大切なものって何だったんだろう。
「わたし、結局何がしたかったんだろう。もうわたしの生き方に自信もてないや。」
真夜中のバーで、カクテルの入ったグラスを一気に空にして、そのまま突っ伏して言った。このグラスのように空っぽなわたしの心を反映した、無気力な声で。
「あんたにとって1番大切だったものって、いったい何なの。」
ーわたしが飲み干したカクテルの名は、「ブラッドアンドサンド」店長が勝手に注いだのだ。カクテル言葉はたしか…
「切なさが止まりません。」
「紗季さん!今日の撮影も素敵でしたね!」
「紗季さんは私たち新人の師匠ですよぉ」
「そんな大げさな笑。でも、ありがと。」
そう言ってまだモデルを初めて半年の後輩の1人が差し出してきたジャスミンティーのボトルを受け取る。
「今ちょっと気持ち的にダウンなんですよね…。紗季さんはそういうとき、どうやって自然な笑顔を浮かべてるんですか?」
わたしだってまだモデル初めて2年だってのに、この手の相談されるのはしょっちゅうだ。頼りにされるのは嬉しいけどね笑。
「モデルって言うのは自分をアピールしていくことで人々に笑顔を与えるのが使命だって、わたしは思ってるの。誰もがなれるわけじゃなくて、わたしたちは選ばれた存在なんだって思うと、なんか誇らしくならない?」
後輩たちが次々にうなずく。
「わたしの笑顔は、多分そういう自信から来てるんだと思うよ。みんなも自分磨き頑張って、自信を付けるんだ!」
そう語りかけると、相談してきた後輩の子の表情が明るくなっていった。
「やっぱ紗季さんかっこいいなぁ。というわけで明日仕事無いし紗季さんの奢りで飲みにいきましょ!」
「褒めたってそんなことしないからね。美容のためにも早く帰って寝なさい。」
わたしの名前は松永紗季。今では結構な人に知られた名前だ。2年前、24歳のときから読者モデルを初め、先月号の読者モデルアンケートで見事1位を獲得した。朝は毎日5時に起きて、朝早くからの撮影が無いときは、そのままジャージに着替え、ジョギングを1時間する。天気が悪くない限りは、外が暗くても寒くても欠かさずやっている。それが終われば仕事に行くための身支度を始める。派手すぎないナチュラルなメイクと髪の丁寧な手入れは、もはやしないと落ち着かないくらいまでになっている。食生活は少食かつヘルシーに、夜は睡眠時間が7時間切らないように心がける。モデル仲間には夜飲みに行く子たちもいて参加できなかったり、彼氏とのラインを途中で打ち切らなきゃならないことも少々つらいが、モデル業界はそう甘くない。入浴は時間をかけてその後のスキンケアも欠かさない。この生活は、わたしがモデルオーディションを受けると決意してから今までずっと続けてきた。自分磨きのために日々努力を惜しまなかった。アンケート1位も、その努力の賜物だと思う。そして、わたしが何より大切にしているのは、朝、玄関の壁の貼り紙に書かれた文字を読み上げることだ。
「うつむかず、顔をあげハキハキ喋る。」
「目尻を上げて、口角もあげること。」
「ただでさえ背が低いのだから、せめて背筋だけは伸ばして魅力的に魅せること。」
今じゃ想像もつかないが、高校生までのわたしは、今とは全く真逆の性格で、いつも自分に自身が無く、そんな自分が嫌だった。そして、ある時を堺にそんな自分を変えたくて、たくさんの努力をしてきた結果、わたしは今のわたしになれたのだ。それを忘れないためにも、これは出勤前の大切な大切なルーティーンなのだ。
転機は去年のお盆休み。事情があって帰省する際の無いわたしは、彼氏ー村神辰哉と家デート中だった。辰哉の実家は、これもまた事情があって取り壊され、今では狭い一人暮らしのアパートの一室に住んでいた。この誰にも邪魔されない狭い空間でのデートの雰囲気は至福そのものだ。
お昼過ぎ、特にふたりともやることが無くて、わたしはそのへんにあった雑誌をパラパラとめくっていくと、そこにあったのは「読者モデル募集要項」だ。それを見た瞬間、お昼ご飯のあとの眠気でとじかけていたわたしの目がぱっと開いた。これだ。心のなかでそうつぶやく。やってみたいと彼に言うと、それはもう嬉しそうな顔で頑張れ応援してる!と言ってくれるのだ。今でもその顔は絵に描けるくらい鮮明に覚えている。
当時のわたしはやりたいことが見つからず、大学を卒業してからは全寮制高校時代に掛け持ちしたアルバイト先とハローワークに通う日々を過ごしていたーいや、正確にはやりたいことはあったがそれをどういう形で実現できるのかが分からなかったのだ。わたしがやりたかったことはー
「今の自分に自身が持てない人々に自分を変える勇気を与えること」だった。高校生の時の経験を活かしたかったのだ。わたしが卒業したのは心理学部、就職先はそんなに少なくないはずだった。でも、しっくりくるものがない。真っ暗なトンネルそのものだったわたしの生活に出口を作ってくれたのが、「読者モデルを目指す」という志なのだ。モデルになって、そんな経験をした自分をドンドンアピールしていけば、いつかはわたしのやりたかったことを実現できるかもしれない。そう信じて。
それからのわたしの口癖はこれだ。
「モデルは自分をアピールしていくことで人々に笑顔を与えるのが使命なのだ!」
後輩モデルとのやり取りを終え、家に帰ると、わたしは真っ先にラインを確認した。モデルになってから人付き合いの幅が広がり、わたしのラインは取引先の人でいっぱいいっぱいになった。たくさんの新規メッセージの中でも、一番上にあるのはいつも辰哉だ。まぁ、わたしがそうしてるんだけどね。
