EXAct:弓と少女1
すやすやと眠る陸の顔を、あたしはじっと見つめていた。
うん、顔色もだいぶ良くなったね。もう安心かな。
……まったく。いつも心配ばかりかけるんだから、こいつは。
はあっと大きく溜め息を吐く。
お医者さま曰わく安静にしていれば直ぐにでも目を覚ますということだったけど、やっぱり姉弟だもん。
……心配せずにはいられないよ。
「陸……」
無意識にそう呟いてしまったあたしの声が、案外大きく響いてびっくりしてしまう。
おっとっと、こんなとこ誰かに見られたら、恥ずかしいどころじゃ……。
コンコン。
わぎゃ!
「ど、どぞ……」
タイミングを見計らったかのように陸の病室に入って来たのは、この世界でお友達になった赤毛の女の子だった。
「ナツ、リクさまの容態はどう?」
ベッド脇までやって来たレティシアは、心配そうに眉をひそめて陸の顔を覗き込んだ。
陸が暗殺者の毒攻撃に倒れてしまったのは、レティシアのせいなんかじゃないのに……。
気を使ってくれてるんだよね。
「大丈夫だよ、レティ!陸は頑丈だから!」
あたしは陸の胸をばしばしと叩く。
「ぐぐぐっ」
意識がないくせに、陸が顔をしかめた。
んもう、ひ弱ぶって!
「ナツ!リクさまになんてことを!」
レティシアが、怖い顔であたしの手を止める。
あれ。
そういえば、さまって?
「大丈夫だよ、レティ。そうだ、寝てる間に落書きしてやろうよ。鼻毛とか」
ぽんっと手を叩いた私の隣で、レティシアが盛大に溜め息を吐いた。
「ナツ。リクさまには私がついてるから。少し外の空気を吸って来たらどう?」
目を細め、優しげな眼差しで陸を見つめるレティシア。
その横顔に返事しようとして、私はピピピっと閃いてしまったのだ。
なるほどねぇ。
これは、お姉ちゃんとしても、野暮な事は出来ないわけで。
「じゃあ、レティ。こいつの事はお願いね」
私はぽんっと勢い良く椅子から立ち上がると、たたたっとドアまで駆けた。
陸の病室を出る時、「末永くお願いね」とそっと囁いたあたしの言葉は、じっと陸の寝顔を見つめるレティシアには聞こえなかったかな?
あたしたちが泊まっているこのお屋敷は、北公さまという偉い人のお屋敷らしい。
カナデちゃんのお屋敷もすごかったけど、予備でこんな家を何軒も持っているなんて地球の現代人的感覚では到底信じられなかった。
でもそんな凄いお屋敷に泊まっているのは、カナデちゃんたちとあたしたち冒険者組。インベルストの騎士さんたちだけ。
人数が少なすぎて人気のない廊下は、何だか寂しかった。
うろうろとお屋敷の中を探検していても、あまりの人気の無さに少し悲しくなってしまう程に。
外に出たいなーと思う。
賑やかな街並みなんかを歩き回りたいな。また優人やシズナさんたちと一緒に冒険するのもいいかもしれない。
でも、今は状況がよろしくない事もわかってる。
陸が負傷した先日の襲撃の件もあって、ぎくしゃくしていたあたしたちと北公さまたちの関係は、さらに険悪モード突入中らしい。今は相手方に余計な刺激を与えないよう大人しくしておかなければ、というカナデちゃんの命令も出ているんだった。
「はっ、そうだ!」
暇だったら、そのカナデちゃんとお話をしよう。もしかしたら護衛という名目で、外の空気を吸えるかもしれないし。
あたしはうんっと頷くと、カナデちゃんの部屋に向かって駆け出した。人気のない廊下に、ぱたぱたと足音を響かせて。
ちなみに、カナデちゃんの部屋はシリス殿下と同室だ。
もうそれだけで、むふふふふっだね。
元男の子だから、男性と同室なのも抵抗ないのかな?
