入学式
濡羽色の鴉が滑空する姿を眺めながら、壬御透夜は雲一つない青空の下を歩いていた。肌を撫でる空気にはまだ冬の名残があって、薄手の上着一枚では少し肩をすくめたくなる程度の涼しさだった。道端に立つ樹木の小枝には桜のつぼみが膨らみ始めており、薄桃色の小さな膨らみが季節の変わり目を静かに告げている。通勤途中の背広姿の者たちが足早に通り過ぎ、通学鞄を背負った生徒たちが笑い声を交わしながら並んで歩いていく。遠くでは電車の走行音が低く響き、街はまだ目覚めきらない喧騒に満ちていた。
「おはよう、透夜」
電信柱に凭れ、スマートフォンを操作していた少年が透夜に気付くと、手をひょいと上げて挨拶を寄越した。片耳だけに差した有線のイヤホンのコードが、風になびいて胸元でぶらついている。寝癖なのか意図してのことなのか判然としない毛先がそこかしこへ跳ねていて、身なりへの頓着の薄さを物語っていた。日ざしが少年の縹色の髪をなぞり、つややかな筋を作っている。透夜は軽快な足取りのまま声のした方へと振り返る。その拍子に覗く双眸は、右が抜けるような青空の色、左は黄昏の紫をそのまま溶かし込んだような色をしている。初めて会う相手には大抵、束の間言葉を失われる――透夜自身、何度となく指摘されてきたことだった。
「おはよう結兎!」
友人である椿結兎の姿を確認した透夜は、歩を止めて腕を頭上に伸ばし、大げさなくらいに手を振った。上着の袖がずり落ち、細い手首が日にさらされる。結兎はスマートフォンをポケットに収め、電信柱から姿勢を正してこちらを見た。
「ちゃんと前見て歩かんとつまずくで。おみゃーはそそっかしいからな」
小走りで近づく透夜に対し、結兎は素っ気ない口調で指摘した。顔つきに変化はないものの、その眉根には、うっすらと呆れの色が浮かんでいた。近くを通り過ぎた背広姿の男性がちらとこちらを見たが、すぐに興味を失って前を向いて歩み去った。透夜はその背中を見送ることもせず、結兎の言葉に笑みを浮かべた。
「お前は俺のオカンかよ」
透夜は笑いながら歩調を緩め、結兎の傍らに並ぶ。二人は揃って通学路を進んだ。アスファルトに刻まれた細かな亀裂や道端に散った葉が足元でこすれるような音を立て、遠くの信号が赤に変わると車のエンジン音が一時途切れた。
横断歩道の向こうで、腰の曲がった老爺が杖を落としたことに気付かぬまま歩き出そうとしていた。透夜の胸に、悲哀にも似た感情がふとよぎったかと思うと、次の瞬間にはもう駆け出している。
「あ、おい透夜!」
結兎の制止も間に合わず、透夜は信号を無視する勢いで駆け抜け、杖を拾い上げて老爺の手に届けた。老爺が驚いた顔でこちらを見て、深々と頭を下げる。それを受けた透夜の顔には、たちまち花が咲いたような笑みが広がった。
「おみゃー、後先考えんと飛び出すの、いい加減直せって前から言っとるやろ」
「だってさ、あの杖無かったら、あの人の背中、乾いた小枝みたいにぽっきり折れちゃいそうだったし」
結兎はその独特な言い回しに、眉根を寄せた。杖と背中と小枝がどう繋がっているのか、正直なところよく分からない、とでも言いたげな顔だった。透夜の喩え話はいつもこの調子で、聞く側が首を傾げる羽目になるのが常だ。それでも憎めないのは、損得を勘定に入れずに動くその在り方に、一片の嘘も無いと知っているからだった。ただ――誰にでも手を差し伸べる癖のくせに、いざ自分のことになると一歩引いてしまう。そんな指摘を、結兎から匂わされたことが前にもあった気がする。透夜はそのことを深く考えないようにして、老爺の背に視線を戻した。
結兎はと言えば、老爺の一件には最初から動く素振りすら見せなかった。手を貸すでも咎めるでもなく、ただ黙ってこちらを見ていただけだ。冷淡というのではないのだろう、と透夜は思う。ただ、自分の輪の外にいる誰かのために労力を割くという発想が、結兎の中には端から無いのかもしれない。それが結兎にとっての善意の形なのだと、透夜はどこかで納得していた。
