月下交路
1.月 闇
「見つけたわ」
ほのかに暗い、夕闇のせまる公園の一角で、少女は彼にそう言った。
囁くような声だ。
恍惚とした声だ。
うっとりと……自ら酔うように、少女は身を震わせる。すると、まるでそんな少女に呼応するように、空気までもわななく。
ワイングレーの色合い。
黄昏も切なげに吐息すら交えて。
「見つけたわ」
少女はもう一度、深い、さまざまな感慨のこめられたその言葉を口にした。
どの角度より忍びこんだものか……彼自身、理解不能なざわめきとなって巧みに胸をつらぬき、散って、全身に広がる。それは本当に、砕けたガラスの粉末のようにキラキラしていて、少しなりと不快さを感じずにいられない。
よどむ不安感。常に一定でいられない不安定さ。
けれどもそれらは総じて気分を害するほどのものでもなかったので、彼は黙ってその感覚をすみずみで受け入れた。
美しい、少女。
闇に追われた陽が作った不可思議なムーブメントを背に、小さなトランクを足元に置いて、少女は彼を見つめている。
知らない、少女。
その認識に、奇妙な信号が彼の胸の中から頭の方へと送りこまれてきていたけれど、彼はそれをまさかと無視した。
闇の吐き出した媚薬香のような冷気が彼と少女の間に薄い乳白色の幕を引き始め、その距離を危うくさせる。それは同時にそれぞれの心の中にある歯止めを、とても……あやふやなものに変えてしまうものらしかった。
そして今、少女の大きな黒い瞳は潤み、人が、喜びと表すものを漫然とたたえていた。
少女の幼い手が彼にむけ、伸ばされ、それだけで指先は頬へと触れる。
『少女』が『彼』に触れたとき。
陽は完全に沈み、不確かな黄昏も失われた。
冷気と、静寂とがともに訪れた夜の公園に、すでに人影はない。どこかへ消えてしまった影のかわりのように、音もなくつき始めた外灯のまたたきすらも、この穏やかな少女にかしずいているように彼には見えた。
「きみは?」
彼は訊いた。
「まあ」
まるく、甘い声が愛らしい口元から溢れる。けれど少女は言葉ほど驚いたようには見えず、そうしてゆっくりと、まるで無知な子供への嘲りらしきものを含めて、きゃらきゃらと笑いながら言った。
「あなたは、知っているはずよ」
『……知っているはずよ……』
耳元でリフレインする。
柔らかく高く、どこまでも澄んだ声。どうやらこの特殊な韻律を踏んだ音が、胸の内深く築いた壁をいとも軽くすり抜けてくるらしい。
彼は、彼の中、幾度も乱反射しては徐々に光の粒子となる、なんとも心地良い響きに満たされた中で、夢のように何事かをつぶやいた。
「そうよ」
少女の手がうなじの方へと回される。幼い体つきでありながらどうして、豊満な胸が押しつけられ、満足げな微笑がゆうるりと近付いてくる。
「そうよ」
もう一度、夢見るように開かれた唇が、頬に触れ、唇に触れ、下へ降りたとき。
闇にまぎれて何かが少女めがけて投げつけられ、少女はきゃっと声を上げて彼から離れた。
少し離れて転がる、それが小石であると分かる。
悪質な悪戯。
少女を顧見れば、少女はその場にうずくまり、顔をおおっていた。
「大丈夫?」
「……ええ、なんとか」
少女は気丈にそう答え、手をどけた。前髪の生え際のすぐ下が赤くなって、傷ついているのが分かった。
すっくと立ち上がる、そのどこにも、もうつい先まで見せていた、あの少女特有の不安定な華奢さは感じられなくなっていた。
はるか彼を抜け、先を見据え、敵意を脹らせた静かな瞳は強く、そこにいる男を見ていた。
男は手の中、数個の小石をもてあそんでいる。
闇の中、楽しむように開かれた口元と、ギラギラと光る冷たい視線が印象的な、まるで、鋭利な針を思わせる者だった。
歳は17~18といったところか。
それでは彼と同じ、まだ少年であるはずなのだが、そうと知った今も、変わらず男の持つ、彼の感じる雰囲気は『少年』でなく、あくまで『男』であった。
「早いのね」
少女は言った。
「今度ばかりは」
ともつけ足して。
そして、さも挑発的な、それでいて盛惑的な、あの魅了の力にあふれた瞳で男を見つめる。
肩のむこうへ払いこむ、見事な黒髪一筋にさえも害意を含ませて。
男は、まず彼を見て、それから少女を見て、明確に嗤った。