違う、違う。
カナデちゃんはもう立派な女の子だし、何よりもシリス殿下と正式に婚約したんだ。
やっぱりカナデちゃんにとって殿下は、特別な人なんだっ。
あたしや唯姉なんかは、密かに優人ルートなんてのもありかなぁと囁いていたんだけど……。
「カナデちゃん!」
あたしはどーんと勢い良くカナデちゃんの部屋のドアを押し開いた。
このお屋敷でも一番上等な部屋。
正面は大きな窓。左手には、寝室に続く扉があった。広い部屋にはふかふかの絨毯が敷き詰められていて、真ん中には大きなソファーセットがどーんと鎮座している。
そのソファーに座ったカナデちゃんは、書類を手にしながらすーすーと居眠りしていた。隣のシリス殿下にもたれ掛かかりながら。
気持ち良さそうな寝顔。
銀色の髪が、はらりと頬の上に落ちている。
殿下は、優しげな眼差しで、そんなカナデちゃんをじっと見つめていた。
……人差し指で、むにーっとカナデちゃんのほっぺを突きながら。
「……んっ」
カナデちゃんが微かな吐息を零す。
微かに身じろぎしながら、殿下の腕に顔を埋めるカナデちゃん。
……幸せそうな顔。
それでも、たぶん仕事のだろう書類を離さないのが、カナデちゃんらしい。
こちらを見た殿下と目があった。
一瞬大きくなった殿下の目が、すうっと細まる。
わざとらしくゴホンと咳払いを一回。
殿下はカナデちゃんに肩を貸しながら、背筋を伸ばした。
「ナツナ」
「は、はいっ」
「部屋に入る時は、ノックをしろ」
「は、はいっ」
あたしはそのままジリジリと後ずさってしまう。
「お邪魔しました……」
「ああ」
ダメだ!
いくらあたしでも、踏み込めない空気に満ち満ちている。
ここは素直に撤退するしかない。
でも……。
ドアを閉めた瞬間、あたしは耐えきれなくなって、にひひっと笑ってしまった。
いいもの見た!
この話、誰かにしたい!いや、しなければ!
でも唯姉はいないし、陸は寝てるし、シズナさんはきっとクールな反応しかしないし……。
そうだ。
ピンッと閃く。
優人に話そう。
ふふふっ。
動揺する優人の顔が目に浮かぶようだ。
うふふふふっ。
あたしは再び廊下を駆け出した。
「はぁ……」
あたしは自分の部屋のバルコニーにもたれ掛かって、そっとため息を吐いた。
麗らかな初夏の陽気が気持ち良い。
ぽかぽかの気温に、時たま吹き抜ける冷たい北国の風がちょうど心地よくて、思わず居眠りしてしまいそうになる。
穏やかな午後だ。
でも、あたしの心は、そんな爽やかな空気とは裏腹にどよんと沈んでいた。
優人にカナデちゃんのラブラブ話をして苦悶させよう作戦は、結果的に失敗に終わってしまった。
というのも、優人の部屋でも、あまりに場違いな感に居た堪れなくなって、やっぱり退散するしかなかったのだ。
床に座り込んで剣の手入れをしている優人と、談笑しながら優人にお茶を出すシズナさん。
……何か、長年連れ添った夫婦みたい。
例えるなら、友達の家に遊びに行った時、その友達のお父さんお母さんが家にいた!みたいな気まずさが、むんむんだった。
しょうがなく自室に戻るあたし。
そこで、ふと気が付いた。
気が付いてしまった。
あたし今、ひとりぼっちだ……!
初めは、ぐぬぬ恋人どもめと冗談混じりに思っていた。
けどだんだんと、ひとりぼっち、寂しい、という単語が、胸の奥でジーンと響き始めてしまった。
「お父さん、お母さん……」
思わずそう呟いてしまって……。
はっとする。
ぶんぶんと頭を振った。
考えちゃいけない。考えちゃ……。
そうだ!
こんなところでウジウジしているから、ネガティブな事を考えちゃうんだ。
あたしは一旦部屋に戻ると、ベッドの脇に立て掛けてあった愛用の弓を手に取った。前に、リムウェア侯爵さまからいただいたものだ。
その弓と矢筒を肩にかけると、もう一度バルコニーに出たあたしはそっとカナデちゃんに謝る。
「ごめんね。やっぱりちょっと出て来る」
ちょっとだけ。
お屋敷の周りを警戒して、ついでにちょっとだけ散歩して来るだけ。
あたしはバルコニーの手すりの上に飛び乗る。そしてそのまま、ゲストハウス裏の森に身を踊らせた。
二階の高さから、たんっと着地。そのまま勢い良く走り始める。
あたしにだって銀気はある。これまでの戦いや冒険で、力の扱いだって学んで来てるんだから。
あたしはぐんぐん加速して、森の中を走り抜ける。
シズナさんや優人たちと駆け抜けた山とは違う、手入れの行き届いた森。木々が勢いよく後方に流れていく。
濃い緑に満ちた空気を、胸一杯に吸い込んだ。
あっ。
やばっ。
前方に人影が見えて来た。鎧姿の2人組だ。きっと警備の騎士に違いない。
ここで見つかるわけには、いかないよね。
あたしはたんっと地面を蹴った。
銀気のお陰で信じられない程高くジャンプしたあたしは、大きな木の枝の上にがさっと飛び乗った。
そのまま枝から枝へ飛び移り始める。
木々の間から空がぐっと迫り、足元に騎士たちが通り過ぎて行く。
あたしには気が付いていないっ!