「紗季!今日も仕事お疲れ様!明日ちょうど仕事休みなんだよ。明日いつもの場所で良い?」
「辰哉もお疲れ様!うん!楽しみだね!」
そう返信するとすぐに既読がついた。
「もうマジでほんとの意味での久々の休みにこうして紗季と会えるなんて俺は幸せだなぁ。」
「大げさw」
辰哉の仕事は編集者だ。ちょうどわたしがモデルになった頃に転職したのだ。明日は辰哉が編集を担当してる雑誌の発売日。その雑誌はわたしも載るものだ。そう、わたしが撮影を受けたものを辰哉が編集して売り出しているのだ!撮影の日、同じ場所で辰哉に会うのが、わたしの1番大好きな仕事だ。辰哉の目線がずっとわたしだけを指している気がしてならない。辰哉の応援を直で画像として見てる気分になり、幸せになる。だからいつも以上に雑誌でのわたしは輝いていて、それを毎月発売日にいつもの場所ー近くの書店で待ち合わせて一緒に買うのが、多忙で月1しか会えないわたしたちの大事な楽しみだった。その後は、わたしの全寮制の同室の友人、わたしの人生で初めての友人の岡元涼音が店長を務めるバーに行き、みんなで雑誌を眺めてはいろいろな話をする。わたしの撮影のとき、辰哉がずっとわたしを見てたこと、最近辰哉がビールにハマったこと、涼音が注文されてないカクテルを勝手にお客様に出しちゃうこと、月が毒舌すぎること…。涼音が雑誌を夢中に読みすぎてレジで待っているお客さんを待たせ、従業員の1人、これまたわたしの全寮制高校時代の友人の望月月に睨まれてたのは、なかなか面白かった。
わたしを慕ってくれる後輩、バーの友人、そして、何よりも大切な恋人…
わたしは今の生活に大満足だった。まさか、それが突然音を立てて崩れる…いや、自分の手で壊してしまうなんて、このときのわたしは思いもしなかった。
「紗季、タレントやってみないか?」
もうすぐクリスマス・イブを迎えようとしてた頃の仕事終わりに、唐突にマネージャーさんからこう言われたのだ。訳がわからなくてへ?とモデルらしくなく上品さのかけらもない声を漏らしてしまった。
「紗季みたいにたった2年で一流モデルになれる人材そういないぞ。そんなに才能があるんだったら、もっと仕事の幅を広げたほうが楽しいと思うぞ。」
そういえばいつか夜中の飲み会に行こうとしないわたしを疑問に思ったマネージャーさんが、なぜそこまでして頑張るのかを聞いてきたことがある。そしてわたしは高校生時代の臆病な自分の話をした。マネージャーさん目を丸くしてたな。
「モデルになって、自分をどんどんアピールして。そうすることで変わりたいと思ってる人々に自分から変わる勇気を与えたくて。それなら、常に努力を惜しまず人々に誇れる自分でありたいから。」
そう応えたのをマネージャーさんは感動してずっと覚えてたらしい。タレントなら、テレビ番組に出て、そういった自分の体験談を語る機会がある。つまり、モデルだけやるより、わたしのやりたいことが果たせるということなのだ!
「この前某事務所との打ち合わせが会ったときに、紗季のファンのスタッフさんがいて、松永紗季がタレントならぜひ欲しいと言っていたぞ。」
その一言で、わたしの決心は完全に固まった。もうわたしは26歳で、タレントを始める年齢としては遅すぎるかもしれない。でも、不思議と怖くなかった。だって、わたしにはいつだってそばで応援してくれる、心強い恋人がいるから。
「はい!是非よろしくおねがいします!」
ーこの一言は、一見新しいわたしの始まりのように今は思えるのだが、後に二度と取り戻せない大切なものを失う合図でもあったんだ。
ー疲れた。
玄関に入るや否や靴も脱がずにそのまま寝転がる。不覚にもそのまま目を閉じ、頭の中が空っぽになっていくのを感じる。
タレントの話が出てからドタバタと2年が経った。タレントにもいろいろあるけど、わたしにピッタリだと言って勧められたのは女優業だった。主人公が周りの人の力を借りながら葛藤や不利な状況を乗り越えて成長していく…。物語ならよくあるこのパターンは人間の大好物らしい。そして、物語じゃなく現実として過去にこういったことを経験してるわたしは、一般的な女優が演技するのでは到底伝えられないような思いを込めることができると期待されたのだ。タレントの話が出てから半年の間は、モデルの仕事の傍ら、可能な限り演技力を鍛える教室に通った。空いた時間は有名な女優さんのインタビュー記事などを読み、自分に置き換えて理想像を作り上げていく。女優の仕事が本格的に始まったら毎日朝1時間もランニングなどできなくなるだろう。だったら週2でジム通おうかな。女優として軌道に乗るまではそんな金銭的余裕は無いだろう。それでも自分磨きをやめたくなかったわたしは、贅沢はせず、可能な限り貯金に回した。本格的に女優の仕事が始まってからは朝8時にはマネージャーが車で迎えに来て、帰宅は0時くらいだ。朝7時には起きないと間に合わないので、入浴やスキンケアを済ませたらもう1時。好きなことをする間も無く寝ないといけない。先日、まだ1年半の新人にして、いきなり準主演を務めることが決まった。主演は家庭の問題で不登校となってしまった幼馴染の男の子。それを救う存在が準主演のわたしで、過去に一人で親からの虐待に立ち向かったという設定で、何かと主演の背中を押すようなセリフが多い。細かい設定は全然ちがうけど、なんか過去のわたしと辰哉みたい。正直女優としての生活はこれまで以上にきつかったが、やはりこの作品を通してわたしは人々に勇気を与える使命を与えられたのだと思うと、自然と熱い思いがせり上がってくる。空っぽだった頭がエネルギーを取り戻し、やっとわたしは玄関で靴を脱いで立ち上がった。ふとスマホを見ると…もう0時半。いい加減お風呂入らなきゃ。今日は比較的仕事関係の新規メッセージが少なかったので、お風呂の前にラインを開いた。
