怪文書
高校教師は普通、一週間に18コマから20コマの授業を受け持つ。
だから、大体一日に二時限から三時限分は空いた時間があり、その時間に次の授業の準備や、色々な雑務をこなしたり、休暇を取った教員の代わりに授業をしたりもする。
ここ県立油ノ宮高校の新任教師、夏田譲司はその空き時間を利用して、校舎の屋上に大量の書物を運び込み、それを読んでいた。
相変らず濃紺の水着一枚の姿でコンクリートの上に座り、誰も周りに居ない中、一人熱心にその書物を読みふけっている。
一見変質者のように見えても、さすがは教師。
これからの生徒指導において、有益な書物を読む事で、教師として必要になるであろう、教養と指導力を身に付けようとしている……ように見える。
二時限目の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
しかし、次の三時限目も空いていたので、夏田はそのまま本を読み続けた。
「センセーっ! 夏田センセーっ!」
急に名前を呼ばれて夏田は慌てて手にしていた本を閉じ、後ろに隠した。
声のした方を見ると、一年D組の体育委員の佐野雄一が駆けて来る。
佐野雄一は自ら体育委員を希望しただけあって、見るからに頑丈そうな、スポーツマンらしい体つきをしている。
背が高く、イケメンで女子の人気も高い。
その後を追うように同じくD組の生徒が二人付いて来ていた。
「こんな所にいたんだ。先生、午後の体育の授業の準備で聞きたい事が……」
そこまで言ったが、夏田の怪しげな素振りを見て、
「先生、今、本読んでたよね。なんで隠すの?」
「えっ、い、いや、別に、隠してなんか……」
夏田は明らかに動揺した声で言った。
「何の本読んでたの? あっ、ひょっとしてエッチな本? どれどれ、見せてよ!」
佐野は後ろに回って本を見ようとしたが、今度はその本を抱き込むようにして夏田は隠す。
すると、生徒達は側に置いてあった買い物袋の中を漁り始めた。
「何だ、この中も本ばっかじゃん」
「あーっ、ダメだって! コラ! 人の物を勝手に……!」
夏田は素早くそれを奪おうとしたが、生徒達が中身を取り出すのが一瞬早かった。
「何コレ。『童貞君のためのセックス講座』って……先生こんなの読んでんの?」
夏田は素早くその本を奪い取り、
「い、いや、違う! これは違うんだって!」
冷や汗をだらだらと流しながら叫んだ。
他の生徒が別の本を手に取り、
「こっちは……『初めてのエッチで彼女をイカせる方法』だって」
「コ、コラ! 返せ!」
もう一人の生徒も本を持ち、
「こっちは『実践セックスマニュアル』、『女体の攻め方・入門編』……ギャハハハハハハハッ!」
佐野は嬉しそうな顔で夏田を見て、
「先生、童貞だったんだね! それで西山との初エッチに備えて研究してたんだ!」
「いや、違う! 先生は断じて童貞なんかじゃ……!」
しかし、夏田の言葉を無視して佐野達は、
「童貞! 夏田譲司先生は童貞! イエーイ!」
そう言って嬉しそうに飛び跳ねながら、その場を後にした。
高校生の間でも当然SNSは普及しており、『夏田は童貞』と言う情報はその日の昼休み頃には、全校生徒に知れ渡った。
その日の放課後、夏田は校長室に呼び出しを食らった。
それを自分に伝えた学年主任の厳しい口調から、説教をされるであろうとういう想像は付いた。
実は、入学式の一件の後、夏田は校長室で散々怒られた。
あの時は確かに自分が悪かったのだから仕方がないと思ったけれど、今度は違う。
夏田は校長室の前に立ち、大きく息を吸い込んでからノックをした。
どうぞ、と言う校長の聞き覚えのある声がかかり、夏田は失礼しますと言って中に入った。
やや薄暗い部屋の中で、武田校長が大きな机に両肘を付き、神妙な顔で夏田を見ている。