「ふふふっ」
思わず笑ってしまう。
よおーし。もう少し遠くまで行ってみよう。
この冒険、カナデちゃんに話したらきっと怒られるけど、目覚めた陸に話してあげれば泣いて悔しがるに違いないよねっ。
あたしは、そのまましばらく森の中を駆け回っていた。
どれくらいの時間がたったのだろう。
気が付けば、日が傾き始めていた。
空の一番高いところの青が濃くなり始めて、お日様の沈む方角が茜に染まり始める。
大木の枝の上からそんな光景を見つめていたあたしは、胸の奥がきゅっとなってしまった。
世界は広い。
独りでは、あまりにも……。
はっ。
ううう。
ダメ、ダメ。
その時。
たんっという小気味良い音が、森に響いた。
この音……。
続けて2度3度と続く音。
もしかして……。
弓使いとしてやって来たあたしの勘が、ぴぴっと反応する。
あたしは枝を揺らして、音のする方に大きく跳んだ。
視界が開ける。
そこは、広い場所だった。
向こうに大きなお屋敷のシルエットが見えた。あたしたちが滞在するゲストハウスより大きそうだ。
その手前に小屋が建っていて、そこからかなり離れた場所に木の人形たちが立っている。
人形たちは無惨にも無数の矢まみれ……。
多分、射場だと思う。
たんっと音が響く。
人形の胸に、また新しい矢が突き刺さった。
おー。
なかなかの腕前。
あたしは弓を引いている人に興味が湧いて、とととっと射場の方に駆け出した。
的に向かって大きく開いた小屋に、弓を構えた人がいた。
あたしは柱の影からそっと様子を窺う。
……ムキムキだ。
ガッチリとした体つき。シャツの上からでも分かる筋肉。大きな体に、長弓がなんだか短く見えてしまう。
髪は、燃えるような赤。微かに白いものが混じっている。同じ色の髭を蓄えた顔は、ごつごつで少し怖い。カナデちゃんちのおじいちゃんが、大きくなっちゃったみたいだ。
ちなみにカナデちゃんちのおじいちゃんも、カナデちゃんと同じで小柄だったんだよね。
「誰か」
ひっ。
低い声が響く。
弓を持ったおじいちゃんがあたしの方を見た。
見つかった?
「賊か。性懲りもなく」
おじいちゃんが弓に矢をつがえると、こちらを狙う。
「す、すみません、ああ、怪しい者じゃないんです!」
あたしは手を上げて降参ポーズを取りながら、おじいちゃんの前に進み出た。
「娘……?このような場所に、何者か?」
おじいちゃんは弓は下に向けてくれるが、刃物のように鋭い視線があたしを射抜く。
凄い威圧感。
まるで、怒った時のカナデちゃんのおじいちゃんやリムウェア侯爵さまみたい。
むむむ。
ただの弓矢上手なおじいちゃんではなさそう。
「あの、あたし、旅の冒険者の夏奈っていいます。森を歩いてて、たまたまここに出ちゃって、そしたら射場が見えたから……」
「冒険者がたまたま?ふんっ」
「す、凄い腕前ですね、おじいちゃん」
「おじ……?」
途端におじいちゃんは、方眉を上げて呆気にとられたような表情になってしまった。
「あんな遠くの的に当てるなんて、凄いっ」
誰だか分からないけど、ここはまず共通の話題で打ち解けよう作戦だ。
せっかく出会えたんだし、険悪なまま別れるのも後味悪いし……。
「あたしも弓矢使うんです」
あたしはひょいっと背中の弓をおじいちゃんに見せた。
「でも、おじいちゃんみたいにあんな遠くの的に当てられる自信ないなぁ」
うそ。
あたしに掛かれば、イチコロですよ。
「弓馬の道は北方の男の習いだからな」
低い声のおじいちゃんは、幾分警戒を解いてくれたみたいだった。
「そうだっ。あたしもここで弓の練習していいですか?」
突然閃いた。
そういえば最近弓の練習してないし、何よりも今は体を動かしていたい。
見ず知らずの人でも、おお、なかなかやるなとか言われてみれば、良い気晴らしになるだろう。
あたしの頭よりずっと高い位置から、睨むようなおじいちゃんの視線が降って来る。
「……よかろう。腕を見せて見よ」
おじいちゃんは、あたしから少し離れて立った。
よし……。
あの禍ツ魔獣とも戦ったこのあたしの腕前、見せ付けてあげるよ。
あたしは改めて射場に立つと、弓を構えた。
矢筒から矢を引き抜き、つがえる。
集中。
銀気を高めながら、ゆっくりと引き絞る。
「銀気」
おじいちゃんが驚いたように、呟いた。
そして。
ここ!
