EXAct:お義母さま1
耳障りな機械の音と鉄臭い匂い。
この2つがなければ、航空船というのもなかなか興味深い体験だった。
空を飛ぶ。
そんな事が、私の生きているうちに可能になるだなんて。
リコットちゃんがあんなに小さな体でこんなにも大きな船を操っているというのも、興味深いわね。
「マリアスティーリアさま。不都合はございませんか?」
「ええ、大丈夫よ、レティシア」
私は、赤毛の女性騎士に笑顔で頷いた。
「ブライトリストさまは、如何でしょうか?」
「ええ……。あの人はお部屋で少し……。この船が落ちるのではないかと、不安みたいね」
私は、口に手を当てて微笑んだ。
まったく、あんなに大きな体をしているのに、あの人ったら部屋の隅で震えているんだもの。前国王が聞いて呆れるわ。
空の上だなんて、こんな風景、なかなか見られないというのに。
手すりに掴まりながら、私はリコットちゃんの操縦席の向こうに広がる景色に目を凝らした。
この空飛ぶお船は今、リムウェア領都インベルストに向かっているところだった。私の愛する義理の娘と、次男が暮らす街に。
「ねぇ、シズナ。あれがインベルストかしら」
「違うわ」
「では、あれね」
「違うわ……。まだかかるみたいよ、アリサ。少し落ち着いたら?」
操縦室の隅で、私と同じ様に外界に目を凝らす2人の女性たちが騒いでいる。
あれは確か、冒険者ユウトちゃんのフィアンセに、参謀部の方だったかしら。
賑やかで楽しそう。
私はふふっと笑う。
私だってインベルストが待ち遠しい事には違いはなかった。
「マリアスティーリアさま。見学されるのでしたら、お座りになって下さい」
リコットちゃんが、ちらりと私を見た。
優しい子。
「いいのかしら?」
「はい、空いてる席なら、どうぞ。あと、揺れますから」
「ふふ、ありがとう」
私はお礼を言って、凄い機械とかレバーがついた座席にそっと腰掛けた。
何かしら。
ピカピカ光っていて、硝子細工より綺麗ね。
その私の後ろに、レティシアと近衛騎士のエリカがそっと立った。
レティシアは、何でも遺跡発掘の警備任務だとか。
エリカは、言わずもがな、私と夫の警護。
私と夫は、前々からインベルストの息子夫婦のもとへ赴くべく計画を立てていた。
本当は馬車で向かうつもりだったのだけれど、年老いた私たちには、なかなか長旅は厳しいもの。どうやってインベルストまで行こうかしらと考えていた所に、遺跡発掘隊が空飛ぶ船で出発すると聞き及んで、早速便乗させてもらったのだった。
まさに、渡りに船。
急な予定変更で仕事を増やしてしまったレティシアや、技術省の方々には申し訳ないけれど。
何も、愛らしい義理の娘に孫の顔が見たいとせっつく為だけに、インベルストに赴くのではないの。私たち夫婦は、当分の間息子夫婦の側で生活するつもりだったから。
もともと、夫が王位を長男アルクトゥルスに譲位した後は、私たち夫婦で畑を耕しながらのんびり暮らすのが夢だった。
ところが、あの恐ろしい魔獣との戦いがあって、王都は激しく破壊されてしまった。
本当に痛ましく、辛い出来事。
あの戦いの終わりの頃、王都は3重ある城壁を2枚目まで破られてしまった。私と夫が暮らしていた館も、壊されてしまったのだった。
私たちはその後しばらくは王城で王陛下と一緒に暮らしていたけれど、引退した私たちが国政の中心に居座るのは、やはり好ましくない。
それに、堅苦しいお城の生活は、私も夫も望むところではなかった。
私たちは、王陛下にお断りして、カナデさんとシリスの暮らすインベルストに居を移す運びとなったのだった。
私に言わせれば、何を今更という話だけれど、折よくカナデさんとシリスが正式に婚約したと報告が来た頃。
良いタイミングね、と私たちは、この航空船に乗せてもらったのだった。
「間もなく前方下に、ロストック大河が見えるわ」
リコットちゃんの声が響く。
目を凝らすと、雲の下、確かにキラキラと光る帯のようなものが微かに見えた。
冬枯れの平野の中に輝く水面。
なんて美しいのかしら。
でも、大河というには、少し狭いようだけれど。
「この河を遡れば、インベルストはもうすぐよ」