「髪、染めたんやな。今日から高校生だてのに思い切ったなぁ」
結兎は透夜の青碧に染めたメッシュを指先で摘み、じっと観察した。朝の光を弾いて鮮やかに映えるその色を、透夜は密かに気に入っていた。まるで自分の性分をそのまま形にしたような色だと思っている。
「綺麗に入っとるやん」と結兎は素直に呟き、指を離した。
「かっけーだろ。真似すんなよ」
透夜は得意げに「ふふん」と鼻を鳴らし、足を弾ませるように歩いた。結兎は特に取り合わず、歩行を再開する。縹色の髪が風になびき、襟足の紫がちらりと覗いた。
「せんよ。趣味やないし」
「そう言う結兎だって、バチくそキメてるじゃん」
結兎の襟足だけを紫に染めるウルフヘアは、卒業式の時点ではまだ手を付けていなかったはずだ。卒業から一か月、再会した今日になって初めてその変化に気付いた透夜は、結兎の髪を指差してにやりとした。
「これって何て言うんだっけな……ああ、高校デビューか」
「まあ、俺ら遅いくらいだよな」
透夜たちの通う東翡翠高等学校には校則こそあるものの、他校に比べれば生徒の自由度は高い方だ。中学の頃から髪を染める者も、制服を着崩す者も珍しくはなかったし、教師がいちいち目くじらを立てる場面も透夜は見た覚えがない。校舎裏にうっすらと漂う煙草の匂いも、制服のポケットから覗く色鮮やかなヘアピンも、透夜にとってはとうに見慣れた光景だった。
「今まで不祥事起こしとらんのが奇跡やな。ほら、享栄ってあるが。この前、生徒が他校に大勢で乗り込んだって聞いたで」
二人が話しながら歩く傍らを、急ぎ足の会社員が鞄を抱えて通り過ぎ、その足音が慌ただしさを際立たせた。
「マジで?おっかねぇな」
「怖いよなぁ。まあ、ここにもガラ悪い奴はいくらかおるけどな」
結兎は抑揚のない調子で言葉を継いだ。通学路脇の古びた自動販売機の前では、小学生が小銭を手にジュースを選んでいる。透夜はそれを横目で捉えつつ、結兎に肩をぶつけるように寄せた。
「ガラ悪いって言うけどさ、結兎だって喧嘩強そうだし、俺だって負けねぇっしょ」
透夜は笑みを浮かべ、拳をそっと結兎の肩に当てた。力は抑えた、あくまで戯れの範疇だ。結兎は肩を僅かにすくめてそれをかわし、呆れたように息を吐く。
「おみゃー、喧嘩っつっても口喧嘩しか勝てんやろ。すぐムキになるし」
「は?お前だって負けず嫌いじゃん。この前、ゲームの対戦で初心者の俺相手に手ぇ抜かなかったよな?」
結兎は手にしていたスマートフォンをぞんざいにポケットへ突っ込んだ。その仕草には彼らしい素っ気なさがある。
「ゲームは別やろ。あれは戦略の勝負や、喧嘩みたいに腕力いらんし」
「へぇー、言い訳上手いね。さすが結兎」
透夜はわざとらしく感心した声を上げ、両手を広げて一回転した。銀髪が朝の陽をはじき、道端の小石が靴底でカツンと鳴った。
「うるさいわ。ほれ、学校もう近いぞ。ちゃんと歩け」
結兎はそう告げて歩調をやや速めた。透夜は不満げに呟きつつも後に続く。遠くに校舎の屋上が見え、校門前の桜並木が淡い彩りを添えていた。
「なぁ、結兎。高校入って何かやりたいことあんの?」
透夜は歩きながら結兎の顔を覗き込んだ。強めに吹いた風が上着の裾をひらめかせる。道端に落ちていた紙袋が風にはためき、くるりと宙を泳いだ。結兎は一瞬考え込むように黙り、髪をかき上げてから答えた。
「んー、そうやな。とりあえず美術部に入ろうかと思っとる。部活決めなあかんし、本当は帰宅してゲームしたいだけやけどな」
「美術部……?お前、絵とか興味あったっけ?」
「別に。ただ、なんか楽そうやし。顧問もゆるいって聞いたで」
「結兎はさ、料理部とかのほうが向いてね?お前が作る卵焼き、地味に旨いし」
「あー……それは、まあ、考えとらんでもないけど」