「……っ!」
矢を放つ。
夕暮れの射場に、銀色の光をまとった矢が疾駆する。
吸い込まれるように木人形に向かった矢は、着弾と同時に盛大に土煙を巻き上げた。
「えへへ。どうかな」
ここは殊勝にも得意げな笑みを押し殺し、あたしはおじいちゃんを見た。
おじいちゃんは厳つい顔をさらにしかめて、土煙の上がる的の方を見ていた。
「ふんっ、こんなものか。なっとらん」
ぼそりと呟くおじいちゃん。
「娘。ついて来るが良い」
そして、大股に木人形の方に歩き出した。
「おじいちゃん?」
あたしは慌ててその後を追った。
無言で木人形のところまでやって来たおじいちゃんは、ごつい指で指差した。倒れてしまった木人形を。
ふふんっ。
あたしの矢の威力に耐えられなかったんだね。
「違う。良く見ろ」
あたしの心を読んだかのようなおじいちゃんの言葉に、ドキッとしてしまう。
「顔色の読みやすい娘だ。さすがに、この者が刺客ではあるまい」
低い声でぼそぼそ呟くおじいちゃん。
それよりもあたしは、倒れた木人形に目を奪われていた。
……木人形が倒れたのは、あたしの矢が当たったからではなかった。
外れたあたしの矢が、木人形が突き立てられていた根元の土を吹き飛ばしていたからだ。
やっぱり鈍っちゃたかな、腕。
あーあ……。
「力に頼っているからだ」
あたしは、はっとおじいちゃんを見た。
「娘。冒険者といったか。どこから来た」
「……えっと南からです」
「1人でか」
「仲間のみんなと……」
あたしはしゅんっと肩を落とした。
「ならば、疾く去るが良い。北部は、お前のような未熟者の冒険者が生き易い土地ではない。他と違ってな」
おじいちゃんは背中を向けて歩き出してしまう。
「えっと、もう一回!もう一回やります!」
あたしは何だか悔しくなって、その背中にそんな言葉ぶつけていた。
「……同じ事よ。去れ、娘」
むむむ。
頭から決めつけてっ。
あたしにだって意地はあるんだから。
「だったら、おじいちゃんが教えてよ、弓矢!」
あたしは、思わずそんな言葉を口にしていた。
すたすたと歩み去ろうとしていたおじいちゃんが、不意に足を止める。そして振り返ると、あたしを見た。
「お前に教授せよとな、このわしが?」
「あたし今暇なの。どうせおじいちゃんも暇なんでしょ?」
あたしは弓を抱えながら、おじいちゃんに詰め寄った。
初めは面食らったような顔をしていたおじいちゃんだったが、ついには耐えきれなくなったというように、くくくっと低く笑った。
「……良い。その気骨は心地良い」
「じゃあ、教えてくれるの?」
沈黙。
再び怖い顔に戻ったおじいちゃんは、暫くあたしを睨みつけた後踵を返した。
「ちょ……」
「わしは、お前が言う程暇ではない。明日は午前中から用がある。午後、再びこの場までたどり着けたなら、わし手ずから教授してやろう」
よーし。
そうこなくては!
燃えてきたぞっ。
「約束ねっ!」
あたしはお屋敷の方に歩み去るおじいちゃんの背中に、ぶんぶん手を振った。
翌日。
カナデちゃんとレティシアは、また北公さまと会談があるとかで朝から出かけてしまった。昼頃には戻るらしいので、それまであたしが陸の看病だ。
「陸、あたし負けないからね」
もう普段と変わらない顔色になった弟の寝顔に、決意表明する。
あたしは陸のベッドの脇で、弓の手入れを始めた。
少なくとも、こうして何かに夢中になっている間は、寂しさとか不安とか、そんな嫌なものを忘れられる。
例え、その場しのぎであったとしても……。
「あたしの実力、見せてあげるからね」
誰に向けてという訳でもなく、あたしはそう宣言していた。
読んでいただき、ありがとうございました!