「紗季さん今日もお疲れ様です!よろしければ明日僕の演技に助言していただけると嬉しいです!」
主演の俳優さんから一件のメッセージが入っていた。この人は年下だけど、幼少期から子役を努めていた人なので、経験はわたしよりずっと多い。それでもわたしに意見を求めたり、納得がいくまでリハーサルを続けたりなどの謙虚な姿勢にわたしは魅力を感じていた。やはり準主演と主演という関係もあり、一緒に行動することが多い。今はこの人がわたしの原動力だった。
「お疲れ様!それじゃあまた明日わたしの演技についても聞かせてね!おやすみ!」と返信したとき、通知音が鳴った。辰哉からだ。
「紗季、次いつ電話できそうかな。」
本来多くの人が楽しみにしてる、恋人からの電話のお誘いだ。なのにわたしの心は一瞬にして空気の抜けた風船のようにしぼんでいった。またか。これでもう何度目だろうか。わたしがタレント活動を始めてからはモデルの仕事を減らしたため、辰哉と仕事をする機会はめっきり減った。そして、休日も取引先との会食などの予定でうまるようになってから、月1でわたしたちが楽しみにしていた雑誌購入デートも、バーもいつの間にか消失していた。それでも、月2回ほどは休日の夜にビデオ通話するようにしていたにも関わらず、去年の冬以来、いつも労いの言葉をくれていた辰哉はおかしくなってしまった。こんなメッセージが2,3日に1回来るのだ。最近は相当クタクタで時間があれば寝たいくらいなので、ビデオ通話すらしてないのもあるのかもしれない。けれど、こっちは毎日必死でキツいスケジュールをこなしているのだ。わたしたちの愛は会ったり話したりする回数が減ったくらいで変わるわけない。高校の時からずっと片時も愛さなかったことのない関係なのだから、もう少しその辺を理解してほしいと思ってた。ふと、例の貼り紙のそばに飾られてる指輪が目に入る。タレント活動の話が耳に入って直ぐのクリスマス・イブにわたしは辰哉にそのことを伝えた。辰哉は一瞬何故か戸惑った顔をしたが、頑張れと言ってくれた。そして次の瞬間に渡されたのが、この指輪だ。
「今はお互い色々あって、紗季はこれからもっともっと仕事の時間が長くなって、二人で居る時間は減るかもしれない。けど、俺は紗季と一生を共にしたいと思うくらい、愛しているんだ。」
壮大なイルミネーションを背景に、辰哉がその光を受けてキラッと光る指輪をわたしに差し出してきた。そう、わたしはあのとき、辰哉にプロポーズされたのだ。愛する人に一生のパートナーとして選ばれたこの上ない嬉しさで胸がいっぱいになると同時に体の底からせり上がってくる、タレント活動への葛藤。とても言葉では言い表せない複雑な気持ちでわたしはついに耐えきれなくて、3年前、辰哉と再会してから一度も流してなかった涙を流してしまった。泣くのってこんなに苦しかったんだ。辰哉からのプロポーズが素直に嬉しいはずなのに、嗚咽が邪魔して気持ちを伝えられない。一方で辰哉のプロポーズを素直に喜べず、タレント活動を選んでしまいそうな自分が後ろめたくて、今すぐこの場から立ち去りたかった。足がすくんで、わたしはそのまましゃがみ込む。このまま涙腺が壊れてしまいそうだ。ふと頭上に気配を感じる。辰哉が、わたしの高さに合わせてくれたようだ。「俺は紗季がやりたいことなら全力で応援するんだ。だから、いつか紗季の気持ちが俺と一致するときが来たら、指輪をつけて俺の前に現れてほしい。殆ど会えなくなってラインだけになってしまったところでなくなってしまうような関係に俺はとても思えないから、何十年でも待てるんだ。」
指輪は変わらずキラキラ輝いていた。でも指輪よりも、イルミネーションよりも、まっすぐに見つめてくる辰哉の瞳がわたしには何よりも美しく見えた。辰哉が立ち上がる。わたしに手を差し伸べる。
「どんなに忙しくなって、全然会えなくなっても、クリスマス・イブだけは!その日だけは!普通のカップルみたいにデートしていたい!いつか、絶対今日の返事しに行くから、それまでわたし以外の人を好きにならないでね。約束だよ!」
わたしは辰哉の手を借りて立ち上がり、一気に言った。辰哉は何も言わない。変わりに次の瞬間、わたしの視界は辰哉の胸元で遮られた。あぁ、何度されてもやっぱりなれない。鼓動が早まるばかりだ。
冬の寒空の下、わたしたちは永遠の愛を誓ったのだ、この指輪に。なのに…
次のクリスマス・イブにデートすることはできなかった。急にドラマ関係の打ち合わせが入ったのだ。辰哉は何も咎めずに応援してくれた。でも、やはり声は曇っていて、…その日から辰哉は変わってしまった。
あんなにきれいだった指輪が、あの日以来どんどん錆びついて見えた。わたしが仕事に没頭すればするほど、わたしが辰哉から離れていくほど、どんどん光沢がなくなって見えた。そしてわたしはそれを見るたびに何とも言えない罪悪感に胸が締め付けられる。今でも、前と辰哉への思いは少しも変わっていないのに。
