Part8
「おい!初音!!!」
俺は怒りを抑えられず大声で叫んだ。人には超えてはいけないラインがある。初音の
人懐っこさは良いところだが、たまにボーダーラインを超える節がある。
「ご、ごめんなさい。ワッシー」
シュンっと捨てたられた子犬のように小さくかる。謝るべきは俺ではないだろうと思
い、次の言葉を発しようとしたとき。
「いいんですよ。近い年頃の人がいないから聞いて頂けるほうが嬉しいです」
「やめとけ、初音。聞くな」
必ず後悔する。親しい、親しくないの限らず誰かの生死に関わることに足を踏み入れ
るのは。暗い感情が自分の心を真綿で締め上げるように、何年も何年もかけて心を傷つ
けるから。
「私が聞いて欲しいと言っているんですよ?」
こちらを見る三宮さんの目には確かな覚悟があった。その目が思い出させる。
(春の思う通りに、自由に選択したらいい)
遠い遠い日に得た黄金色の言葉が心の中で木霊する。もう何十年も実際には聞いてい
ないしわがれ声。それがたまらなく辛くて、今にも吐き出しそうになる。
「もうええわ!帰るわ!リストはあとでラインせえ」
怒りに身を任せて、言葉をぶつけると俺は逃げ出したのだった。
「ごめんね、私が変なこと聞いたから」
背中を丸くした初音さんが申し訳なさそうに呟く。
「いえ、いつか言おうと思ってましたから」
私はそう言って初音さんを励ます。初めてできた近い年の人が悲しんでいる姿はこん
なに辛いものなのですね。彼にはまた逃げられてしまった。
「三宮さんは誰かに聞いて欲しいのは、遠くないうちに死ぬこと?」
「え?」
彼は何か悟ったような穏やかな表情でこちらを見る。それとは対象に焦りながら泣き
そうな顔をしてるのが初音さん。
「やはりご存知でしたか」
以前にした会話から私のことを看護師さんから聞いたのだろう。看護師の皆さんは年
下の私を本当の妹みたいに可愛がってくれている。同い年の友達になってくれればと思
い話した可能性は高い。
「君は院内では有名人だからね」
「ちょっとどいうことよ!勇斗!」
立ち上がった初音さんは目じりを釣り上げて怒鳴った。大和撫子の見た目と素直に感
情を発露する姿はギャップ萌えを感じさせる。
「彼女はね、うちの和谷の本家とも取引がある大企業の御息女さ。名前にも聞き覚えが
あったし、有名な話がある。三宮家のご長女は不治の病だって」
「なるほど、だから和谷さんは両親の事をご存知でしたのね」
記憶に新しいある違和感、彼と両親がお互いに出会ったことがあるのだろう、一昨日
のやりとりに合点がいった。では、私の事情についても。
「でも、あいつは君が不治の病であることは知らないよ。その頃には家と関係を断って
たからね」
私のことを知らなかったから、私には特に反応がなかったのですね。しかし、あの優
しそうな彼が家と関係を断つだなんて一体なにがあったのでしょうか。
「それでは、どうして彼は逃げるのでしょう?」
カフェで私について聞いた際も決して深くは踏み込もうとしなかった。あの時は拒絶
だったけれど、今日はどう見ても逃げていた。
「君は本当によくみてる。その通りさ、あいつは逃げたんだよ。その理由についてはま
だ秘密かな」
こちらに語り掛ける勇斗さんの表情は明らかに作り笑いだった。何か深い事情がある。
まだ秘密だと言うのならここが、恐らく引き際なのでしょう。
「そうですか、ならいつか聞くことにしましょう。それより初音さんにティッシュかハ
ンカチを」
先ほどから隣でずっと鼻をすする音が聞こえてきている。顔を見なくても初音さんが
泣いてくれているのだろう。
「ズビビ、どうして、どうして死んじゃうのよ〜」
勇斗さんから差し出されたティッシュで鼻と涙を拭きながら問いかけてきた。その時
に顔を見ると、目元は赤く少し化粧が崩れているけれど美人さんは、こういうときでも
美人に見えた。
「私の患っている病気は治った前例がありません」
これは事実だ。現在までに確認されている症例が少なく、また寛解した人はいない。
「ど、どうしてそんな悲しいことを聞いて欲しいの?」
悲しそうにこちらを見てくる。今日あったばかりの私にここまで親身になってくれる。
そんな彼女を泣かしてしまったことに少しの罪悪感を感じながら、私は胸の内を吐く。
「私は小さい頃に入院しました。私にはお友達がいません。だからこそ、年の近い誰か
に聞いて覚えていてほしかったのです」
もう十年も昔にここでの生活を始めた私には友達がいない。だから、友達になってく
れそうな年の近い人に私のことを覚えていて欲しい。
「そ、そんな……」
悲痛な表情でこちらを見る。その顔が私の胸をちくりと刺す。
「泣かないでください、初音さん。私はもう受け入れているのです」
彼女の右手を掴み両手で包み込む。私の想いが少しでも伝わるように。
「受け入れてるって……いや、なんでもない」
勇斗さんは本当にこちらの事情をよくご存知みたいですね。私がまだ話す気がないこ
とも知っているようです。
「いや、一つだけいい?」
下を向いて考え込んでいた勇斗さんが顔をあげて真剣な眼差しでこちらを見る。
「ええ、どうぞ」
「ワッシーは、あいつは必ず君のその事情を受け止めてくれる。だから、それまであい
つに変わらず接してくれないか?明日きっと今日に逃げたことを謝るとおもうから」
彼の言葉に私の胸が跳ねた。
「構いません、私は彼にも聞いて欲しいですから」
どうしてこんなにも彼に私のことを知って欲しいのかは分からない。けれど、あの優
しいのに不器用な彼のことが私はどうしようもなく気になっていた。
「ありがとう」
少しだけ静かな時が流れる。それがいたたまれない気持ちにさせる。行き場をなくし
た視線を無理に持ち上げると時計が目に入った。もうすでに夕方と言っていい時間にな
っていた。
「よい時間ですので、私はこれで」
夕飯の時間まで過ごしていても良いのだけど、理想のカップルな二人の邪魔をしては
いけない。
「また、明日」
「深夏ちゃん!私明日からできるだけ来るから!」
旗のように大きく手こちらに振ってくれる初音さんの顔には、まだ少し暗い影が落ち
ていた。
「ええ、楽しみにしています」
そうして、私は病室を後にした。