのは、今にも泣き出しそうに顔を歪めたヴァンだった。
力が抜けてしまったように、ヴァンはベッドの脇に跪いた。
「ごめんよ、アネフェア……。ごめん、僕が、僕が……」
ぶつぶつと呟きながら、ヴァンは手を差し出した。
アネフェアの白い頬に触れようとして、ビクッと手を引っ込める。
「うう、アネフェア、君が、なんで、こんな……」
そのまま俯き、ヴァンは肩を振るわせる。
しんと静まり返った室内に、低い嗚咽が響き渡った。
しかしそのヴァンに応える者はいない。
わん太郎は肩を振るわせるヴァンを静かに見つめ、アネフェアは昏々と眠り続けるだけだった。
「僕が、僕があの時諦めなければ……。真正面から戦う決意を、アネフェアと一緒に戦う決意をしていれば……」
後悔の声が、呻きが静かに、長く続く。
そして。
ヴァンは立ち上がる。
目元を拭う。
「アネフェア。魔獣は、僕が倒してみせる。君と君の好きなこの国の人々のために……、いや、君のために。例え、刺し違えても、僕が必ず……!」
浅黒い肌が闇に溶ける中、目だけをギラっと光らせてヴァンはアネフェアを見下ろした。
踵を返し歩み出したヴァンは、振り返らなかった。
映像はそこで終わりだった。
「ここまでね」
私はそっとカーテンを開いた。
時間はもうすっかり夜になっていて、ぼうっと星明かりが室内に射し込んで来る。
「多分、このわん太郎を見つけた遺跡の一室が、アネフェア姫の病室だったのね。あの遺跡は、当時は砦として使われていたんでしょう」
私は、静かに話しながら、柱にそっと背を預け、腕を組んだ。
「ヴァンはあの後、魔獣に挑み、集めたエシュリンの楔で、あの屍を再封印したんだろう。その時、当時の黒騎士を倒したのか倒されたのか、そのまま黒騎士になってしまった」
ユウトがわん太郎に歩み寄り、しゃがみ込む。
「あの最後の戦いの時、黒騎士、いや、ヴァンが助けてくれなければ、多分俺もそうなってたな」
その戦いの状況は、私もユウトやナツナに聞いた。
形勢が危うくなった禍ツ魔獣は、その復活を次代に託すために、自身を滅ぼす者を黒騎士として取り込む。
そうして禍ツ魔獣は、連綿と人の歴史に介入し続け、完全復活を目論んでいたのだ。
ヴァンとアネフェア。
ユウトとカナデさん。
そして今まで多くのブレイバーやその導き手たる女性たちが、そんな運命に翻弄されて来たのだろう。
……悲しい事に。
「ヴァンは、最後にアネフェアと話せたのかな。映像にはないけど」
わん太郎を抱き上げながら、ユウトがポツリと呟いた。
私はそっと目を伏せる。
残されている記録によれば、多分それは……。
「話せたと思います!」
自信の籠もった明るい声が、唐突に響いた。
顔を上げると、これまで俯いていたカナデさんが、にこっと柔らかく微笑んでいた。
ドキリとしてしまう。
顔は微笑んでいるのに、その頬には、つうっと一筋、涙が流れ落ちていた。
「ヴァンは、黒騎士になってしまった後も、アネフェアさんを思っていました」
何かを思い出すように、遠い目をするカナデさん。
「禍ツ魔獣が滅ぶ光の中で、見えたんです、確かに……」
あの禍ツ魔獣の塔で決着したのは、私たちの戦いだけではない。恐らくは、長い長いヴァン・ブレイブの戦いも、ということなのだろうか。
「ユウト。ところで、次の予定ってありますか?」
目尻を拭いながら、カナデさんがユウトを見上げた。
「い、いや、別に……」
「では、私から依頼を受けて欲しいんです」
「お、おう、任せろ!」
ユウト、また勝手に……。
「いいよな、シズナ?」
遅い。
私は溜め息を吐く。
まぁ、ユウトがカナデさんのお願いを断れる筈がないのは、わかっているけれど。
「そのわん太郎を、ハインド主任のところに連れて行って欲しいんです。もしかしたら、修理出来るかもしれないから。その子に入っている映像は、掛け替えのないものですしね」
「ああ、別に良いけど」
「ありがとう、ユウト」
微笑むカナデさんに、ユウトは恥ずかしそうに目を逸らした。
「ヴァンとアネフェアさん。2人を見ていると、何だか私もシリスに会いたくなりました」
うんっと伸びをするカナデさんが不意に漏らした言葉に、ユウトがビキッと固まった。
「カナデ、それってどういう……」
「え?」
睨み付けるユウトに、カナデさんは不思議そうに首を傾げる。
「大切な人と過ごせる時間って、何よりも尊いものだって、そう思いません?」
柔らかに微笑んだカナデさんは、可憐さと同時に艶やかさも滲ませていた。
ユウトの背中がわなわな震え、そして力なく肩が落ちる。
私は横目でそっとその背中を見つめる。
私がぎゅっと抱き締めてあげたい。
そう思ったのは、私だけの秘密。
少し暗くなってしまいました。
次話は、明るく行きたいと思います。
読んでいただき、ありがとうございました!