結兎はイヤホンのコードを指先で弄びながら、そっぽを向くように呟いた。褒められた程度では表情ひとつ動かさない男だが、耳の端がほんの少し赤らんでいるのを、透夜は見逃さなかった。誰彼構わず愛想を振りまく質ではないくせに、一度懐に入れた相手にだけは妙に世話焼きになる――そういうところが結兎にはある、と透夜は前々から思っていた。
結兎が投げやりに言うと、遠くで鳩の群れが驚いて飛び立った。灰色の羽が空に散り、一瞬の間を破る。通学路は相変わらずの賑わいを見せていた。校門が近づくにつれ生徒の流れが増し、制服のブレザーや多彩な髪色が朝の日ざしに映えている。透夜と結兎は互いに軽口を叩き合いながら校舎へと向かった。校門の手前に立つ一本の桜の木に、透夜が指を伸ばして枝を揺すると、葉が一枚ひらりと落ちた。結兎がそれを見て呟く。
「この桜、まだつぼみやな」
「うん。でも、もう少しで咲きそうだな。入学式かぁ……中学以来だな」
「んな頻繁にあったら嫌やわ。校長の話長いし」
二人は歩道橋を潜り、校門を通過した。講堂へと続く道を進むと、新入生たちのざわめきが聞こえ始める。校庭では野球部の朝練の声が響き、土埃が薄く舞っていた。
「入口あそこやな」
「そうだな。あーあ、また校長の話長いんだろうなぁ。寝そう」
「ワシも。耳栓持ってくれば良かったわ」
透夜と結兎は他の生徒たちに紛れて講堂へと入場した。扉が開くたび、中のざわめきが外に漏れ出す。
講堂の中は、新入生たちの話し声と教師たちの指示する声で満たされていた。二人は生徒の流れに沿って指定の席へと進み、硬い床に足音を響かせながら腰を下ろす。会場には制服を着崩した者や鮮やかな髪色を誇示する者が散見され、この学校らしい自由な空気がここでも漂っていた。壇上には教職員が整然と並び、中央に立つ校長の背後には校旗が掲げられている。窓から差し込む朝の日ざしの中を、細かな埃がゆっくりと舞っていた。
入学式が始まると、校長が壇上に立ち、マイクを通じて挨拶を始めた。その声は講堂全体に響き渡り、案の定長々と続く内容に、生徒たちの間からため息にも似た息が漏れる。
透夜は前の席に座る生徒の肩越しに壇上へ目をやりつつ、時折結兎の方をちらりと窺った。結兎は腕を組み、窓の外をぼんやりと眺めたまま、退屈さを隠そうともしていない。校長の話が一段落し、新入生代表の挨拶に移ると、会場に僅かな緊張が走った。
壇上に上がったのは、白基調のショートヘアの生徒だった。毛先にかけてゆるやかに紫色へと移ろうその髪は、花びらの先だけを染め上げたような繊細さを帯びている。理知的な双眸は赤紫色を宿し、漆黒のフレームを持つ眼鏡がその色をなお一層際立たせていた。落ち着いた足取りでマイクの前に立ち、小さく息を整えると、腹の据わった、芯の通った声でスピーチを始める。言葉遣いは丁寧で、その端々から知性と品格が伝わってきて、聴衆である新入生たちに強い印象を残した。
透夜は彼の佇まいと自信に満ちた話しぶりに、思わず目を奪われる。一方、結兎は相変わらず無関心を装いながらも、時折その声に耳を傾けている様子だった。――スピーチが終わり、拍手が講堂に響き渡ると、式典は終盤へと差し掛かった。校長による締めの言葉が述べられ、入学式は正式に幕を閉じる。
教師の「解散」の号令とともに、生徒たちは一斉に立ち上がり、講堂から退出を始めた。透夜と結兎も席を立ち、他の生徒たちに混じって出口へと向かう。生徒たちはクラスごとに分かれ、それぞれの教室へと移動を始めた。
入学式が終わり、講堂から教室へと向かう生徒たちのざわめきが校舎中を満たしていた。淡い光が窓ガラスを透かし、廊下を歩く透夜と結兎の足元をなぞっていく。透夜は新調したブレザーの袖をつまみながら、隣の結兎に声を掛けた。
「――中学のときより気合い入ってたよな。校長の話が長すぎて、途中で意識飛びかけたけど」
