支え
私、岸本 沙織には好きな人がいる。
同い年の男子である野上 勇樹だ。
私と勇樹は親同士の仲がよかったこともあり、幼稚園に入る前からの友達で、いわゆる幼馴染だった。
小さい頃の勇樹は泣き虫で、ちょっとしたケンカや少し転んだだけですぐに大泣きしてしまっていた。
そんな様子を見て、私たちの親や周りのみんなは『名前は“ゆうき”なのに弱虫だ』と言っていた。
けど、私は知っていた。勇樹は泣き虫だけど決して弱虫ではないと。
確かに勇樹はすぐに泣く。けど、どれだけ泣いても決して逃げ出したりはしなかった。
ケンカとかでは、相手が悪い時は泣きながらも最後まで相手に抵抗を続けていたし、自転車や鉄棒の練習でケガをした時も、どれだけ泣きながらもすぐに再開して成功するまで絶対にやめなかった。
そんな勇樹の様子を見て、私は幼いながらも何となく理解していた。勇樹は泣きじゃくるための――弱音を吐くための場所が必要なだけで、とても強いのだと。
単なる幼馴染でなくなったのは、私たちが小学二年生の時だった。
私が乱暴な上級生の男子に絡まれた時、勇樹が間に入って私を守ってくれたのだ。
当然勇樹が勝てるワケもなく、最終的には近くを通った大人が解決してくれたのだが、勇樹はケガをして大泣きしながらも、ずっと私を庇って上級生に立ち向かってくれた。
それがきっかけで、勇樹は私にとって特別な男の子になった。
小学五年生になると、勇樹はプロ野球の試合を見たことがきっかけで野球に興味を持つようになり、少年野球チームに入った。
私は試合の日はもちろん、普段の練習の日も時間があれば勇樹の応援に行った。毎日練習を頑張っている勇樹は、泥まみれで汗臭かったがかっこよかった。
一緒に帰る時や休日に過ごす時も、勇樹は野球のことばかり話すようになった。
その頃の私は野球自体には全く興味がなく、ルールもろくに知らなかったけれど、夢中になって野球のことを話す勇樹が好きだった。
▽
中学生になった勇樹は野球部に入部した。
勇樹は毎日日が暮れるまで練習した。疲れて動けなるまで努力した。部活のない日もジョギングや素振りをして頑張っていた。
私はそんな勇樹を応援した。
練習が終わるまで待って一緒に帰り、試合の日も応援に行き、自主練の時も様子を見に行った。
そして帰る時や休憩中にたくさん話した。
「今日も先生がさぁ……」
「あの時……俺の足がもう少し早ければ……セーフだったのに……」
「もう腕がパンパンだよ……」
「あ~……足いて~……」
「今度さぁ、久し振りにナイター見に行くんだ!」
話と言っても、大半は勇樹が弱音を吐くことだけだったし、それ以外でも野球の話をするばかりだった。
けど、勇樹が頑張っていることが伝わってきて、私も嬉しかった。
中学二年頃になると、勇樹は必ずと言っていいほど試合に出るようになった。そして試合でも活躍するようになった。
打順は必ず二番か三番を任され、ホームランではないけれどヒットを何発も打ち、四番バッターにつなげていた。
三年には野球の強豪高校からスカウトされ、そこへの推薦入学が決まった。その話を勇樹から聞いて、私も進路を決めた。
「私、勇樹と同じ高校に行く。そこの野球部のマネージャーになって勇樹を応援する!」
「本当か⁉ありがとう沙織!俺、沙織の応援に応えられるように頑張るよ!頑張って甲子園を目指す!」
「うん!私も、勇樹が甲子園に行けるようにしっかり支えるから!」
▽
そして私たちは同じ高校に入学した。
「今日からマネージャーとしてよろしくね勇樹」
「ああ。よろしくな沙織」
「お前、野上勇樹だよな?」
部活動初日、私と勇樹が話していると2人の男子が話しかけてきた。
「ああ。お前は確かホームラン打ちまくっていた天宮 彰吾と、有名ピッチャーの武田 涼だよな?」
「ああ!俺さ、ずっとお前みたいなバッターが俺の前にいてくれたらって思ってったんだ。これからよろしくな」
「お前にそう言ってもらえるなんて嬉しいな!こっちこそよろしく!」
「俺としては、敵チームで勝負するのもいいと思ってたんだけどな。よろしく!」
こうして、私たちの高校野球は始まった。