それを打ち消すようにわたしはラインを閉じ、お風呂へ向かった。辰哉への返信は明日マネージャーの車の中でしよう。「ごめんね、こっちからかけれるときにかけるから。」わたしに返信のしかたなんて、この1パターンしかないのに。どうやったら辰哉を安心させてあげられるのかわからない。何と返せばわたしの愛情を伝えられるのかわからない。そうやって言い訳して、気づいたらいつもいつも後回しにしていた。思いを伝えるのは、結局いつでもできるから、仕事が落ち着いたらにしよう。そう自分にいいきかせて。
こうして「モデルとしての紗季」から完全に「女優としての紗季」に移行したわたしは、気づかなかったのだ。いや、気づこうとしていなかった。辰哉の密かなSOSに。
「紗季は見るたびに綺麗になってくね」
時たまのビデオ通話で彼はいつもこういうのだ。そしてそれを聞くたびに、あの整った顔は色を無くしていき、痩せ細っていった。
「サキヨリモオレノコトヲアイシテクレルオンナガミツカッタ。バイバイ。」
途端に辰哉がわたしの肩を突き飛ばした。
足を踏み外し、崖から真っ逆さま、墜落する飛行機のように、わたしは落ちていく。
段々と遠くなっていく、辰哉のしあわせそうな声。そして、勝ち誇ったような声を上げるわたしの知らない女。何が起きたのかわからず、わたしから出るのは悲痛な叫び声だけ。ただ1つわかるのはー
「わたしは辰哉に捨てられた。
…しばらく放心状態で動けなかった。ただただ目と全身から冷たい塩水が滝のように流れているだけだった。呼吸が苦しいし唇が震える。きっとわたしは人前に出れない顔をしているだろう。すぐに何とかしなきゃ。動かない体にムチを打って、立ちくらみしながらも何とか立ち上がることに成功したとき、今日は仕事が休みだと言うことに気づいてホッとした。無意識のうちにそのまま再び布団に倒れ込む。もう10時半だというのに。
本当に、夢で良かったなんて言葉じゃ片付けられない。辰哉に愛想を尽かされるなんて、本当だったらこの先の人生立ち上がれるのかわからない。きっと、無理だ。秋が深まり、わたしが準主演を務めるドラマの収録も、いよいよ大詰めだ。最近本当に疲れがピークで、部屋の片付けに気が回せなくなってきた。押し入れの中にあるはずのものまで床に散乱しており、少しずつわたしの足場が侵されていく。とりあえず今日は気が済むまで寝て落ち着いたら片付けをすることにした。きっとさっきの悪夢も疲れから来たのかな。
ー頼むから、そうであってほしい。
ふと、わたしの視線に部屋の隅に放ったらかしにされたスケッチブックが目に入る。衝動的に手にとってページを開いた。途端に切なさを帯びた懐かしさがわたしの全身を包む。それはさっきまでとはまた違う熱い涙に代わって現れた。そこに何が書いてあるのかはよくわからない。抽象画すぎて、殆ど線の重なりだけしか無くて、わからない。ただそこにあるのはー
春休み、海、告白、辰哉の熱い視線…
わたしが1番忘れたくない思い出の中で、高校生のわたしと辰哉が幸せそうな笑顔を浮かべて見つめ合っていた。誰にも邪魔することができないくらいの固い繋がりを醸し出して。
そしてふとビデオ通話のときの、げっそり痩せて活力を失っていく最近の辰哉が頭に浮かぶ。そして、なんとなくそれに触れられずにいたわたし。今のわたしたちは…
反射的にスマホを取る。いつの間にか、いつもラインの一番上にいたはずの辰哉の個人ラインが、取引先に埋もれていた。
「急にごめんね。話したいことがあるんだ。辰哉の駅で待ってても良い?」
今まで後回しにしてごめん。本当にごめん。お願いだから、神様、もしいるのならーあの悪夢が現実になるのだけは、しんでも嫌です。
ラインは割としていたはずなのに、いざ目の前にすると緊張で全身が固まってしまう。それでも、あの夢が現実になる方が、もっとこわいから。重い口を開く。
「あの、し、しんや。な、なな何か、つらいこと、ない?わたしに、話してほしいんだ。」
正直に言うと何と言えば良いのか分からなかった。辰哉がそこまで痩せてしまった理由は精神的なものだろう。それを分け合うことで、辰哉との関係をもとに戻すのが本望だ。
「えぇ!?久々に俺を呼び出してくれたと思ったら、そんなこと聞くの!?」
…彼は、ただ笑っていた。から元気だってバレバレの力のない声で。わたしの質問に答えずに。
「いや、なかなか聞けなかったんだけどさ、辰哉がどんどん痩せていくから、心配で…」
「そりゃ仕事はきついけど、紗季が頑張ってるから、俺もって思えるんだ。紗季は、新しい仕事、どうだ?新しいドラマ楽しみなんだよな。主演の男、なかなか良さそうだな。浮気しないでくれよぉ?笑」
…こんなの辰哉じゃない。わたしが求めてる辰哉じゃない。わたしはお互いに信頼し合ってて、何でもはっきり言える関係だと思っていた。実際にわたしが辰哉に仕事の弱音を吐いたときは少なくとも彼は嫌な顔はせず、労ってくれた。だから立場が逆になっても同じようにしてくれると思ってたのに…。もしかして、あの夢、本当だったのかな。もう辰哉にとってわたしはつらいことを共有したくない存在なのかも。でもそれも今の辰哉から確かめる術が無い。
わたしには、辰哉の考えてることがわからないよ…!それを確かめる術も!思いやりの言葉も!全部全部わかんないよ…。
外は深夜23時の閑散とした公園。冷たい風が頬を打つ。いきなりブルっと震えが来た。多分これは寒さからじゃないけど…。早くしないと、本当にあの悪夢が現実化してしまう。わたしの頭の中がどんどんぐちゃぐちゃになる。次の言葉が浮かばずイライラする。嗚呼、腹立たしい。本音を言ってくれない辰哉が。そしてーこんなになるまで何も出来なかった自分が。
