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痕跡

作者: 只之丞
掲載日:2026/03/10

 まだランドセルを背負っていた頃、親に通うよう言いつけられていた習字教室は、坂をまっすぐ登っていった突き当たりにあった。字のかたち自体はそう悪くないものだったが、所々詰めの甘さが目立ったものだから、とめ、はね、はらいをせよとのことでしょっちゅう先生に矯正された。


「上からなぞって指で覚えよか。そうすれば、ちょっとずつキレイになるから」


 教室を開いていたのは、苫なんとやらという苗字の老婦人だった。頭文字をとって、子どもらには安直にトマ先生と呼ばれていた。腰が曲がって、下がった頭の高さが、一時期わたしの目線とちょうど重なっていた。


 当時のわたしの背は、前から順に数えた方が早いほどで、たいていの子どもはトマ先生のつむじを見、顔を見合わせてあれこれ言った。やれ古臭いだの、やれ話がつまんないだの、内容は散々だった。彼らにとって、先生は見下せる大人だった。好き勝手な批評は、隠れて言っているつもりが、きちんと耳に届いていたように思う。


「ページ一枚ぶん終わったらご褒美。取りに来てね」


 トマ先生が呼びかけて、配る菓子のラインナップは、はじめこそ飴玉ばかりだったが、やがてチョコレートやスナックの小袋が顔ぶれに揃うようになった。習字教室は中々に盛況だった。子どもの声はよく通る。木造の平屋いっぱい、天井まで。やんちゃな盛りの教え子が並べ立てる文句という名のリクエストに、先生は律儀に耳を傾けた。


 じっとして鉛筆でマス目を埋めるより、友達と集まってコントローラーを握る方が子どもには向いている。かく言うわたしも、課題など八分どおりで済ませてさっさと遊びに出た方が建設的だと、そういう不届きなことを考えているませたところがあった。元より字に引け目もなく、習い事の範疇に収まればと軽く見ている節もあった。恥ずかしながら、物と事の道理をよく踏まえられていない。


 たまたま虫の居所が悪かったある日、賢ぶった打算と、稚拙な反抗心に任せて、投げやりに練習帳を提出した。ページに走り書いた文字を先生の赤ペンが一つ一つ、追っていく。文机の正面に立ち、ただ丸付けの様子を伺っているのも息が詰まり、お菓子の入った網かごにそろりと視線を逃がした。わたしの中の小心者が、今になって後悔を掻き立てていた。


「ふみちゃん」


 気もそぞろなところで、先生が手招きした。血管のかたちがくっきり浮き出た手。その凹凸にまず目がいく。次に、ペン先が叩いた空欄を確かめ、わたしは眉を寄せた。


「何ですか」


 実際以上につっけんどんになったと自覚して、口を閉じた。てっきり乱筆を咎められたのかと思えば、習字のどれとも関係のない、右の端っこにある欄の空白だった。ページ毎に書かずとも分かるだろう、と抜いたのは名前だ。


「書かんくても先生なら分かるって、思ったんとちゃう?」


 柔らかな口調だったが、心の内を言い当てられているようで、感情の表面が波打った。黙り込んだわたしをちらと見遣ってから、先生は続けた。


「わざわざ書くのが大義やって気持ちも分かるよ。ただ、私はあなたが江郷文美さんやて知ってるけどねえ、これを見る他の人は、あなたを知らんかもしれん」


 マス目の枠からはみ出た『連』のしんにょうは弛み切っていた。そのくるりと丸まった角のところに、トマ先生が視線を落とす。にわかに気恥ずかしく思えて、チェックのスカートの裾を握り締めた。