透夜はわざとらしい欠伸をしてみせ、指で銀髪をかき上げる。その拍子に、右の青空色と左の黄昏色、非対称な双眸が廊下の明かりを弾いた。
結兎は視線を窓の外に向けたまま、いつもと変わらない調子で応えた。
「長いのは毎度のことやろ。それより、新入生代表の……ほら、挨拶しとったやつ。毛先だけ紫がかっとる、いかにも優等生っぽいやつ」
「あー、あの育ちの良さそうな……声、沈んでるのに妙に通ってたよな」
「そう、それ」と結兎が言葉を継いだ。
「あいつ、先生の間じゃかなり評判らしいで」
「なんかすごい実績でもあんの?」
「ピアノや。大会で優勝したことあるって聞いたで」
「へー、ピアノで優勝か。すげぇな」
透夜が驚き混じりに言うと、結兎はさらに続けた。
「先生が目ぇ細めて『お前は特別や』とか言うとるらしい。育ちも良さそうやし、正真正銘の本物な感じするな」
「分かる。完璧な人間って案外近くにいるもんなんだな」
廊下の向こうでは、教室へ向かう生徒たちがいくつもの塊を作り、笑い声を上げていた。壁の掲示板には新入生向けの案内が貼られ、風が通るたびに紙の端がぱたぱたと鳴っている。
「まぁでもさ、入学式が終わってやっと高校生になった実感が湧いてきたよ。校舎移動しただけだったから、本当に進級したのかちょっと疑ってた」
「進化したモンスターも、自分が進化したなんて実感あんま湧かんやろ、知らんけど」
「俺は草むらから飛び出さねぇよ!」
透夜が仕切り直すように咳払いをすると、跳ねるような足取りで上着の裾をひらめかせた。床に落ちる影がその動きに合わせてしなった。
「さて、教室入ったらどうすっかね」
結兎はポケットからスマートフォンを取り出し、画面をちらりと見てから答えた。
「席、窓際がええな。外眺めてぼけーっとするのにちょうどええし」
「お前、初日からサボる気満々かよ。俺は前の方狙うわ。先生の話聞き逃したら単位落としそうだし」
「壬御くんは意外と真面目やな。お前ならどこ座っても声は聞こえるやろ」
結兎が小さく鼻を鳴らすと、透夜は「それは」と続けた。
「先生だけ見てた方が集中できるし、黒板の字も読みやすいだろ。中学んとき前の席で紙回してる奴らがいて、あれ地味に気になってたし」
「ああ、おったな……何回しとったんやろな、あれ」
脇を通り過ぎた女子生徒二人組の話し声が遠ざかっていくのを気にも留めず、透夜は結兎と並んで歩を進めた。教室に近づくほど廊下の賑わいは増し、「あの先生優しそう」「部活どうしよ」と語らう声が飛び交う。クラス分けの紙を覗き込む生徒の姿もあった。透夜は教室の扉を視界に捉えたところで一度足を止め、結兎を振り返る。
「なぁ結兎、さっき美術部入るって言ってたけど、あれマジで決めたん」
「んー、まぁな。今日の放課後、見学だけ行ってみようかと思っとる。透夜はどうすんの」
「俺はまだ迷ってる……けど、吹奏楽部かな。結兎と一緒で、入部届だけ出して幽霊部員になりたい気持ちもあるけど」
透夜が腕を組んで考え込むと、結兎は素っ気なく「ええんやないか」とだけ返した。二人は笑い合いながら教室の扉を開ける。室内では既に数名が席に着き、入学式の感想を語り合っていた。窓からは春の風がそっと流れ込み、教室にわずかな涼しさをもたらしている。透夜と結兎は軽口を叩き合いながら自分の席を探し始めた。
「おっ!透夜と結兎じゃん!おーい」
談笑していたグループの一人がこちらに気付き、声を張り上げた。友人たちに「ちょっと行ってくるわ」と告げるが早いか、大股でこちらへ駆け寄ってくる。頭の上でまとめられた赤茶色の前髪が、その勢いのままぱたぱたと跳ねていた。
「篤志じゃん。ここにいるってことは……篤志もこのクラスか」
「おう、そうだ!ってことは、また一年一緒にいられるってことだな!」