何度も同じことを聞いても、あっけらかんとしてる辰哉。ついにわたしは怒りを辰哉にぶつけてしまった。
「さっきから何なのよ!わたしの質問無視して、言いたいことだけ言ってさぁ!なんで、なんで本当のこと言ってくれないのよ!なんで強がるのよ!もう!わたしには辰哉の考えてることがわかんない!そのために何をしたらいいのかもわかんないしさぁ…。どうせ今すぐわたしから逃げたいとか思ってんでしょ!そんなあんたに、今のわたしのどうしようもなくもどかしい気持ちがわかるわけないじゃない!」
…4倍速された動画に負けないくらいに早口で言い放った。息を吸わずに言ってたので、言い終わった時少しクラっとした。肩で息をしながら前を向くと、辰哉の表情がー
感情を無くした、いや、怒りが込められてて、けどその顔は何故か悲しげで苦しそうで、目はこれまで見たことがないくらいに冷え切ってて、まっすぐにわたしを突き刺してくる。心臓に悪い。
「…放っといてくれよ。」
彼はわたしと目を合わせずに冷たく言い放った。やはり、わたしの質問には答えずに。
「放っといてくれよ!」
今度はさっきより容赦なく叫ばれた。語尾が少し震えてた…?辰哉の顔を覗き込もうとすると、すぐに顔を背けられ、そのまま駆け出していった。まるでわたしの存在を認識しないようにするかのように。
言いたいことを散々ぶちまけたわたしは、今は自分でもぎょっとするくらい冷静で、1人取り残された公園でじっと考える。今日はきっと何を言っても無駄だ。いつか、また二人で落ち着いて話せれば、それでいい。
「いつか」この言葉は今のわたしを救ってくれる魔法の言葉だ。思いを伝えるのはいつでもできる。仕事が落ち着いたら、辰哉の気持ちが冷静になったら、また何とかすればいい。そしてわたしはまっすぐ帰路ヘつく。自分を正当化するための言葉を色々思い浮かべながら。
ーこんな浅はかな考え方をして、辰哉を夜の闇に放り出した自分に死ぬほど絶望することになるとは、全く考えていなかった。
「紗季ちゃん。気の毒だが、今後一切、辰哉に自分と付き合ってた過去のことに言及するのはやめてほしい。」
わたしは今、総合病院の病棟に居た。辰哉、ではなく辰哉のお父さんと向かい合って。
昨夜、辰哉のお父さんから電話が入った。
要件は、「辰哉が交通事故に遭った。」
わたしはパニックで何も考えられず、反射的に辰哉の居る病棟ヘ駆けつけた。
幸い一命はとりとめたと聞いてホッとしたのも束の間でー
「あいつは、逆行性健忘症を発症した上に、アルコール性肝硬変で余命1年だ。」
吐き捨てるように、辰哉のお父さんは感情が爆発するのを必死にこらえ、わたしにそう言った。
辰哉は頭の打ちどころが最悪で、事故以前の記憶を一部失ってしまったのだ。辰哉の場合は、中学2年以降の記憶はすべて奪われてしまっている。つまり、
今の辰哉の中に、松永紗季はいない。
過去のことを話しても本人が混乱するだけなので、話しては行けないらしい。しかも、アルコール性肝硬変って…一体どうしてなの…?
とにかく今のわたしがわかっているのは、
もう、辰哉の本音は聞けない。
もう、辰哉に謝れない。
もう、プロポーズの返事はできない。
もう、あの頃のようには戻れない。
もう、何もかも遅い。
目の前が真っ暗になる。暗闇に突き落とされたみたいだ。光も、音も、愛する人の温もりも無く、果てしなく広がる、そんな世界に。
涙も枯れたわたしは、そんな世界の中に1人佇むしか無かった。この先どうすればいいんだろう…!見つからない答え。そもそもわたしに先なんてあるはずがなかった。
1人絶望にくれるわたし。こうしてわたしは自らの手でわたしたちの幸せを崩した。
ーもう二度と戻ってこない愛する人をも失って。ー
※辰哉目線
自暴自棄で無気力だった俺に、生きる意義を与えてくれたのは君だった。再び生きる目的を失って、長く続いた無意味な日々を終わらせてくれたのも、亡くなったと思っていた君だった。君は俺のスポットライトだ。俺の人生を照らしてくれた分、俺は、日々輝きを増していく君を陰で応援するポジションに付き続ける道を選んだ。この道がどんなに辛いものだったとしても、俺には君は他の何にも変えられない存在だから。君と一緒に居続けられるなら、なんだって捨てられる。俺の体さえも。
床に散らばった空の酒瓶やビールの缶。かすかなアルコールの匂いが鼻をつき、気分は爽快だ。冷蔵庫へ向かう。適当にビール缶を手に取り、一口飲んだ。まずい。いつものようにそのまま笑みを浮かべる。時刻は午前0時だ。スーツ姿のままビール缶をノートパソコンの横に置いて腰掛け、深呼吸をひとつ。
ーさぁ、やらなくては。今日も「屈強な辰哉」でいるために。
紗季は今日も輝いている。他のモデルよりひと際目立つ光を放ち、カメラの前で微笑んでいる。俺は少し離れたところで仕事をしつつも、その光を気がつくと見つめていた。紗季の笑顔の裏には、並々ならぬ努力を積み重ねてきた跡があって、俺はそれを誰よりも知っている自信がある。だからこそ、今こうして彼女の近くで応援してあげられる位置にいられていることに最大の幸せを感じていた。