「またか。おまえはいつもこの手合いだな。牙も生えそろわない子犬。
だが今度はおまえ、俺が来たぞ。どうする」
その言葉に少女は、にいと笑った。
「あいにく、と返せばいいかしら? 彼はちょっと違うわ。
でも、とっても残念だけれど、とりあえずはその快挙に免じて今は逃げてあげる」
弾むように口ずさんだあと、少女はぽおんと跳んだ。
他の誰であれ、たとえ手にしたトランクがカラであっても、ああも軽やかには跳べないだろう。
「待て!」
自分の上をはるかに越え、行こうとする少女の足首を、男の手が捕まえる。少女は慌てる様子もなく、にっこりほほ笑んで、そして男の頬に手をあてた。
「また、ね」
2.影 主
男は少しの間だけ、息を止めて、そして激しく咳きこんで胸を押えた。
背を強く打ったのだ。無理もない。あんなに凄まじい勢いで、男の体は茂みへと放り出された。
「大丈夫ですか……?」
おそるおそる、気弱な声で聞く彼の手は、見知らぬ者へのおびえのためか、言葉よりも明確に震えを発している。
が、それでも自分のことで傷ついたらしい男を見捨てて逃げ出すほど、彼は卑怯者でもなかった。
「ってえなあ、たくよお……」
後頭部の辺りに手をやりながら男がうめく。
「ん? ああ、無事だよ、とりあえずはな」
軽く答えて、男は肩や背についた汚れを払う。
そうして立ち上がり、彼の何を見つめてか、にやりとまた笑った。
「間に合ったようじゃないか、坊主」
「は?」
「9度目にして追いつく、か……。
さて、どうするべきかな」
「あの……」
彼は、まるでつかみあぐねるといったふうに、ただ声を発した。
見知らぬ男への畏怖と同じくらい、自分独り何も知らないことへの恐怖が強く彼をおびえさせているのだ。男もまたそれを重々に承知していてか、ふんと鼻を鳴らして、まるで値踏みをするように頭の端から靴の先まで彼の姿をなめし見る。
結果は芳しくなかったようである。舌打ちをひとつすると、ふいと顔をそむけた先で、男はぶつぶつとつぶやいた。
「あいかわらず、あいつの好みはまるで理解できねえな。気紛れが度を過ぎてるってえのか……前とはまるっきり反対じゃねえか。そうかと思いや、絶世の美女のときもあったっけな。ま、どいつもこいつもなよなよしい甘ったればっかりだったが。
はっ、ばかばかしい。なんで俺が、あんなやつの考えなんか理解しようとしなくちゃいけねえんだ?」
それは、横にいる彼の耳に入ることも気にしていないような独り言だった。
かといって、わざと無視しているわけではない。まるで自分以外の者はここにいないのだと、本当に思っているかのように、男の動作は無頓着だった。
「あの……」
「ああばからしい。んなことよりさっさと始めるか。ばれちまったからな」
「あの、あなたはだれなんですか? あの少女を知っているんですか?」
無言で、これからを選択させるような背に、彼は思い切って尋ねてみた。
背を向けたままだった男は、そこで初めて彼に意志というものがある人間だということに気付いたといった顔つきで振り返ったが、やはり興味が持てないといった様子ですぐに視線をそらし、地面に投げ出されたままだった荷袋の口をおもむろに解き始めた。
「坊主、俺は言ったはずだぜ。間に合ってよかったな。俺がおまえに言えるのはそれだけさ。だからさっさとおうちに帰って布団の中にでももぐりこんで震えてな。
実際そうしたって俺は笑わないぜ。あいつに出会っちまったんだからな。電気もつけてたほうが恐怖もまぎれるってもんだ」
「恐怖?」
「そうさ」
ごとり、と男は円錐柱のようになって先が尖ったアルミパイプのようなものを取り出して、数本横に並べた。鉛筆よりは大きいのではないかという太さだ。
「坊主も感じたはずだぜ。あいつを見てると腹の底が冷たく震える。魅かれているんだと錯覚するほど目が吸い寄せられ、あの声に焦がれる。
防護壁なんかまるで役にたちゃしない。まっすぐこう、胸ん中にえぐりこまれるんだ。頭のどこかが危険信号を出すんだが、あの不似合いな容姿にまさかと握りつぶしちまうのさ。
そうしてだれもかれもがあいつのえじきだ」
「えじき……」
男の使った言葉を自分の口で繰り返してみる。
まるで、獣に使うような言葉だと、思った。