リコットちゃんが微笑みながら後ろを振り返る。
もう直ぐカナデさんに会えるわね。
あと、シリスも。
私は微笑んでリコットちゃんに頷き返した。
航空船の扉が開くと、そこは土の広場だった。
きっと、騎士団の練兵場ね。
微かに香る緑の香と、水の匂い。
大きな川が近いからかしら。
王都とはまた違う匂いが、遠くへ、知らない街に来たのだということを私に感じさせてくれる。
見上げる空は青。
寒いけれど、王都ほどは厳しくはない冬の風が、さっと吹き抜けていく。
穏やかな良いところね。
私は目を細めて遠くを見た。
冬空の下、遠くに古びた城塞とお屋敷が見えた。
あれがリムウェア侯爵のお屋敷かしら。
なんだかこぢんまりしていて、のんびり出来そう。
階段を降りる。
主人が私の手を取ってくれた。
「ブライトリスト閣下!マリアスティーリア閣下!ようこそ、リムウェア侯爵領インベルストへ!」
航空船の前にずらりと並んだ騎士たちが、一斉に姿勢を正した。掲げられた白刃がきらりと光る。
見慣れた王直騎士団の鎧ではない。きっと、リムウェア侯爵家の騎士団ね。
私は夫と手を繋ぎ、笑顔を浮かべながら騎士たちの間を進んだ。
そんな騎士たちの向こうから、3人の人影が近付いて来るのが見えた。
背の高い2人は、レグルス候とシリスね。
侯爵がいつも通り厳めしいお顔で会釈して下さる。シリスは、少し照れくさそうに微笑んでいた。
あの子、傷はもういいのかしら。
そして。
「マリアお母さま!」
弾けるような声が響いた。
透き通った鈴の音のような声。
銀髪の女の子が歩み寄って来た。
その顔を見た瞬間、私は自然と微笑んでいた。
ああ……。
少し髪が伸びたかしら。
ふわりとまとめた銀の髪。くりくりと輝く大きな緑眼。柔らかく仕立ての良い濃紺のコートに、下は短めのスカートが揺れている。温かそうなタイツに包まれたすらりとした足が軽やかに地を蹴る。
「マリアお母さま!」
カナデさんは、たんっと私の前で立ち止まると、ぺこりと頭をさげた。
銀色の髪がふわりと踊る。
「申し訳ありません、ブライトお父さま、マリアお母さま。お2人が来られると、今日知ったものですから。きちんとお迎えの準備もできずに……」
カナデさんの形の良い眉が、きゅっとハの字になってしまう。
私は思わずカナデさんを抱き寄せていた。
「うわむっ、マムアお母さむ……」
「こちらこそごめんなさいね。突然の訪問を許して頂戴ね」
まるで銀色の猫さんみたいに、私の腕の中でもぞもぞするカナデさん。
「カナデさまっ!私もっ!私もっ!」
「や、やめなさい、アリサ……、みなさまの御前で!」
何やら背後が騒がしいわね。
解放してあげると、カナデさんは少し困ったように微笑んだ。
「ブライトお父さまも、長旅お疲れさまでした」
「むっ」
微笑むカナデさまに、夫は少し照れたみたい。
あらあら、まあまあ。
カナデさんはひょいと私たちの背後を覗き込むと、微笑んで手を振った。
「アリサもレティシアも久し振り。ハインド主任、お疲れさまです。お屋敷に案内しますから、ゆっくりして行って下さいね」
カナデさんの言葉に、あのショートカットの参謀部の子は、腕が千切れんばかりに手を振っていた。
私たちは、並んで歩き出す。シリスとレグルス侯も合流して、候の屋敷へと歩みを進めた。
私はそっとシリスの腕に触れた。
「傷はもう良いの?」
私が見上げると、シリスは照れくさそうに目線を逸らした。
「おかげ様で、もう治ったよ」
「シリス」
珍しく声を上げた夫も、シリスの顔を見る。
「無理はするな」
小さく頷くシリス。
やっぱり照れくさかったのか、シリスは少し早足に、私たちの前に出た。
あの子ったら、幾つになっても恥ずかしがり屋なんだから。
そのシリスの隣に、とことこっとカナデさんが並ぶ。
「良かったですね、シリス」
「……何がだ」
「お父さまとお母さまに会えて、ですよ」
「いや、別に……」
「ふふ、だって、ブライトお父さまとマリアお母さまが来られるって知ってから、シリス、そわそわしっぱなしでしたよね」
悪戯っぽく笑うカナデさんを半眼で見るシリス。
「うわっ」
突然、シリスがカナデさんの頭を鷲掴みにしてしまった。