俺は村神辰哉、25歳の新人編集者だ。同い年に何よりも大切な彼女がいる。なんと、モデルの松永紗季だ。紗季は去年、突然モデルを目指し始めた。高校生の頃に始めて出会ったときはかなり内向的な性格で人と打ち解けられなかった紗季。あらゆる世界で活躍し、無数の人との関わりを自ら求めていかなければいけないモデルという仕事に立ち向かうことで、自分の殻を破ろうとしてたのだろう。俺は努力家な紗季を純粋に尊敬していたし、彼氏として1番近くで応援してやりたいと思っていた。その頃の俺は大学を卒業して2年目になるにも関わらず、何もやりたいことが無くて職にもつかず、バイトを見つけてはやめてを繰り返していた。日々自分磨きのために全力で生きる紗季。彼女は生きる気力を無くしていた俺を救ってくれたスポットライトだ。そんな紗季を見ているうちに、今度は俺が彼女に寄り添い、挫けそうになったときに彼女の支えとなれるような、屈強な存在になりたいと思うようになった。彼女を陰で支えるポジションとして俺が思いついた道はー編集者。読者モデルとして雑誌に載る紗季の魅力を伝える側に就くんだ。こうすることで、俺は1番近くで紗季のモデル活動をサポートしてあげられるのではないか。編集者として、紗季の専属事務所に入ること。俺にとって初めてできた、絶対絶対叶えたい夢だ。他人からしたら俺の編集者への志望動機はちっぽけなものに違いないし、編集者の仕事はそう簡単に乗り越えられるものじゃない。分かっていた。それでも、俺は夢を実現させるまでの半年間で誰よりも努力した自信を持てる。人が変わったように、時間さえあれば面接対策をして、気が狂いそうになるほど対策を重ね…。ついに半年間の努力が実を結び、紗季と仕事が出来ることが決まった。画面いっぱいの「採用」の文字。それを見た瞬間、俺は無意識に紗季の家まで走っていき、ここ半年間のことを伝えた。実は紗季には編集者のことは合格したあとにサプライズとして報告するつもりでいた。それを聞くなり俺に抱きついてくる紗季。その満面の笑みは今でも鮮明に覚えているほどに輝かしくて、今でも相変わらず俺の仕事の原動力の一部だ。
編集者の仕事は想像を絶するハードさだった。終電で帰るのはザラで、そこそこ歳を重ねて出世していくと泊まり込みで働くことも珍しくなくなる。せっかく完成に近づいていた企画がいきなり却下されることもあるし、何よりも編集長が許可するまで帰れない。今までダラダラ生活してきた俺の体は、これはそんなにたやすくは受け入れてくれない。俺の肉体と精神、そして自由な時間はどんどんすり減っていく。家についたら何もせず、靴を履いたまま寝てしまうこともあった。それでも俺がこの仕事を続けられていたのは、紗季が目の前で頑張っているのを見ていたからだ。俺には紗季を陰で支えていく役目があるからだ。目標はそれぞれ違えども、そばで共に頑張る仲間がいるというのは意志の弱い人間という生き物である俺らにとっては、すごく励みになる。お互いに忙しくて月1しか会えないが、俺にとっては紗季と共に目標を持ち全力で過ごした、それこそいわゆる「青春」よりも輝かしい日々を送っていた。激務な中でも、幸せを見つけ出すことができた。
ーそれらは最初の1年しか続かなかった。
「んっ。ぷはーぁぁ。俺どうしちゃったんですかねぇ。あぁ?俺にわかるわけ無いでしょがぁ。」
目の前に出された、レモンと砂糖がグラスの上に乗ったユニークなカクテルを一気に飲み干し、無造作に音を立ててテーブルに置く。俺は基本的にアルコール類は好きではない。はっきり言って美味しくないのだ。それなのに今俺は一人でバーで酔っ払っていた。さっき飲み干したカクテルはこのバーの店長の涼音さん、紗季の親友が何故か俺に持ってきたものだった。名前は、ニコラシカとか何とか。まぁ正直カクテルの名前など、アルコール嫌いの俺には知ったこっちゃ無い。バーなんて紗季と月1デートのときくらいしか来ない…はずだった。
俺がバーにいるときは必ず、俺の隣で俺の書いた雑誌をこれでもかというくらい称賛してくれる紗季がいる…はずだった。
あれから1年ほど経ち、俺はもうすぐ26歳になろうとしていた。なんだか最近俺が俺じゃないような気がしてどうも落ち着かないのだ。彼女が挫けそうになったときに頼れるような屈強な男になれるよう、今までどんなに辛くても立ち向かってきた仕事。俺の仕事が更に激務化していくと同時にますます輝きを増していく紗季。最近の俺は何故かこれらを受け入れられなくなっていった。俺は紗季を応援したい。そのためにも常に強くありたい。この根本は何も変わっていないはずなのに。
きっかけは、数ヶ月前に紗季が読者モデルアンケート1位を獲得したことだったと思う。まさか2年でここまで人気が出ると思わず、そのときは本気で2人で喜んだ。が、日に日に魅力的になっていく紗季。その存在はもう俺の知っている引っ込み思案の彼女とは真逆の姿で俺の目に写っていた。紗季の周りには常にたくさんの人、人、人。その中でも、彼女は圧倒的なある種の強さを感じさせる。彼女の成長は、応援していた俺にとっては喜ばしいことだが、その反面謎の消失感に何度も駆られた。紗季はもう、俺なんかいなくてもやっていけるまでになってしまった。それがどうしょうもなく寂しいし、その感情を癒やす方法を俺は知らない。俺は、紗季とは対象的に激務でやつれてきている。こんなんで強くありたいなんて、俺は何かすごく無謀なことをしているのではないか。紗季が俺から離れていくんじゃないか。こわい。どうしょうもなくこわい。俺が本当に必要とされなくなるまであとどのくらいなんだろう。いや、だめだ。俺は紗季を応援するって決めたんだ。こんな身勝手な弱い感情を出している場合ではない。強く、ならないと。