篤志――日向篤志は口を大きく開け、目を輝かせて喜びを全身で表した。その全身運動のような喜び方は、周囲の喧騒の中でも際立って浮いている。
「篤志、まだ人里におったんか。いい加減、動物園に帰ればええのに。おみゃーにはそっちの方が居心地ええと思うぞ」
「俺、人間ですー!卒業式ぶりだな、結兎!相変わらずだな!」
「たった一月やそこらで人は変わらんて」
結兎が鼻を鳴らしてつっけんどんに返すと、篤志は言葉の棘をまるきり感じ取っていない様子で、「相変わらずだな、お前!」と教室中に届くほどの声で笑った。皮肉を皮肉のまま受け取らず、字面通りに喜んでしまう。そういうところが篤志らしい、と透夜はいつも思う。教室の奥から「篤志ー!戻ってこいよ!」と友人の声が飛ぶ。篤志は頭だけそちらへ向け、赤茶色の前髪をぱたりと揺らしたあと、満面の笑みで二人に向き直った。
「おっと呼ばれた!また後でな!」
右手を大きく振りながら、跳ねるような足取りで友人の輪へと戻っていく。「お前遅ぇよ」という声に紛れて笑い声が上がった。
透夜はそれを見て小さく笑い、隣の結兎に目を遣った。結兎は目だけをスマートフォンの画面に落としたまま、「あいつほんまうるさいな」と呟いている。と、教室の扉が勢いよく開き、重い足音とともに教師が姿を現した。束の間、教室が静まり返る。
「お前らー!自分の番号見て席に着けー!」
号令が飛ぶと、生徒たちは一斉に動き出し、各所に貼られた座席表を確認し始めた。透夜はまだどこか呆けた面持ちのまま、結兎と共に自分の席を探して歩き出す。
「窓際頼むで」
結兎が言い、透夜は頷きを返した。椅子を引く音があちこちで重なり、「お前そこ俺の席だろ……」「マジか、隣かよ……」という声が小さく広がる。ほとんどの生徒が席に落ち着いたところで、透夜は驚いた面持ちで後ろの結兎を振り返った。結兎はすでに頬杖をついて窓の外を眺めており、その落ち着きぶりに透夜は思わず呟いた。
「お前、肝据わってるな……」
教師は出席名簿と配布書類を教壇に広げながら自己紹介を済ませ、続けて生徒一人ひとりの自己紹介へと移った。新学期特有のそわそわとした空気が教室を包んでいた。誰もがまだ、隣の人間の性格も知らないままだ。窓の外では校庭を渡る風が桜のつぼみをそよがせており、透夜はその動きをちらりと視界の端に捉えながら、これから始まる高校生活に思いを馳せていた。
自己紹介が一巡し、教師が今後の予定を手短に伝えると、初日のホームルームは終わりを迎えた。教室に満ちていたざわめきが一度収まり、椅子を引く音や鞄を持つ音が代わりに響き始める。「それでは今日はこれで解散とする。明日以降、遅刻だけはするなよ」という言葉を合図に、生徒たちは一斉に立ち上がった。
透夜は机の上の筆記具を鞄へしまい込み、隣に立つ結兎へ視線を向けた。
「やっと終わったな。初日から疲れたわ」
「まだ始まったばっかりやろ」
結兎は窓の外を見たまま、素っ気なく応じた。二人は教室を出て、廊下を流れる生徒たちに身を任せる。初対面のクラスメイト同士がぎこちなく言葉を交わす姿や、早くも友人の輪を作って笑い合う姿が入り混じり、新学期らしい活気が漂っていた。窓の外では校庭の桜が風にそよぎ、つぼみが二分咲きにも満たない程度にほころびかけているのが遠目にも見て取れる。
階段を下り、一階へ向かう途中、結兎はスマートフォンの画面をちらりと見た。透夜が口を開く。
「そういや、靴箱が隣の校舎だってさ。面倒くせぇな」
「学校が貧乏なんやから仕方ないやろ」
透夜が苦笑いを浮かべる横で、二人は生徒の流れに沿って渡り廊下へと足を踏み入れた。日が傾き始め、空はうっすらと橙に染まりつつあり、校舎の影が地面に長く伸びていた。
「やっと帰れる〜!」
透夜は大きく欠伸をしながら両腕を天井へと伸ばした。気だるさの残る顔つきの奥で、退屈な授業から解き放たれた高揚がじわりと勝っていくのが自分でも分かる。声にも、疲れよりむしろ弾んだ調子の方がよほど強く出ていた。