「勇樹、お疲れ様。はい、スポーツドリンク」
「ああ、ありがとう……」
けど、さすがに強豪高校は一人一人の実力が高く、勇樹は部内の紅白戦でもなかなか成果が出なかった。
「はぁ……。また三振か……」
「大丈夫だよ。その内また活躍できるって」
「……ああ。ありがとうな沙織」
そんな勇樹の力になれるよう、私はマネージャーとしての仕事をしっかりこなし、勇樹を支えた。
「あ……沙織~」
「ふぁ~……」
「沙織?大丈夫か?眠そうだけど」
「あ……。うん、大丈夫。ちょっと眠たかっただけ……」
「寝不足か?」
「ちょっと疲れているだけだよ。マネージャーの仕事って思ってたより大変だったからさ……。それに、野球のルールくらいはしっかり覚えようと思って、昨日本読んで寝るの遅くなったから。最近最近休みの日も早く起きられないことが多くて……」
「そっか……。お疲れ様」
「ところで何か用?」
「あ……いや、その……。ごめん、ど忘れしちゃった……。思い出したらまた言うから……」
「……そう?」
▽
「おっしゃー!今のホームラン見たか⁉」
「うん!すごいね天宮君!」
「だろ⁉」
「おかげで俺も余裕をもって投球できるよ。ありがとうな」
「……天宮はすごいな。俺も負けられねぇ……!」
▽
「武田君、今日の投球冴えてたね!」
「ああ!今日はいつもに増して調子がよかったからな!」
「俺は次期四番、武田は次期エース確定だな!」
「……二人ともホントすごいな。俺も頑張らないと……」
▽
「はぁ……。結局今年の夏の大会には出られず仕舞いか……」
「二人とも練習お疲れ様!明日の試合も頑張ってね!」
「ありがとう岸本さん」
「応援してくれよ!」
「うん!応援してる!」
「…………」
「あ!勇樹もお疲れ様!」
「……ああ、お疲れ様……」
▽
そんな日々を過ごしていた、夏の大会を終えたある日のことだった。
(……あれ?今日、勇樹来てないのかな?)
その日、勇樹は練習に顔を出さなかった。
練習が終わった後、下駄箱を確認すると外靴が残っていたので、私は校舎内を捜してみた。
「あ、いた!勇樹!」
屋上の手前の階段に座り込んでいる勇樹を見つけた。
「……沙織。どうしたんだ?」
「どうしたじゃないよ!何で今日練習に来なかったの⁉」
「え……?練習って、今何時⁉」
「まったく!ただでさえみんなに置いてかれてるんだから練習しないとダメでしょ⁉」
「あ、ああ……。そうだよな、ごめん……」
「明日はサボったりしないでよ!」
「うん……」
私は少し腹が立って、勇樹をその場に置き去りにして帰った。
次の日、勇樹はちゃんと練習に参加した。でも、なぜか集中できていないようだった。
守備練習ではどこか上の空で、素振りやキャッチボールには力が入っていないようだったし、ランニングでも遅れがちだった。
「天宮君、武田君、練習お疲れ様」
「ありがとう」
「岸本さんも、いつもマネージャーお疲れ様」
「二人やみんなが頑張ってるから私も頑張れるんだよ」
「…………」
「あ!ちょっと勇樹!」
「…………」
「もっと真剣に練習しなさいよ!中学ではあんなに活躍してたのに!しっかりしなさいよ!」
「……ごめん」
けど、その日から勇樹はますますおかしくなっていった。
朝練には来ない、練習に参加しても勝手に抜け出して休んでいたり、ベンチで寝そべっていることが多々あり、途中で帰ってしまうことさえあった。
「あの……監督。勇樹――野上君は……」
「野上なら、さっき帰ったぞ」
「そんな!帰ったって――!」
「アイツはいいんだ。俺がいいって言ったんだ」
『やる気のないヤツは必要ない』とでも言わんばかりに、監督はそう言い放った。
勇樹が練習をサボるようになってしまったのは、すごくショックだった。
▽
「天宮君、今日も大活躍だったね!」
「ああ、ありがとう」
「武田君もお疲れ様!」
「おう!」
「あ……。沙織……」
「ふん!」
「…………」
勇樹が練習をサボるようになってから、私は勇樹とロクに会話をしなくなっていった。
(昔はあんなに強かったのに……。ちょっと上手く行かなくなったくらいで諦めるなんて……。あんな勇樹大っ嫌い!)