「何ですか、シリス。う、うう、ちょっと痛いですよ」
私はそんな2人の姿を見て、思わず微笑んでしまう。
いいわね。若いというのは。
「マリアさま。ブライトさま」
そんな私の隣に、そっとレグルス侯が並んだ。
「少しお聞きしてもよろしいですかな」
相変わらず鷲のように鋭い顔で、レグルス候は私たちを見る。
……恐いこと。
あのカナデさんのお父さまには、とても見えないわ。
ふふ、まぁ実子でないのだから、当たり前なのだけれど。
カナデさんの身辺は、一応調べさせてもらった。残念だけれど、リングドワイスの血脈に迎えようというのだから、当然の措置なのだ。
巧妙に秘匿されていたが、カナデさんがレグルス候の実子でないことは把握している。でも、その事実を差し引いたとしても、私はカナデさんがシリスに嫁ぐのに異論はなかった。
「お2人は、我がリムウェア領に滞在なさると?」
私はそっと夫を見た。
厳めしさでは負けていないこちらも、重々しく頷く。
「そうね。孫の顔が見られるまでは、お世話になろうと思います」
私はニコッと微笑んだ。
「……つまりは、カナデの婚姻、リングドワイスへの嫁入りとなる。そういうことですかな」
なるほどね。
私たちが一緒に暮らすということで、そう取られてしまうということね。
私は少し悩んでから、夫を見た。
巌のような顔で、夫は頷いてくれる。
「また後で話そうと思っていたのだけれど」
私は微笑んでレグルス候の目を見た。
「シリスは臣籍降下させるわ。その上で、リムウェア侯爵家に婿養子に入れます」
レグルス候が顎に手をあて、やはりな、と頷く。
「では、何故お2人は当地に滞在を?」
レグルス候は眉間にシワを寄せて私たちを見た。
「王都では、なかなかこの人と土いじりというわけにもいかないでしょ?私たちはもう第一線を引いた身。陛下のお邪魔はしたくないわ」
ふむ、と唸るレグルス候。
獅子候と呼ばれる武人であるこの人には、わからないかしら。
私たちは、城塞をくぐり抜け、丁寧に剪定された庭園を通り抜けて、お屋敷にたどり着く。
そこでレグルス候は、なんだかわざとらしい溜め息を吐いた。
「承知いたしました。他ならぬカナデの義父と義母殿のお頼みだ。ロストック大河、河畔の離宮をお使い下さい」
相変わらずしかめっ面のままのレグルス候。
私は、ふふふっと笑って、「ありがとう」と伝えた。
赤々と燃え上がる暖炉の炎が、シリスの居室を暖めてくれる。
暖炉の灰もきちんと掻いてあり、品の良い調度品も丁寧に掃除してある。
さすがはカナデさんのメイド、あのリリアンナが仕切っているお屋敷だけあるわね。
冬の長い夜。静まり返ったこんなお部屋でゆっくり読書できれば、きっと素晴らしく有意義な時間を過ごせる筈。
レグルス候が与えてくれた河畔のお屋敷がどのような場所かはまだわからないけれど、この部屋と同じように居心地の良いお屋敷なら、インベルストでの隠居生活もきっと楽しくなるに違いないわ。
ふふふっと私は、1人で微笑んだ。
しかし。
良いお部屋なのだけれど、1つだけ気になる所がある。
あのベッドの脇に鎮座する猪の像。
……あれは、何なのかしら。
置物にしてはやけに大きくて邪魔だし、少し真に迫り過ぎていて、正直怖いわ……。
私はその猪を真正面から見られなくて、横目でそっと窺った。
そこに、突然ノックの音が響いた。
猪が動き出したのではと思ってしまって、私は少し肩をすくめてしまう。
「どうぞ」
扉が開き、シリスやカナデさんが入って来た。その後には、リリアンナも付いてくる。
「待たせたな、母上」
「いいえ、シリス。でも時間がかかっていたようだけれど、何かあったかしら」
シリスはソファーに腰掛ける。私の対面席に。その隣に、ちょこっとカナデさんが腰掛けた。
リリアンナは、扉の脇に控えている。
「すみません、お母さま。少し不審者騒ぎがありまして……」
カナデさんが苦笑いを浮かべた。
「不審者?怖いわね。田舎は良い人ばかりと聞いたけれど」
「……いえ。アリサが警備の騎士に捕まっただけですから。大丈夫です」
えっと、カナデさんは笑顔だけれど。
……本当に大丈夫なのかしら?