途端、砂のようにざらりとした不快な感覚が、胸の中に広がる。
「そうさなあ……。俺が覚えているだけで、500人はやられちまったっけ。たった2世紀の間に」
そのつぶやきを耳にしたとき、彼の脳裏にひとつの言葉がひらめいた。口にしようとしたのだが、途端、それをいち速く察した男の手によって素早く口元をふさがれてしまった。
「しっ。
口にしちゃいけない。だれにも知られちゃいけないんだ。あいつがいると教えることは、そいつを不幸にしちまうからな。自分が知っちまったからといって、ほかのやつにまでその不運をなすりつけることはない。
いいか? 忘れちまうことだ。知っちまったほかの者たちみたく、きれいさっぱりあいつのことも、俺のことも。
できるはずだ。おまえたちはそうしてきたからこそここまで勢力を広げられたんだ。おまえもそのうちの1人だ、できないわけがない。
それができなきゃ……そうだな。死ぬことだ。自分でできなきゃ俺が手伝ってやったっていい。一刻も早くあいつの手の届かない高処へ逝くことだ。
それもできないとなると、あとはあいつを狩るしかないな。俺みたいに。
さあどうする? 坊主」
それはいかにも簡単なことであるとでもいいたげに笑って、男は手の中のそれを彼に向かって差し出した。
その行為を非難するようにかげってしまった月の下で、鈍く青灰色に光るアルミの先は、まっすぐ彼の喉へと向けられている。
そうして真剣そのものの瞳の中にもどこか、楽しんでいるような光を浮かべた男は、冗談とも本気ともつかない声で、また彼にこう言った。
「迷ってるな。それでいい。そうすることでおまえはもう選んじまってるんだ。あいつを忘れられても、あの感覚を忘れきることはできやしない、あいつに目をつけられちまったんだからと、おまえはもう気付いてる。その重大さに。
大低のやつはそこまで迷いきれやしないもんだ。坊主。おまえは賢いやつさ」
そして男はカラになった手で自分を指し、名乗った。
「俺は『えいしゅ』。影主だ」
3.恋 闇
いつからいたのか知らない。いつから気付いていたのかも。
ただ、それはいるのだ。
真昼と夕闇の狭間。
前へ進む人々は、時創る憂鬱の波となる。
立ち止まるのも人だし、振り返るのも人だろう。
その中、嗤っていたのだ。独り。
異色の影を黄昏に投げかけて。
そうして陽炎のように紛れこむ。
夕闇と深夜の隙間。
暗躍の息遣い。そばだつ冷気。凍りつく優しさ。
偽りすらも色褪せる。
少女よ。
おまえは何を見てどう思い、
どう思って何をするのか……。
影主はもうずいぶんと昔からあの少女を追っていたらしかった。
ときには遅く、ときには過ぎ行き、ときには終焉だけを……。
「狩るんだ」
その言葉は囁きとは思えないほど強く彼の心を捕らえ、揺さぶる。
「そうしないとおまえのようなやつはもっと増える」
――僕?
「見ただろう?あの女を。あれは人じゃない」
では、人でなくては殺すのか。
自分たちとは違う、異端であるから消減させるのか。
「あれに囚われた者は闇を好むようになる。陽の光を恐れないまでも関心を失い、すべてにおいて怠惰に、情念を失ってゆく。
興味をなくしちまうのさ。脱力し、希薄化していく。
あんなのは人じゃあない。望んでの解脱者かも知れないが、それは自らの手で得るべきことだ」
――――――分からない………。
かすかに風が吹いていた。
冷たい氷粒が頬に当たって溶ける。
雪でないのは確かだけれど、まるで崩れる月のかけらのように思えるのは間違いだと、彼は黙々とそんなことを考えながら歩いていた。
月が崩れる。
月が崩れるとはなんという表現だろう。
それは自分がそう望んでいるからなのか。
そうあればいいと、思っての言葉か。
それとも、自分の視点が変わったからか。
……それは月が崩れたとき、分かることだ。
「そうね。でも、あなたが変わったというのも事実なのよ」
不意にそんな声がした。それはまるで、己の底から沸き起こった言葉のような気がして、一瞬ギクリと彼は身を強張らせる。
「出たな!」
間髪入れず振り返った影主の手が宙を薙ぐ。月光も照らし出せない速さで、その先から残像という尾を引く光が繰り出されたが、それは少女のリボンをかすめただけだった。