そして秋の大会の後からは、勇樹は全く練習に来なくなってしまった。
(どうして来ないのよ⁉あんなに頑張っていたのに……!私の応援に応えられるように頑張るって、言ってくれたのに……!)
勇樹が来なくなってから、私は勇樹のことを考えないように無我夢中でマネージャー業務に打ち込んだ。
▽
勇樹が部活に来なくなってから半年ほど経ったある日。
私は部活の朝練の準備のため、グラウンドに来ていた。
「……え?」
そこには、もう二度と現れないと思っていた勇樹の姿があった。
「勇樹⁉」
「おはよう沙織」
「どうしてここに……?」
「心配かけてごめん。もう、大丈夫だから」
「……本当?」
その日から、勇樹はまた真剣に練習を始めた。
数日後にあった紅白戦では代打で打席に立ち、見事な長打を打った。
練習試合でも頻繁に代打で出してもらえるようになり、秋の大会ではようやくスタメンになった。
私は嬉しかった。
勇樹がまた真剣に野球をやってくれたことが。
勇樹が高校野球の選手として復活してくれたことが。
私が好きだった、強くて努力家で一生懸命な勇樹が戻って来てくれたことが。
▽
そして、甲子園を目指す最後のチャンスの大会が訪れた。
勇樹たちは全力で戦い、甲子園への切符を賭けた決勝戦へと駒を進めた。
その前の日のことだった。
私は武田君に呼び出されていた。
「俺、岸本さんのことが好きなんだ!明日の試合必ず勝つから、勝ったら俺と付き合って欲しい!」
そう言って頭を下げ、手を差し出してくる武田君に私は答える。
「ごめんなさい。私、他に好きな人がいるの」
「そっか……。わかったよ……」
武田君は落ち込んだ様子で立ち去って行った。
▽
翌日、やはり決勝まで駒を進めた相手の野球部も相当手強く、試合は五分と五分だった。
九回裏で私たちの攻撃、ツーアウトランナーなし、一点差で相手がリードしている状態で、三番の勇樹が打席に立つ。
そして相手の投手が投げた。
カキン!
勇樹はそのボールを投手の足元付近に強く叩きつけるように打った。
相手の投手はキャッチできず、ボールは後ろへと飛んで行った。
その隙に勇樹は二塁まで走る。
「よし!あとは任せろ!」
そして四番の天宮君が見事なホームランを打ち、私たちは勝った。
▽
「甲子園出場おめでとう!みんな!」
「ありがとう沙織」
「けど、こっからが本番だな!」
「ああ!今度は甲子園優勝を目指すぞ!」
新たな目標に向けて、みんなが気合を入れ直す中……
「岸本、ちょっといいかな?」
天宮君が私を呼び出した。
▽
「何?」
「今までありがとう。岸本が応援してくれたから、俺は頑張れたんだ……」
天宮君はそこまで言うと表情を引き締め……
「俺、甲子園でも頑張るからさ!俺と付き合って欲しい!」
そう言って頭を下げる。
でも、私の返事は決まっている。
「ごめんなさい。他に好きな人がいるから……」
「そっか……。わかった……」
天宮君は去って行った。
私は天宮君の後姿を見ながら、一人考えていた。
(勇樹は私に告白してくれないのかな……?)