こんなふうに、紗季の成長を素直に喜べない自分への葛藤を打ち消しては思い浮かべてまた打ち消して…時間が空くとふとこれらが頭をよぎり、俺を支配した。それに耐えられなくなって、今日反射的に行きつけのバーに行き、酔うまで飲んだ。酔った勢いで、これらの気持ちを全部涼音さんにぶちまけたのだ。もう俺は俺がどうしたいのかわからないと。
「結局、あなたは紗季とどうなりたいのかを、まずは考えてみるべきだと思いますよ。きっと紗季はあなたにとって一生物のようですね。」
一生物ー涼音さんのこの言葉ですべてが見えてきた気がした。いや、本当は前から思っていたことだったが、お互いの仕事を理由に避けてきていたということに気がつけた。素直に喜べない紗季の成長も、強くありたいのにあれない自分自身への葛藤も、全部この気持ちからのものだったのだ。
俺は、紗季を一生を共にするパートナーにしたかったのだ。
あとから店員の月さんから聞いたが、今日涼音さんが俺に出したカクテルにはこんな言葉があるらしい。
「決心、覚悟を決めて」
12月24日午後10時。イルミネーションの光がまるで俺を応援してくれるかのように俺だけを照らしてくれているみたいだ。今日、俺はすべてに決着をつける。ここ数ヶ月の悶々とした心境に。
俺はありったけの思いを彼女に告げた。指輪もわたした。しかし、彼女は喜ぶどころか、小さく肩を震わせてしゃがみ込んでしまった。紗季がこんなに泣いたのを見たのは、高校生の時の「旅」以来かもしれない。俺は何故、プロポーズをすることで彼女を悲しませたのかが分からずパニックになる。それをひた隠しにして理由を聞くとーそれは今の俺には到底受け入れがたいものだった。
「辰哉のことは大好きだし、プロポーズ、すごい嬉しかった。けど、わたしタレントやらないかって、誘われてて、タレントすればやりたいことがもっと存分にできるようになるから、受けたい!だから…」
その先は言わせなかった。だって、俺の最も聞きたくない言葉が来るに違いなかったから。だから俺は何でもない顔をして、俺より20センチも背が低い彼女に目線を合わせて言った。俺らの関係はそんなことで壊れるような脆いもんじゃない。今すぐに出来なくてもいいし、俺は紗季のやりたいことは全力で応援するから。そう、彼女にー
いや、ちがう。これからもっと紗季が離れていってしまう現実の受け入れを拒否している俺自身に言い聞かせるように言った。もうこうでもしないと自分を保てそうに無くて。結局、俺の一世一代のプロポーズは幕を閉じた。「自己防衛」という形で。
紗季の前で弱いところは見せたくなくて、本当に持っている醜い感情をひた隠しにするのに本当に疲れた。そして、紗季がどんどん俺から離れていくことを受け入れられない俺自身が嫌で嫌で嫌で、紗季のことを素直に応援できない弱い人間なんだって受け入れたくなくてー
「ただ無邪気に 口にしてた愛
食べきれなくて 捨てた」
紗季の大好きな曲のフレーズが今の俺にはよく似合う。俺はその日、大嫌いなビールを吐くまで飲み続けた。紗季を愛する俺の気持ちも何もかも全部を共に吐くように。
あの日、一人でバーに駆け込んで依頼、俺はすっかり負の感情から開放されるためにアルコールを頻繁に摂取するようになっていたが、吐くまで飲んだのは初めてでだった。
日に日に部屋が酒瓶やビールの缶で埋まっていく。
日に日に残業が増えていく。
日に日に紗季が離れていく。
残業がつらい?
紗季のラインが素っ気なくてつらい?
何も受け入れてやれない俺の弱さがつらい?
そんなもの、アルコールで解決すればいいじゃないか。俺はアルコールの味が大嫌いだ。クソまずい。けど、そのまずさに悶えているうちに、俺のつらさは脳から半減していく。だから逆に、俺は大嫌いなアルコールの味にハマった。そして、それでも足りなければ、吐くまでひたすら心を無にして飲み続ける。吐く行為は今の俺にとって唯一幸福感を感じられるものだった。その苦しさは、俺の醜い心を完全に忘れさせてくれる。もう俺には自分自身に苦痛を与え続けることしか、生きる術が無くて、2年もの間、自分を苦しめ続けた。
それでも、俺の中で紗季は1番で、「紗季のために」という気持ちはどれだけ吐いても一緒に俺の口から出てきてはくれなかったが、俺は見ないふりをした。それでも、紗季からの愛情が欲しくて、俺は紗季にラインをし続けてしまっていた。答えはいつも同じだったが。
「んあ゛っ」
ここ最近、頻繁に足が吊る。まともに歩くのすら難しくなってきた。しかもだんだん痛みは強まっていき、骨折したような痛みにまでなっていた。それでも、俺には歩かなければならない理由があった。今日久々に紗季から話があると呼び出されたのだ。高まる期待。久々すぎるアルコール以外での幸福感。やっと紗季と共に過ごせるかもしれない。指輪、持ってきてくれるだろうか。重たい足とは逆に、俺の心は久々に軽かった。
が、紗季はプロポーズの返事などしてこなかった。開口1番に、何か辛いことないか?と聞いてきた。視界がみるみる真っ暗になっていく。やばい。このままじゃ、アルコール摂取で紗季に隠してこれた俺の汚い感情がここで爆発してしまう。これじゃ、せっかく呼び出してもらえたのに、今度こそ紗季から幻滅されてしまう。俺は恐怖で震える唇を懸命に動かして、平気な旨を伝えるも、今日の紗季は非常にしぶとい。なかなか話題を俺から離さない。いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。
紗季はシラを切り続ける俺にキレた。俺の弱みを暴こうとする紗季に俺もキレる。