雲間に隠れた月と、まるで入れかわりでもするように徐々にその気配を表す。
それは、それのみでいえば、おおよそ少女の持ち物ではなかった。
「あああ、おろしたばかりなのにもうだいなし。
あなたのせいよ、影主」
そう、拗ねたようにあまやかな声で責めながら、ちょこんとつま先で地面に降り立つ。少女からは、まるで引力という枷が感じられない。だがそれよりも彼を驚かせたものは、少女の足元から伸びた漆黒の影だった。
頭のリボンを気にして触れる、その指先すらも鮮明に焼きついた、影。
夜の闇の中にありながら、なお闇よりも暗い影よ。
「あれこそがあいつの姿だ」
影主はここぞとばかりに彼に囁き、その肩を抱き寄せた。
「闇にすら拒まれる者。闇に属しながら、闇に拒絶される者だ。
坊主、けっして見逃すなよ。あれこそがあいつの本性、俺たちと決定的に違う、相入れないあかし」
彼は頷こうとし、そしてためらった。
少女の瞳の中にある、かすかなかげりが気になったからだ。
ほんの僅かな、瞳中を走り抜けたきらめきほどの間だったが、少女ははっきりとその言葉を拒絶する意思を示していた。
だが影主はなおも続ける。
「狩るしかねえんだ。やつは何も生み出せない。負の力しか持たないくせに、壊しきることもできない!
ずいぶん前にどっかのばかが、やつは仲間を増やそうとしてるんだとほざきやがったが、真っ赤な大嘘さ。俺たちはどうしたってやつみたいにゃなれねえんだ。分かるか? 坊主。
あいつには何ひとつ創れやしないんだ。その止まった刻と同じで何ひとつ生めないし、破壊しきることすらできないのさ!」
「それが何だというのよ、影主」
とうとう思い切ってか、少女の細い指が、弄んでいたリボンをさっと引きほどいた。
破れて引き攣った布の面を見て、深くため息をつく。
その姿に、案外ため息は影主の語った事実に対してなのかもしれないと、ふと彼は考えた。
少女の指が、リボンをびりびりと縦に引き裂く。
「くだらないわね。そんなことばかり考えていて、影主、あなた疲れなくて?」
影主は答えない。否定することすら拒んでじっと少女を見つめる。
「そう? 私は疲れたわ、いいかげんね」
「なら、死ねよ」
重く静かに影主が返す。
このとき少女の目は、初めて裂き続けていたリボンから影主の方へと向き、そして細まった。
闇に、まごうことなき剣呑とした光が、浮かんでいる。
「あら。私が疲れたのはあなたとの言葉遊びよ。それと、この代わり映えしない追いかけっこにもね。
実際あなたって直情型すぎるんだもの。もう少し余裕と向上心、それから場を楽しむってことを知った方がいいわよ。そうしたらもっと私も楽しめて、もっともっとあなたにかまってあげたくもなるのに。
ほんと、もううんざりだわ。これでいくつめだと思うの? あなたがだいなしにした私のお気に入り。ちょっとばかり腹に据えかねるわね、最近のあなたの所業って」
ちろり、血の色を連想させる舌が口端に現れる。
その危うさに、彼は目まいいすら感じる。
「そうね。確かにあなたのしつこく口にする、このあたりで終わりにするっていうのも手だと思うから、今度ばかりは本気でつきあってあげてもいいけれど。
でもね……」
そこで少女の伸ばした両手は、そのまま大きく闇を抱いたように見えた。その背から巻き起こった風に乗って、いくつもの青い糸が2人へ向かって解き放たれる。
突如として生きた蛇のように身をくねらせたそれを運ぶ風は、闇を渡るその美しさに見とれて動けずにいた彼を避け、理をねじまげて、その全てを影主へぶつけた。
「せめてこれくらいはやらせてね。すぐに終わりじゃ、いくら私が移り気だって、ついていけないもの」
そう言って、少女はくすくすと鈴のような声を上げて嗤う。とっさに前に出した左手にそのほとんどが巻きつき、首までは届かなかったが、かすった頬からは血が糸を垂れ、触れただけで服は裂け、巻きついた左手は血の気を失いじわじわと青く変色してゆく。
苦痛に歪む男の表情に気を取り戻した彼も手伝って、2人がかりでようやく外したものの、影主の受けた見えない衝撃は、相当深くまで食い込んでいるようだった。
さながら遅効性の毒のように。