気になった私は勇樹を捜してみることにした。
「いやでも、最後の逆転ホームラン打ったのは天宮だし……」
「!」
聞き覚えのある声がして、私は声のする方に向かって行った。
「ゆう――」
「でも、野上君が打たなかったらその時点で負けてたんだし、十分活躍してたと思うよ」
「そうかな?ありがとう小川さん」
(え?)
声を掛けようとしたところで女の子の声が聞こえ、私は思わず身を隠した。
覗いてみると、勇樹が知らない女の子と楽しそうに話をしているのが見えた。
野球部のマネージャーではないから、全校応援で来てくれた生徒の一人なのだろう。
(……誰?)
「あれ?あの子って……」
「⁉」
不意に後ろから声が聞こえ、振り返ると武田君が立っていた。
「小川さん?」
「知ってるの?」
「ああ。小川真奈美さん。一年の時同じクラスだったんだ。……けど、野上とは同じクラスになったことないハズだし、部活も手芸同好会で委員会も図書局だし、接点ないと思うんだけどな?岸本さんは何か知ってる?」
「ううん……」
私は、胸の奥に痛みを覚えながら、二人の様子を見守ることしかできなかった。
▽
次の日から、勇樹たちは甲子園優勝に向けて、前にも増して猛特訓を始めた。
私も必死になって、みんなの応援とサポートに力を入れた。
その甲斐あってか、甲子園でも私たちは勝ち進み、決勝戦を迎えた。
「ストライク!バッターアウト!」
「くっそー!」
九回の表、ツーアウトランナー二塁、こちら側の一点リードで打席に立った天宮君が三振してしまった。
相手の投手もかなり強く、勇樹や天宮君もなかなか出塁できなかった。
「ごめん……。もう少し点差を広げられれば……」
「大丈夫だ。何とか抑えてみせる……!」
そう言ってマウンドに上がる武田君を先頭に、勇樹たちは守備に就く。
▽
「ストライク!バッターアウト!」
しかし、私たちはワンアウトランナー一塁、三塁で、次の打者は四番というピンチを迎えてしまった。
「ストライク!」
武田君が投げた初球は捕手のグローブに収まった。
(よし……!)
そして二球目……
カキン!
バットに捕えられたボールは、武田君の顔のすぐ右横を、凄い速さで飛んで行った。
「しまっ……!」
武田君もショートを守っていた選手も対応しきれず、左中間前に抜けると思われたその時――
パシッ!
レフトを守っていた勇樹が打球に頭から突っ込んで行き、落ちる前にボールをキャッチした。
「アウト!」
「サード!」
そのまま勇樹はランナーが飛び出していた三塁にボールを投げ――
「アウト!ゲームセット!」
私たちの勝利で試合は終了した。
▽
「やったぜ野上!」
「今日のヒーローはお前だぁ!」
試合終了後、私たちは勇樹を中心に優勝した喜びを分かち合っていた。
「おめでとう勇樹!かっこよかったよ!」
「ありがとう沙織!」
「おめでとう!みんな!」
「おめでとう野球部!」
全校応援で来てくれていた生徒や先生方も合流して、ますます盛り上がっていく中……
(あ……)
私は勇樹と小川さんが親し気に話しているのを見つけた。
(何を話しているんだろう?)
▽
そして、帰りのバスの中で私は決心した。
(私から告白しよう……!)
勇樹と小川さんの様子を見て、私は待っていてはダメだと気付いた。
そして学校に着いてバスを降りた時、途中で告白するために勇樹と一緒に帰ろうと声を掛けようとした。
(あれ?)
