誤解とお願い 3
エレノアが去った後。リディアの部屋に仕立て上げられたばかりのドレスと、刺繍をするためのハンカチが届けられた。エレノアのきめ細やかな肌に映える色合いと、繊細で控えめだがフリルで動きのあるデザインに仕上がっている。ところどころに細かな宝石が散りばめられ、着た人を煌びやかに見せる工夫がなされている。これはエレノアにとても良く似合うと思いながらドレスを眺める。リディアが刺繍を施さなくても充分に美しい仕上がりである。この素敵なドレスに刺繍をしなければならないと思うと、少し荷が重い。リディアは手元にある紙を見る。そこにはハンカチとドレスに施す刺繍についての詳細と、受取りまでの期間が書かれている。刺繍の内容については良いとして、期間は舞踏会まであと一ヶ月を切っている。刺繍をした後、エレノアの所まで届けるのにも時間が掛かるため、刺繍をすることの出来る日数は3週間程だろう。ハンカチにも刺繍をするため、ドレスだけだと2週間取れれば良いほうである。思ったより時間があることに安心したが、念の為にドレスから刺繍をすることにする。メイドに道具と刺繍しながら食べられるお菓子を用意してもらい作業に取り掛かった。
窓からの光が柔らぎ夕焼け色の光が差し込む頃、刺繍をしていた手を止める。久しぶりに集中したせいか背中が強張っている。伸びをして体をほぐしていると控えめに扉を叩く音がする。
「いま、入って話しても大丈夫だろうか」
扉の音と同じく控えめなフリッツの声がする。
「どうぞ」
この時間に屋敷に戻っているのは珍しいと思いながら入室を許可すると、音もなく部屋に入って来る。部屋が薄暗いためリディアからは表情はよく見えないが何かに驚いた気配がする。
「灯りを」
フリッツの声に応じてメイドが灯りをつける。
「これはどうしたんだ」
リディアは何のことかと思ったが、フリッツの視線はリディアの手元に向けられている。今しがたまで刺繍をしていたドレスを見て、リディアは説明をしようとしたが、フリッツの前でエレノアの名前を出すわけにはいかないと思い至る。
「これは、その、知り合いに頼まれまして、王宮の舞踏会に来ていくドレスの刺繍をしています」
「なぜ、君が刺繍を?刺繍をする場合は自分でやるべきでは?」
「そうなのですが、頼んできた人は刺繍が苦手なのです」
なんとかエレノアの名前を出さないように、やんわりと説明をしようとする。
「まさか男性ではないだろうな」
「違います!女性の方です。見てくださいドレスですよ」
誤解されては困ると慌てて手に持っているドレスを見せる。男性が女性に刺繍を頼むということは家族か恋人同士ということになる。リディアの見せたドレスをフリッツは一瞥し、眉根を寄せる。
「これはリディア自身のドレスで、そこにあるハンカチは異性に渡す物かも知れないだろ」
リディアの手にしているドレスはあきらかにサイズが違うのだが、そう言われてしまうと反論出来ない。女性が刺繍した物を男性に渡す場合は、好意があるという意味だ。騙して婚約したうえに恋人や意中の人がいると思われては困るので、正直に言うことにする。
「これは全て妹のエレノアの物です。私には恋人も好きな方もおりません」
恐る恐るエレノアの名前を口にする。フリッツはリディアの手にしているドレスを見やり、刺繍された箇所に触れる。
「本当に?」
「本当です。妹が来て刺繍をお願いしていきました。使用人に聞いて頂ければ妹が来たことは確認が取れると思います」
真っ直ぐにフリッツを見て、嘘ではないと主張する。合わさっていた目が不意に逸らされる。
「疑って悪かった」
「こちらこそ誤解を招くような言い方をしてしまい、すみません」
「いや、それより好きな奴もいないのか」
「おりません」
真剣だったフリッツの顔が柔らかくなる。
引きこもりがちだったリディアは社交に出ず、家で過ごすことが多かった。そのため同年代の異性と出会う機会はない。好きな人どころか気になる男性さえいたことがない。もしいたとしてもリディアの容姿では恋人になることはないだろう。
「そうか。それにしても見事な刺繍だな」
「ありがとうございます。刺繍だけは得意なんです」
まさか褒められるとは思っていなかったので驚いたけれど、素直に礼を言う。リディアにとって刺繍を褒められるのは特別に嬉しい。
「それで私に何か用ですか」
「ああ、忘れるところだった。これを君に」
そう言って渡されたのは一枚の封筒だった。
上質な紙を使った封筒には丁寧に封が押してある。その刻印は社交に疎いリディアでも見覚えのあるものだった。
「私が見てもよろしいのですか」
「君宛だ」
リディアは恐る恐る封筒の中身を確認する。中には二つ折りにされた上質な紙に丁寧な筆跡で舞踏会への招待が書かれている。
「えっと、これはまさか招待状ですか?」
「そのまさかだ。どこからか婚約したのを聞きつけたらしくてな、断り切れなかった」
「つまり二人で参加すると」
「すまない。俺が相手なのは不満かも知れないが、今回は一緒に参加してくれないか」
リディアはフリッツに頭を下げられ困惑する。
「頭を上げてください。不満などありません。ただずっと社交に出ていなかったのでフリッツ様に迷惑を掛けてしまうと思います」
「迷惑など掛かるはずがない。リディアと参加出来るなら嬉しい」
フリッツは嬉しそうに笑う。その笑顔にリディアはドキっとする。
「では早速、明日から準備を始めよう。ドレスやアクセサリーなど必要な物があれば言ってくれ。それと刺繍を頼みたい」
「刺繍ですか」
「一応婚約者だからな。男性の持ち物に刺繍は必要だろう」
なぜか楽しそうに言うフリッツの言葉にリディアは青ざめる。舞踏会までは一ヶ月を切っている。それにリディアはすでにエレノアの刺繍を頼まれている。それに加えてリディアのドレスやフリッツのハンカチなどの刺繍をすると時間が足りない。簡易な刺繍を施せば間に合うかも知れないが、今回は王宮主催の舞踏会だ。そこで手を抜けば王族を軽んじていると捉えられてもおかしくはない。
「俺はまだ仕事があるから戻るが、リディアは好きに過ごしてくれ。明日から忙しくなるからあまり無理をしないように。それともし心配ならマナー講師を呼ぼう」
「もう戻られるのですか」
「早めに舞踏会のことを知らせようと思って一旦戻って来たんだ。顔を見られて良かった」
そう言ってフリッツは軽やかな足取りで部屋を後にする。残されたリディアはどきどきする胸を抑え、舞踏会までにきちんと終わらせなければと必死に刺繍をし始める。