彼は隣の校舎へ続く渡り廊下を、結兎と共に歩き始める。日が傾き始めるころ、渡り廊下の窓からは淡い光が差し込み、コンクリートの床に細長い影を刻んでいた。透夜の足取りは軽快でありながら、どこか気だるさをまとっている。
校内は帰り支度をする生徒たちで活気に満ち、喧騒が絶えない。渡り廊下の窓の下には、中庭でじゃれ合う生徒たちの姿が覗いた。彼らの笑い声が風に乗り、途切れながらも耳に届く。校舎の入り口ではスマートフォンの画面に没頭する数名がたむろし、少し離れた場所では運動着に着替えた生徒がスポーツバッグを肩に急ぎ足で横切っていった。校門の方角からは「じゃあなー!」という声と自転車のベルの音が入り混じって聞こえてくる。放課後特有の、あの浮き足立った空気だった。
――その時である。渡り廊下の向かい側、校舎の出口から一人の生徒が姿を現した。
毛先にかけてゆるやかに紫色へと移ろう髪を持つその生徒は、漆黒のフレームの眼鏡をかけ、一冊の本に視線を落としたまま歩を進めていた。透夜たちの姿が視界に入る気配はまるでなく、本の世界にすっかり没入している。透夜は反射的に廊下の端へと身を寄せた。
髪は淡い光を受けてうっすらと色を変え、動きに合わせてひとふさひとふさがそよいでいる。手にした本の背表紙が透夜の目に映り、黒い表紙に白い文字が刻まれているのが見えた。表紙は色褪せ、ページの端には擦り切れた跡があり、繰り返し読み込まれてきたことを物語っていた。
――結兎が抑えた声で呟く。
「……あれ、新入生代表やないか?」
透夜は結兎を一瞥してから、再び紫髪の生徒へと視線を戻した。その拍子に、入学式の記憶が鮮明に蘇る。落ち着いた声、言葉を選びながら丁寧に紡ぐ話し方――あの時、腹の据わった芯の通った声が聴衆の空気をゆっくりと変えていったのを、透夜はまだ覚えていた。
「……本当だ」
透夜は目を瞬かせた。驚きよりも、「やはりそうだったか」という確信の方が強く込み上げてくる。近づいてくる相手の顔がわずかに上がった瞬間、赤紫色の瞳がフレーム越しに一閃した気がしたが、それもすぐに本のページへと戻っていく。歩みは緩やかでありながら安定していて、伸びた背筋には確かな芯が通っているように見えた。周囲の喧騒も彼の集中を乱すことはなく、本に没頭するその姿は、異質なまでの熱の無さを放っていた。
彼は二人に一瞥もくれることなく通り過ぎていく。透夜と結兎は自然と足を止め、その背中が角を曲がって完全に見えなくなるまで、言葉を発することなく見送った。気配が途絶えると、二人は再び歩き出す。
「なぁ、結兎。あいつ、ニーチェの本読んでたよな?……ニーチェってさ、なんか名言あったよな。えーと……」
結兎はポケットからスマートフォンを取り出し、画面をちらりと見てから、少し考え込むように首を傾げた。眉間に小さく皺を寄せ、記憶をたどっている素振りだった。
「せやな。哲学者やろ。確か世の中の価値観とか道徳とかをぶっ壊して、自分で考えて生きろ、みたいなこと言うてたはずや。詳しくは知らんけど」
「自分で考えて生きろか……なんかカッコいいけど難しそうだな。俺、哲学とか全然わかんねぇよ。結兎はどう思う?」
透夜は上着の裾をつまみながら尋ねた。分かったようで分からない、そのもどかしさが声の端にそのまま出ていた。結兎はポケットに手を入れたまま、一拍置いて言葉を返した。
「別に。考えるのめんどいし。ゲームみたいにルール決まってた方が楽やろ。ニーチェとか読むやつって、頭いいか、気取っとるかのどっちかやと思うわ」
「お前、辛辣だな。でもさ、あの新入生代表ってマジで頭良さそうだったよな」
透夜が感心したように言いながら、二人は隣の校舎の靴箱エリアに辿り着いた。既に帰宅を急ぐ生徒たちで混み合い、靴を履き替える音や談笑の声が響き合っている。制服のブレザーを肩に掛けた者、鞄を地面に置いて靴紐を結ぶ者――放課後特有の慌ただしさがそこかしこに漂っていた。