「自分のや。そう思って書いたら、字はキレイになる」


 凛とした声だった。つられて顔を上げる。銀縁の眼鏡のむこうに、トマ先生の小さな目が、収まりよくちょこんと座っている。


「なまえ、書こうな」


 ひとつ、自然と頷いていた。


 母から聞くところによれば、トマ先生は元々小学校で教鞭を取っていたらしい。同級生の親もトマ先生に見てもらった人が多いから、習字教室に子どもを預ける。


「退職しても字を教えるだなんて、よっぽど子どもが好きなのね」


 感嘆に声を上げた母を後ろから見て、それは違う、と心密かに否定した。トマ先生が好きなのは子どもじゃない、字だ。大机でおしゃべりしながら課題をこなす子どもたちの隅で、先生はずっと、罫線の入ったノートに文を連ねていた。


 縮こまった背と、袖口からのぞくほっそりした手首。トマ先生を字へと駆り立てるものの輪郭が、わたしにはうまく掴めなかった。


「どうしたん、そんな物欲しそうな目をして」


 盗み見が知れるのはすぐだった。先生のノートを見せて欲しいとの旨をつっかえながら伝えると、先生は驚きに目尻のしわを少し伸ばして、けれども呆気なくノートを渡してくれた。


 師範の字というのは達筆のあまり読めないということも常だが、トマ先生の字は姿かたちも随分はっきりしていた。子ども用に整えられた字ではなく、思いのままに書いた本来の字。先生が書いたのだと腑に落ちる字だった。


「男もすなる――」


 目に付いた冒頭を声に出す。先生が後を継いだ。


「日記といふものを、女もしてみむとてするなり」


 意味をはかりかねて暫時もの思いに耽ったわたしに、トマ先生は答えを出す。


「男が書くらしい日記を、女の私もしてみようと思って書くのだ、っていう前置きだね」


「先生は日記を書いているんですか」


 トマ先生はきょとんと目を瞬いて、ゆるりと首を横に振った。先生のペン字の練習台は模写だそうだ。昔の作品だよ、とだけ先生は付け足した。


 何の気まぐれか、それからもトマ先生はノートを見せてくれた。教室に残る子どもがまばらになって、わたしと目が合った時に、こっそりと。先生の書く様子を観察するうち、わたしの持つ鉛筆とは違う、金合金のペン先からインクが落ちるさまが、胸に滲みつくようになった。


「欲しいの」


 万年筆のことを言っているのだろうと察して、控えめに頷く。トマ先生はそうかい、とだけ言って、また手元に視線を戻した。連なる字に従って、先生の思うままにインクの痕が残った。


 背負っていたランドセルを押入れに仕舞う季節が来て、わたしは習字教室をやめることになった。当初のいい加減な字も、ここしばらくは鳴りを潜めていた。


「ふみちゃん」


 最後の日、やっぱり他の子どもが居なくなるまで居座っていたわたしを、トマ先生は手招きして、文机に呼び寄せた。すっかり背を追い越して、つむじの中に白髪の根元が見て取れた。


 差し出されたのは万年筆だった。母に強請っても苦笑されるだけだったものが、あっさりと手元に落ちてきた。艶も良く、手に馴染む。そわそわと顔を上げれば、視線が交わる。真意の読めない凪いだ双眸だった。


「字なんてね、印刷すりゃ済む話だ。書く機会も減っていくだろう。でも私は、書いた字に人の思いが残ると信じてる」


 良い字は心に残るんだよ。トマ先生の教える字が蘇った。子どものどんな汚い字、適当な字にも一つ一つ、向き合う。先生の赤インクは、そんな色だった。


「トマ先生は何のために字を?」


 眼鏡で縁取られた目元に、細かいしわが寄った。長い年月をかけて、肌に刻まれたことが分かるしわの痕だった。視線の先を追う。歴代の子どもらの書が、壁に掛けられていた。江郷文美の色紙もその中にあった。


「私のあとを遺すため」


 万年筆のずっしりとした重みを手のひらで受け止めた。トマ先生のこじんまりして丸っこい指が、軽くわたしの肩に触れる。

「肩の力を抜いてね」

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