けど、いつの間にか勇樹の姿が見えなくなっていた。
辺りを見渡すと、少し離れた所に勇樹の後姿が見えた。
私は急いでその背中を追いかけた。
しばらくして勇樹が立ち止まったところで、私は声を掛けようとした。
「ゆう――」
しかし、喉まで出かかったその言葉は途中で止まってしまった。
小川さんが一緒にいるのが見えてしまったからだ。
そして――
「俺、小川さんのことが好きだ。付き合って欲しい」
勇樹のその言葉が聞こえた瞬間、私は目の前が真っ暗になった。
▽
次の日、学校も部活も休みだった私は、家の近くの公園に来ていた。
そこは昔、よく勇樹と一緒に遊んだ公園だった。
「……勇樹」
昨日、勇樹が小川さんに告白していた光景を思い出し、思わず涙が出る。
どうして私じゃないの……?
私の方がずっと前から勇樹のことを好きだったのに……。
私はずっと勇樹のことを支えてきたのに……。
あんな大して勇樹の力になっているわけでもない、最近になって出てきた女なんかに、どうして……?
「沙織ちゃん?」
背後から聞き覚えのある声が聞こえ、振り返ると勇樹のお母さんが立っていた。
買い物帰りらしく、荷物が入った買い物袋を両手に持っている。
「……おばさん」
「……沙織ちゃん、今日ね、勇樹はお父さんたちと一緒に出掛けていて、夕方まで帰ってこない予定なの」
「…………」
「よかったら、ウチに来ない?」
▽
「はいココア。お砂糖たくさん入れておいたから」
「ありがとうございます」
私はおばさんに言われるがまま勇樹の家に行った。
「……沙織ちゃん、辛いかもしれないけどいいかしら?」
「……はい」
「昨日、勇樹が小川さんに告白したのを見たの?」
「……おばさんも知ってるんですか?」
「ええ。昨日、告白したって言ってたから」
「そうだったんですね……」
「……ごめんなさいね沙織ちゃん」
「……え?」
「勇樹が小川さんに告白するように、背中を押したの私なの」
「……どういうことですか?」
それからおばさんは、私が知らなかったことを教えてくれた。
高校で野球を始めて最初の頃、勇樹は中学時代の頃のように上手く行かないのは悔しかったが、それは覚悟の上だった。
ただ、同じように推薦で入ったみんなが結果を出している中で、自分一人だけが前に進めていないことで『自分はもう成長しないのではないか』『私が勇樹を支えるためにマネージャーとして頑張ってくれているのに、その頑張りに応えられないのではないか』、と不安になっていたそうだ。
今思えば、その不安が焦りに繋がり、気持ちが空回りしてますます成果を出せなくなる悪循環に陥っていたようだった。
そして、今まで自分のことを一番に気に掛けていてくれた私が、自分よりも活躍している他のみんなを見るようになり、それが私に見限られたようで辛かったらしい。
勇樹はその不安や辛さを私に聞いて欲しいと思った。
けれども、日々マネージャー業務に追われている私にこれ以上迷惑を掛けていいのか悩み、それができずにいたそうだ。
ましてや私の態度で頭を悩ませていることは、私には言いにくかった。
だから勇樹は、その辛さを自分の中で押し殺し続けていたそうだ。
それでも勇樹は、『活躍で来ていない自分が悪い』『マネージャーなら選手全員を応援するのが当然』『何でもかんでも沙織に甘えていたらダメだ』『自分が返り咲いて振り向かせればいいだけ』『沙織の気持ちがどうだろうと、俺は野球を頑張る』などと自分に言い聞かせて頑張ってきた。
けれどもその辛さは変わらず、勇樹は精神的なストレスで少しずつ体調を崩していったそうだ。練習で疲れている筈なのに夜眠れなかったり、食欲が湧かない日々が続くようになった。