「それよりも母上。カナデに話があったのでは?」
「ええ、そうね」
私はシリスに微笑んでから、カナデさんを見つめ直した。
「カナデさん」
「はい?」
「シリスのお嫁さんになってくれて、ありがとう。この子を選んでくれて、本当にありがとう」
「お?おおお、オヨメ……」
私はそっと、カナデさんに頭を下げた。
暫くの間の後顔を上げると、カナデさんが驚きの表情のまま固まっていた。
「カナデさん?」
「お、お母さま」
カナデさんがわざとらしく咳払いし、真っ直ぐに私を見た。カナデさんの左手が、手のひらを私に向けたまま円を描くように動く。
……何かしら。
「お母さま。オヨメサンなんて、人聞きの悪い仰り様はご容赦下さい。それは、あくまでも外部向けの発表です。私は、ただシリスのパートナーとして、これからも頑張ると決めただけなんです。公私に渡るパートナーとして、シリスなら一緒にいられると思っただけなんです」
真剣な顔のカナデさんに、私は首を傾げた。
つまり……。
カナデさんは、小難しい言い回しが好みなのかしら。
「公私に渡るパートナーって、つまりは夫婦って事よね」
またカナデさんが固まる。
今度は顔を真っ赤にし始めた。
ふふ、何て可愛らしい反応。
女の子は男の子に比べて早熟なもの。カナデさんくらいの年齢の女の子なら、今まで大なり小なり恋をして来たはずなのだけれど。
しかし、目の前の銀髪の少女は、まるで初めて『好き』を知ったかのようだった。
「くくくっ」
そんなカナデさんの反応が楽しくてたまらないといった感じのシリスが、幸せそうな笑顔を浮かべる。
この子、こんな顔をするようになったのね……。
まだまだ兄の後を追い掛ける悪さ坊主の印象でしかなかったけれど、それは確かに守るべき家族を見つけた男の顔に違いなかった。
カナデさんの頭を撫でようと、シリスが手を伸ばす。
カナデさんがその手を、目にも止まらない速さで叩き落とした。
「シ、シリス!」
「はは、すまない。母上、この通りだ。カナデは、俺のパートナーであることに頷いてくれた。ならば俺は、文句などありはしない。それでいいさ」
あらあら、まあまあ。
「そう」
私は微笑む。
「お、お母さま……」
カナデさんが、赤い顔のまま、真っ直ぐに私を見た。
なんて、力強い目なんでしょう。
知らず知らずのうちに、吸い込まれてしまいそう……。
「私は今まで、リムウェア侯爵、お父さまの娘として、恥ずかしくないよう頑張って来ました。魔獣との戦いも、お世話になったみんなの為に頑張ったつもりです。それで、今度は……今度は、シリスのオヨ……パートナーとして、頑張っていこうと決めたんです。そうありたいと、私が私として、素直に思えた事だから……」
カナデさんがカナデさんとして決めたこと。
私はそっと胸に手を当てた。
レグルス候が彼女を侯爵家に招き入れたのも、こういう気持ちを抱いたからなのかしら。
私の息子は幸せね。
こんな伴侶、なかなか得られるものではないわ。
小さな唇を噛み締めて緊張で固まるカナデさんに、私は頷いた。
「これからあなたは、私の本当の娘ね。よろしく、カナデさん」
微笑む。
目を見開き、少しの間の後、慌ててカクカクと首を振るカナデさん。
ふふっ。
「でもね。形は大事よ。あなたたちがどういう心づもりで一緒にいたとしても、世間や民には示しが必要です」
無事決意表明が出来て、シリスの隣でふにゃりと弛緩したカナデさんが、きょとんと目をしばたかせた。
「私のウェディングドレスを持って来たわ。もちろん仕立て直しは必要だけれど、結婚式には是非着て頂戴」
「結っ!ウ、ウ、ウ、ウェディング……! シリス、どうしたら……。そうだ、早い!まだ早いですよね?」
機械人形みたいな動きになってしまったカナデさんの頭を、シリスは今度こそ優しく撫でた。
「そうそう、ベビー服とか、ベビーベッドも持って来たのよ。ふふ、シリスのお下がりね」
今度は、シリスが顔を真っ赤にする。照れ隠しに私を睨んでくる。
「は、母上!」
全く、先程の男の面構えはどうしたと言うのかしらね。
ふふっ。
そんな2人を笑っていると、背後からリリアンナがすっと近寄って来た。
「申し上げます、奥さま」
「何かしら」
リリアンナは頭を下げる。
「カナデお嬢さまに、この話題は刺激が強うございます。ご覧の通り、今のカナデさまは、見るも忍びないお姿に……。今宵はこのあたりでご容赦のほど……」
「そう、そうね」
目の前の初々しい息子たちとの生活は、始まったばかりなのだから。
「では、主人のところにいきましょうか。レグルス候と一緒に、寂しくお酒をいただいている頃でしょうから」
私が笑うと、カナデさんもほっとしたように笑ってくれた。
夜は更けていく。
私たちは娯楽室で夫やレグルス候と合流すると、今度は5人でおしゃべりを始めた。
私たち家族は、時を忘れていつまでも話し込んでしまう。
夜のお屋敷に、笑い声が響いた。
読んでいただき、ありがとうございました!




