張り込み
まだまだ寒い四月の夜中の街を動く人影。
それは県立油ノ宮高校の閉じられた正門の前まで小走りに移動し、そこで立ち止まり辺りの様子をきょろきょろと窺ってから、ひょいと門を飛び越えた。
門を越えると、正面に十メートル四方程の植え込みがあり、右に生徒用、左に職員用の昇降口がある。
その人物は一気に植え込みの中まで移動し、そこに身を潜めた。
寒空の下、水着一枚の姿で身を隠すその姿は、まるでどこかの変質者の様に見える。
しかし、彼こそがこの物語の主人公、夏田譲司だ。
その風体からは想像もつかないが、れっきとした高校教師である。
教え子であり、恋人でもある西山葵を中傷するビラを作った人物を捕えるべく、こうして夜中に侵入したのだ。
彼はビラが置かれていた職員用の昇降口と、生徒用の昇降口を交互に見つめ、
「絶対捕まえてやるぞ……」
と呟いた。
ビラを発見した教員に話を聞いた所、それは昇降口のドアから入ってすぐの床の上にあったらしい。
その教員は、その日の朝一番に出勤していた。
と言う事は、そのビラを作った男は、夜中に学校に侵入し昇降口のドアの下の隙間からそのビラを入れたのではないか。
そちらが生徒用ではなくて職員用の昇降口だと知らずに。
ビラが最初に職員に見つかれば、その内容を生徒達に教える筈がない。
事実、ビラの事は一部の教職員にしか知らされていない。
犯人はしくじったのだ。
だから、もし犯人が間違いに気付けば、再びビラを入れに来るのではないか。
今度こそは、生徒用の昇降口に。
夏田はそう推理した。
辺りはひっそりと静まり、昇降口のガラス戸は学校の前の道路にある街灯にうっすらと照らされている。
昼間の喧騒を知っているだけに、深夜の学校というのはとても不気味だ。
夏田は特別幽霊などが苦手な訳ではないが、それでもこうして一人佇んでいると、たまに身震いしてしまう。
しかし今は怖いなどと言ってられない。
西山葵に汚名を着せようと目論む奴を、何としても捕まえねばならない。
犯人が何時に来るのかは分からないし、もしかしたら来ないかも知れない。
長期戦も覚悟せねば。そんな事を考えていると、
「コラッ! そこで何してる!」
突然の声に驚き後ろを振り返ると、眩しい光が網膜を照らした。
その光は夏田の顔を数秒照らした後、下に落ちた。夏田の眼の前には、一人の警察官の姿があった。
「何してるんだ、そんな所で。服も着てないじゃないか」
夏田はふうっと息を吐き、
「何だ、警察か。脅かすなよ、まったく」
「質問に答えろ!」
警察官は数歩夏田に近付いた。
夏田は警察官を睨んだ。おそらく自分より年上だろう、三十代ぐらいか。中肉中背で、なんとなく気の弱そうな顔。態度の割にはあまり迫力がないな、と夏田は思った。
「何だっていいじゃねえか。俺はこの学校の教師だ。自分の職場なんだから、別に入ったっていいだろ」
「はぁ?」
警官は眉を寄せ、首を傾げながら言った。
「ふざけるなよ。夜中に水着一枚で外をウロウロする教師なんかいる訳がない」
「いるんだよ、それが。そっちこそ本当に警官か? 警官は普通二人一組で行動するはずだ。実はお前、コスプレなんじゃねえか?」
警官は校門の方を指さし、
「もう一人はパトカーの側で待機してんの!」
校門の方を見ると、確かにもう一人の姿が見える。
「コスプレ仲間か?」
「これ以上本官を侮辱すると許さんぞぉ!」
怒ってはいるが、何とも迫力がない。
「なあ、こっちは張り込みをしてるんだから、あんまり大きい声出すなよ」
「張り込みぃ!?」
警官は首を左右に振り、
「ますます分からんね。何で教師が、夜中に水着一枚で学校で張り込みするんだ?」
夏田は、しょうがないな、と言ってこれまでの経緯を警官に説明した。
警官は話を聞き、腕組みをして考え込んだ。
「いいかい、こんなの警察に話したって、本格的に捜査してくれないだろ? だからこうやって自分で張り込んで犯人を捕まえようとしてるんだ」
警官はしばらく考え込んだ後、
「しかし、それならまず、その女の子にそういう事実があるのか聞くべきなんじゃないのかなあ……」
夏田はふうっとため息をつき、
「なあ、担任の教師にそんな事を聞かれて正直に、はい、援交やってますって答える訳がないだろう」
「それもそうだが……」
「まあ、俺は彼女はそんな事してないって信じてるけどね」
警官は夏田の顔を見て、微かに微笑み、
「そうか……まあ、分かったよ。それじゃあ風邪ひかないように……」
その時、遠くでパリンとガラスの割れるような音がした。
夏田と警官は、はっとして音が聞こえて来た方を見た。
それは生徒用の昇降口がある方だったが、とくに変化はない。
夏田は警官の顔を見て、
「今のは、多分校舎の裏側の方だと思う」
「そうだな、行ってみよう」
二人は足音を忍ばせつつ、小走りに校舎の裏手の方へと駆け出す。
もう一人の校門の外で待機している警官は、不安げな顔で二人を見ていた。
冷たい北風が、すうっと暗闇を吹き抜けた。