結果が出ない辛さで頑張りたくないと思うようになり、私に見限られたのではという不安から頑張る意味を見失い、そこへ体調不良という頑張らない理由ができてしまった。
それで勇樹は部活に対する意欲が失せてしまっていた。私がサボっている勇樹を見つけたのが、ちょうどその時だったらしい。
その時に私に一喝されたことで、取り敢えず部活には出ることにしたそうだ。
監督は、勇樹の顔色が日に日に悪くなっていることに気づき、練習の途中で休むことや朝練を休むこと、早退することを許可していたそうだ。
しかし、勇樹の顔色は悪くなる一方だったため、監督は『一度保健の先生や医者に相談したうえで、しばらく部活を休んだ方がいい』と提案した。
監督に言われても勇樹は部活を休むかどうか迷っていた。そうやって保健室の前で考え込んでいたところで、たまたまそこを通りかかった小川さんに会ったらしい。
小川さんは勇樹の顔色が悪いことに気づき、半ば強引に勇樹を保健室に押し込んだ。そして保健の先生と一緒に話を聞いてくれたそうだ。
それから勇樹は病院に行き睡眠薬を貰った。そしてしばらく部活を休んで様子を見ることにしたそうだ。
そして勇樹と保健室の前で出会った日から、小川さんは勇樹を心配して話し掛けるようになり、話を聞いてくれるようになったそうだ。
放課後や学校が休みの日も、わざわざ勇樹の家まで来て話を聞いてくれたらしい。
小川さんが話を聞いてくれたおかげで、勇樹は溜まっていたストレスから少しずつ解放されていき部活動に復帰できた。復帰した後も、小川さんは勇樹の話を聞いて辛さを和らげてくれたそうだ。
そうして一緒に過ごしている内に、勇樹は小川さんに惹かれていったらしい。
「勇樹は最後まで悩んでいたわ……。ずっと沙織ちゃんのことが好きだったのに、今さら別の女の子と恋人になりたいと思うなんて、って……。けど、そんな責務みたいな考えで恋人を選ぶなんて相手に失礼だって、今自分が恋をしている人を恋人にしなさいって、私が言ったの……」
「そうだったんですね……」
話を聞いて、私は自分の負けを認めざるを得ないと思った。完全試合と言っても過言ではないくらいの惨敗だった。
小川さんは勇樹のことを心配して話を聞いてくれた。勇樹にとって本当に必要な支えになってくれていた。
幼馴染でもない、マネージャーでもない、クラスメイトですらない。ただ保健室の前で会っただけだったのにだ。
それに比べて私はどうだ?
私は勇樹が体調を崩しているなんて知らなかったし、部活に身が入らなくなるくらい悩んでいるだなんて思いもしなかった。
それ以前に、勇樹に何かあったのではとも思わなかった。ただ勇樹が努力してくれないことに腹を立てるばかりで、勇樹の心配なんてこれっぽっちもしなかった。
今思えば、あんなに頑張っていた勇樹が部活をサボるなんて、よほどのことがないとあり得ないのに……。
勇樹には弱音を吐く場所が必要だって、昔から知っていた筈なのに……。マネージャーになってから、いつの間にかそれを忘れてしまっていた……。
マネージャーとしての仕事をしているだけで、勇樹のためにできることを全てやり切った気になって……。支えるどころか勇樹に気を遣わせて、精神的な負担になって……。
ずっと傍にいたのに……。勇樹のことが好きだったのに……。
▽
勇樹が小川さんに告白してから数日後の登校日、私が廊下を歩いていると近くの曲がり角の向こうで何人かの女子が話しているのが聞こえた。
「……で武田君も天宮君もフラれちゃったの?」
「そうなんだって。ひどいよね、あんなに思わせぶりな態度をとって」
「練習が終わったら真っ先に駆け寄って、付き合う一歩手前のいい感じで会話してさぁ」
「その気がないなら適切な距離を取れっての」
(私ってそんなふうに見えてたんだ……。勇樹にも私がどっちかに気があるように見えてたのかな……?)