白髪頭にふっくらとした顔と体は、いかにも校長、という風情である。
夏田は、つかつかと校長の机の側まで詰め寄り、先に口を開いた。
「校長、どうしてですか?」
夏田は険しい顔で武田校長を睨み付け、
「何故、こんな事で怒られなきゃいけないんですか?」
「……はぁ?」
武田校長は銀縁メガネの位置を直しながら、
「何を言っとるんだね、君は」
夏田は机の上に両手を付き、身を乗り出すようにして自分の顔を校長に近付け、
「童貞かどうかと言うのは個人の問題でしょう! それをどうして校長に怒られなきゃいけないんですか!」
武田校長は大きく眼を見開き、続け様にパチパチと瞬きをして、
「童貞……何だ、君はまだ童貞だったのか」
夏田は拍子抜けしてしまった。
「え……? 校長、知らなかったんですか?」
「今初めて聞いた」
「私が童貞だから、説教をするために呼び出した訳じゃないんですね?」
武田校長は呆れた顔で、
「何で、君が童貞だったら私が説教せにゃならんのだね。訳が分からんよ」
「私も、何でだろうと思ってました」
「……………………」
「……………………」
沈黙が続き、校長室の中に変な空気が流れた。
校長は、おもむろに机の引き出しを開け、中から数枚の紙を取り出した。
それは白くて大学ノートぐらいの大きさの紙なのだが、
「これを見てくれたまえ」
そう言って、それを夏田の前に差し出した。
夏田はそれを受け取り数枚重ねられたうちの、一番上の紙を見た。
『油ノ宮高校一年D組の西山葵は援助交際をしている』
新聞か雑誌か何か切り取って貼り付けたのであろう、一文字ずつ大きさや書体が違う。
昔刑事ドラマなどでたまに出て来た、犯罪の予告状や犯行声明分を連想させる。
他の紙も見たが、最初の紙と概ね同じような内容だ。
「これは……」
夏田は真剣な顔で校長を見た。
「それは、教職員用の下駄箱の中に入れてあった」
校長の表情は急に険しくなり、眼鏡の奥の眼には怒りが宿っている。
「イタズラでしょう! こんなのイタズラに決まってます!」
夏田は声を荒げて言った。
「私もイタズラだと思いたいのだがね」
校長はそう言いながら椅子を引き、ゆっくりと立ち上がった。
「夏田先生、君はその西山葵と親しい関係にあると聞いたのだが、本当かね」
そう聞かれると、夏田としては何と答えていいのか分からなかった。
ひと口に親しい関係と言ってもどこからどこまでを指すのか、はっきりとした定義はない。
昨日今日と、西山葵に昼食をご馳走になり、大勢の前で彼女が出来たと叫んだが、実はまだ彼女から好きだと告白された訳ではない。
もちろん肉体関係などある筈もない。
「いわゆるその、肉体関係はありません」
夏田としては、取りあえずそう言っておくしかなかった。
武田校長は、そのフラスコ型の体を横に向け、フム、と言って頷いた。
視線を下に落とし、しばらく思案した後夏田の方へ向き直り、
「いいかね、夏田先生。私だってそんなに融通の利かない人間ではない。特定の生徒と親しくなっても、それが教員と生徒としての、あるべき範疇を越えないものであるならば、それは眼をつぶろう」
校長は夏田の眼を真っ直ぐに見据え、続けた。
「しかし、実際にそういった文書があるという事は、彼女の周りで良からぬ動きがあるのだろう。そこで、担任である君にその辺の実態を調べてもらいたい。何か大きなトラブルが起きてしまう前に」
夏田は手に持つ怪文書を睨んだ。
いったい誰がこんな物を。
彼女が援交などするはずがない。
「……分かりました。何とかしてこんなふざけた紙を作った奴を見つけ出します」
校長はニッコリと微笑み大きく頷き、
「それから」
「はい、何でしょう」
「服を着なさい」
夏田も微笑み、
「結構です」
と言って、校長室を出た。