青冷めた肌の下が酸素を求めて激しく動く。地に這わせた指先まで震えさせ、握りしめていたアルミはすべて周りに散ってしまっていた。
「あらあらどうしたの? まるでらしくないじゃない。いつもの強気はどこへいったの? たったこれくらいのことで根をあげないでちょうだいよ、情けないわ、影主。
それでよく今まで私を追って、しかもどうにかできるなんて思ってたわね。そんなことじゃ、到底私に触れることすらできないわよ」
「……つくやみぃっ!!」
乱れた呼吸の中、自分を見下ろしてかん高く笑う少女に息もろくにできず、ぴゅうひゅうと喉を鳴らしながら影主が叫ぶ。そのほとんどは散ってかすれ、側にいた彼の耳にすら言葉に含まれた意味は届かなかったが、渾身の思いで少女を睨みつける目が、その意味を幾倍にもして少女に知らしめていた。
「……そう、なの……」
信じられないと目を見開いて、つぶやく。
それは問いではなかった。
「そうなの、影主」
確認でもなく。
少女の手が、影主の頬へと伸びる。鼻筋を伝わせ、目尻をなぞり、髪を流いた。
愛しげに。
哀れむように。
影主はほんの僅か、一刹那、目を閉じて委ねる。
「本当のあなたは、もう、望んではいないのね……」
涙すらも伝わらせる、はっきりと、それが何であるのかを傍らにいた彼が悟ったとき。
影主は背後に隠し持っていた最後のアルミを少女の胸へと突き刺し、少女は、影主の唇へ己のそれを重ね合わせた。
「あなたは、本当に、疲れてしまったのね……」
少女の唇が、影主ののどへとゆうるりと埋もれる。
『おやすみなさい』
母親のように、少女は影主を抱きしめていた。
そののどもとに半ば以上埋もれ、至福の笑みを浮かべた影主の手が、少女の服にすがる。
瞬間。
時間の干渉が生まれた。
ひたすら少女を追い、陰を捜し、闇に求め続けた男に、ようやく、やすらぎが訪れたのだ。
時の流れが男を元の姿――本来あるべき形へと戻す。
夜風に巻き上げられた服、散ったそれらを見やることもなく。
少女は立ち上がった。
雲間から姿を現した月に照る面には、もはや何の感慨も浮かんではいない。
胸に刺さっていたそれを、今さらのように引き抜く。
赤い筋をまとわらせたそれを。
まるで、男の残したそれだけを、惜しむかのように。
その姿に、彼はさらなる感銘を受けた。
「どうする?」
肩におりた髪先を弄びながら、少女は彼に問いかけた。
ためらいの風が。
『彼』を崩落しつくす。
総てをさらうように、少女の足元から生まれる。
「まだというの?
それなら、あなたはもう必要ないわ」
少女は冷めた声で言う。
『彼』と『少女』の間に、もはや、あの時間は戻らなかった。
なぜか。
なにゆえか。
彼は知っていた。
気付いていた。
もう変わってしまったことを。
廃れた思いが、今の時を占めている。
そして、たった1度――2度はあり得ないからこそ、こんなにも心惹かれるものなのだ。
『あなたはもう必要ない』
リフレインする言葉を残して消えた少女を求め、周囲の空へと目を向ける。
渡る風、揺らぐ光、歪む影。
彼は、足元に散らばるアルミを1つ、拾いあげた。
あの少女を忘れることは不可能に思えた。
『できないとなると、あとはあいつを狩るしかないな。俺みたいに』
影主の言葉が胸によみがえる。
『闇にすら拒まれる者。闇に属しながら、闇に拒絶される者だ』
影主は少女を憎んではいなかった。
少女は影主を疎んじてはいなかった。
そう。分かる。
影主は少女に必要とされていた。
少女は影主に切望されていた。
分かる。今なら。
影主はただ、悟っていただけ。
少女は多分、赦しただけ。
新しい、影主の誕生を。
少女に魅せられ、少女だけを追い求める、狩り人を。
「影主……か」
ぽつり、つぶやいてみる。
びゅるると風が言葉を運ぶ。
『そうなの』
どことも知れぬ虚空から、少女の声が響く。
『そうなの、影主』
ほのかな笑いを含んで、声は響く。
求めずにはいられなかった。
あの、失われた刻を。
あの男のように。
その瞬間を得るには、少女は不可欠なのだから。
「影主、だ」
明確に、今度は力をこめる。
そうすることで何かが変わるとは思わない。けれど、変わった何かを感じることはできた。
このとき。
彼の中で、月は、崩れた。
『月下交路 了』