「野球部のエースピッチャーと主力打者二人を弄ぶとか、ホント岸本さんって性格わる……」
「あいつはそんな奴じゃねぇ」
「!」
その静かな怒鳴り声には聞き覚えがあった。
(勇樹の声だ……)
「あいつはマネージャーとして、真剣に野球部全員を応援していただけだ。それ以上悪く言うな」
「な、何よ……!」
勇樹の言葉に女子たちは去って行ったようだ。
「……ふぅ」
「勇樹……」
「沙織。……今の聞こえてたのか?」
「……うん」
「そっか。大丈夫か?」
「うん、平気。勇樹が怒ってくれたから」
「ならよかった。それじゃあ」
「――っ!ま、待って!」
私は立ち去ろうとする勇樹の腕を掴み、言った。
「私、勇樹のことが好き。勇樹の恋人になりたい」
「……ごめん。俺、小川さんと……真奈美と付き合うことになったから……」
「そっか……。告白、成功したんだね……」
「……やっぱり知ってたんだな」
「見ちゃったんだ、告白しているとこ……。それにおばさんにも話を聞いたから……」
「母さんの様子がおかしいと思ったけど、やっぱりか……」
勇樹は深く溜息をつく。
「沙織……本当にごめん……」
「え?」
「俺と同じ高校に行って野球部のマネージャーになるって聞いた時、何となく気づいていたっていうか、期待してたんだ……。沙織が俺のこと好きなんじゃないかって……。けど、本当に、少し前までは沙織のこと好きだったよ……。彼女になって欲しいって思っていた……」
「…………」
「ずっと一緒にいてくれていたのに……。応援してくれていたのに……。支えてくれていたのに……。沙織の気持ちに応えてあげたいけど……。応えてあげるべきなんだろうけど……。俺、今は……」
「ううん、仕方がないよ。私、ちゃんと勇樹のこと支えてあげられていなかったみたいだし……」
「それを言うなら俺だって……。活躍できない俺より、活躍してる天宮たちといい感じになってたから『もう俺のこと応援してないのかな』って思って、沙織のこと信じ切れなかったし……」
そこまで言うと勇樹は小さく溜息をついた。
「こんな俺たちじゃ、最初から上手くいきっこなかったのかもな」
「そうかもね」
勇樹のその言葉に、思わず私たちは揃って苦笑いしてしまった。
「俺さ、プロ野球からスカウトが来たんだ。だからプロになろうと思う」
「うん、応援してる。私は勇樹の恋人じゃないし、たぶん進路は野球と関係のない所へ行くと思う。けど、今度こそ勇樹のことをちゃんと応援して支える!肩書とか、仕事とかに頼らないで!勇樹のファンの第一号は私だから!」
「ああ、ありがとう!頑張るよ!」
「それとさ、今度私にも小川さんのこと紹介してよ」
「いいよ」
こうして、私の初恋と高校生活は終わった。
▽
それから数年後、プロ野球選手になった勇樹は、四番ではないものの打率三割を維持する強打者として有名になっている。
私は調理師免許や栄養管理士の資格を取得したり、経営学などを学んだりして、やがて定食屋を始めた。味も栄養バランスもしっかりしていると好評で上手くいっている。
「いらっしゃいませー!」
「久しぶりだな沙織」
「こんばんは」
「勇樹!真奈美!いらっしゃい!」
結婚した勇樹と真奈美や、勇樹と同じようにプロ野球選手になった天宮君や武田君もよく来てくれる。
「この間の試合も大活躍だったね」
「いや、結構あの試合不安だったんだぞ……」
「え?そうなの?」
「うん。勇樹ってば試合の前の日にさぁ……」
今では夫婦で私のお店に来てはよく話をする仲だ。
時には互いに不安や悩みを聞いたり、相談に乗ったりして、今度こそ支えになれていると実感している。
とても充実しているが、悲しいことに勇樹を超える男性は、まだ私の前には現れない。
頑張っている人を支えることはとても立派なで大切なことです。
ですが、足を挫いたり骨が折れたりして自力で歩けなくなってしまった人に、松葉杖や車イスが必要なように、挫折して自力で前に進めなくなった人こそ誰かの支えが必要なのではないでしょうか?