その喧騒の中、聞き覚えのある大声が飛び込んでくる。
「おーい! 透夜! 結兎!」
振り返ると、篤志が目を輝かせて駆け寄ってくるところだった。二人の前で急停止し、大げさに息を整える仕草を見せる。赤茶色の前髪が跳ねるように動き、隠しきれない興奮が顔いっぱいに広がっていた。
「やっと会えた! 靴箱探すのに迷っちゃってさ。で、何の話してたんだ?」
篤志が興味津々に尋ねると、透夜はいたずらっぽく笑いながら答えた。
「さっき新入生代表見かけてさ。あいつ、ニーチェの本読んでたんだよ。篤志、ニーチェって知ってる?」
「ニーチェ? んー、聞いたことある! 『神は死んだ』ってやつだろ? 暗い感じするけどカッコいいっちゃカッコいいよな! 俺そういうの全然読まねぇけど、あいつ読むんだ! 頭いいんだな!」
篤志は目を丸くし、興奮した口調でまくし立てた。その声は靴箱エリアの喧騒の中でも際立ち、周囲の生徒が思わず視線を向けたほどだった。結兎はポケットに手を突っ込んだまま、ぼそっと呟く。
「頭いいのは確かやろな。ピアノもできるし、先生に気に入られとるし。あの本ボロボロやったから、読み込んどるんやろ」
「なんかさ、ニーチェって自分の道を自分で切り開くみたいな感じらしいぜ。結兎の言うゲームのルールとか関係なく、自分のルールで生きるっていうか」
透夜が靴箱からスニーカーを取り出しながら説明すると、篤志はいつもの落ち着きのなさが噓のように口を挟まず、透夜の言葉が終わるまでじっと目を離さずに聞いていた。話が一段落したところで、ようやく大きく頷く。
「すげぇ! 俺そういうの憧れるわ! でもさ、俺だったらルールないと迷子になっちゃうよ!」
篤志が笑いながら肩を跳ねさせると、透夜もその陽気さに釣られて笑みを浮かべた。結兎は靴を履き替えながら、素っ気ない調子で言葉を継いだ。
「ルールない方が強いやつは強いやろな。あの新入生代表、喧嘩とかしそうにないけど、なんか芯ありそうやった」
「確かに。見た目は大人しそうだけど、スピーチしてた時の声、落ち着いてたよな。普通に圧あったっていうか」
「でもさ」と、篤志がふと思いついたように口を挟んだ。
「あんな分厚い本、いっつも一人で読んでるってことは、休み時間とか一緒に喋る友達とかいないのかな。ちょっと寂しくね?」
悪気のない、ただの素朴な疑問だった。だが、会ったこともない相手の孤独を無邪気に決めつけるその言い方に、透夜は返事に詰まった。隣を見ると、結兎も何も言わずにいる。結兎が小さく息を吐く。
「……知らんがな。本人が満足しとるなら、それでええんやないか」
「あ、そっか。そうだよな、ごめん」
篤志は言われてすぐ気付いたように頭を掻き、素直に謝った。悪気がないぶん、指摘されればあっさり引っ込む――そういうところも篤志らしいと、透夜はいつも思う。
靴を履き終えた三人は、校舎の出口へと向かって歩き始める。渡り廊下から見える中庭では、依然として生徒たちが騒がしく動き回り、部活の準備をする者や談笑する者たちの姿がたそがれの色に染まりつつあった。
「なぁ篤志。ニーチェ読んでみようかって思う?」
透夜が冗談めかして言うと、篤志が慌てて首を振った。
「いやいや、俺には無理だよ! 漫画なら読むけど、哲学とか頭爆発するって! 透夜は読むの?」
「俺も無理だろ。読むなら漫画版とかじゃないと頭に入んねぇよ。結兎はどうだ?」
結兎は肩をすくめ、興味なさげに言葉を返した。
「パスやな。時間あったらゲームするわ。ニーチェはあの紫髪に任せとけばええ」
三人の足音が校内の雑踏に溶け込んでいく。彼らは笑い合いながら校門へと続く道を進み、日の傾いた校舎を背に、それぞれの帰路へと向かった。