「放っといてくれよ!」
…声がわずかに震えてしまった。紗季は何も悪くないのに、俺が弱いだけなのに、俺が理不尽に紗季に怒鳴った。いたたまれなくなって俺は紗季の前から立ち去った。今は顔だけは意地でも見られたくなかった。
だって、こんな顔見られたら、俺は二度と強く生まれ変わった紗季に顔向けできないから。
ごめん。素直に応援できなくて。
ごめん。理不尽に怒鳴って。
ごめん。こんなに弱い人間になって。
ごめん。こんな俺でもまだ、紗季に愛されることを諦めきれなくて。
また足が吊った。骨折したみたいに痛い。
俺は悶えた。道路の真ん中で。
もちろん、今の俺にはこの症状はアルコール性肝硬変の症状であることも、車が俺目掛けて真っ直ぐ走ってきていることにも気付くわけがなかった。
※紗季目線
「ったく、あんたモデルとしての自覚はどこにいったのよ。」
月がただひたすら泣きながらカクテルを次々に胃に流し込むわたしに鋭い視線を向けて言う。当然だ。もう午後10時だ。健康維持のためにいつものわたしなら食事をするなんてもってのほかだ。前はそれを自慢気に話していたのだから。
辰哉のお父さんと辰哉の今後についてのことをいろいろと話したあとは放心状態で泣くことさえなかったのに、家に帰った途端どうしょうもない後悔が次々と津波の如く押し寄せてきて涙が溢れて止まらなかった。これまでわたしがしてきた努力はすべて自分のためのもので、そんな自分に満足して、わたしの最愛の人のことを放ったらかしにしていたのだ。そしてその結果がこれだ。わたしは彼に償うことができないまま、彼の最期を見送らないと行けないし、今の彼の中にわたしはいない。何より辰哉は何も悪くないのに、14年分の記憶を奪われ、あと1年でこの世から居なくならなければいけない。こんなのあんまりだ。みんなに自分を変える勇気を与えたいとか言いながら結局わたしは自分のことしか考えられない視野の狭い人間だ。それに今更気づいた悔しさで、日中はタオルがずっしりと重くなるほど泣いた。泣く資格なんかないのに泣いてしまう。マネージャーさんから心配のラインが届いているのは知っていたが、今はとてもそんなこと気にしている余裕などなかった。この後悔をこの涙が全部洗い流してくれたらどれだけ楽になれるだろう。
日が落ちてきた頃、少し落ち着いたわたしは、なんとなくあのバーへ向かった。辰哉と最後に行ったのは2年前。あれが最後のデートになるなんて、あの幸せだった日々では全く考えられなかったな。最後に来たのは2年も前だというのに、変わらず親友として接してくれる涼音、容赦ない言葉をお構いなしにかけてくる月。もう涙は消えたと思ってたのに、また溢れてきた。そして次から次へとカクテルを注文した。どれも切ない味がする。カクテルも涙もとどまることを知らず、わたしを通過していった。
「涼音、次はこのレモンみたいなやつ頂戴!」
「ざんねーん。そちらは材料無いので作れませーん。」
「何よー。しっかりしなよ。店長ー。」
「いやそれあんたが言えるセリフちゃうから。」
そう言ってなぜか月が空のオレンジジュースのペットボトルを持ってきた。
「カクテル飲みまくって酔ってるからムリー。」
「いや、あんたみたいにとんでもない量飲んで酔ってる人は酔ってるなんて言わないから。」
そう言われてみればそうだ。ん?なんかおかしいぞ。
「今まであんたが飲んでたのはカクテルじゃなくてぜーんぶただのジュースだよw」
…そういうことか。飲んでも飲んでも酔いが来なかったのは。それすら気づかなかったなんて、わたしはどんだけ高ぶっていたのやら。急に可笑しくなってきた。そして毒舌ながらもわたしの事情を察してさりげない気遣いをしてくれる月に、わたしは感激して、いつぶりかに涙を浮かべつつも声を上げて笑った。
「ね、そろそろ、話してみない?」
しばらくそういていると、涼音が優しく声をかけてきた。わたしの前にグラスを置く。ちょっと何してくれてんのよって月が涼音に囁いたのを聞く限りでは、このグラスの中身は本物のカクテル何だと知る。
何も話さずただひたすら泣きながら飲むなんて、さぞ迷惑な客だっただろう。それでも数時間ここにいさせてもらったおかげで、今なら落ち着いて話せそうだ。
「自分で言うのも気が引けるけど、わたしはこれまで並々ならぬ努力をしてきたと思う。変わる勇気を与えられるモデルやタレントになるために、誇れる自分であるために、日々自分磨きは怠らなかった。でも結局それも一人よがりで、わたしは自分のことしか考えてなかったんだろうなって思った。わたしが何も知らないで充実した日々を過ごしていたとき、辰哉は、ずっと苦しんでたんだよね。激務で、アルコール性肝硬変で余命宣告されるくらいにお酒を飲んでいたなんて。なのにわたしは、辰哉のことを放ったらかしにした。明らかに激ヤセしてて、見た目の変化に気づいてたのに。いつもいつもいつか仕事が落ち着いたらって後回しにしてさ。プロポーズだって、気持ちくらいいつでも伝えられるからって、辰哉のこと大好きだったのに2年も返事しなかった。昨日辰哉と喧嘩したの。わたしが何か辛いことないかって聞いても答えてくれなくて、強がる辰哉に腹が立って、そのまま別れて。」
涼音と月はただうつむいて話すわたしを見つめていた。時間が止まったみたいだ。
「帰りに事故にあって、辰哉は中2以降の記憶を全部失って。逆行性健忘症なんだって。しかもあと1年しか生きられないし。わたしはもう辰哉の中には存在しない人になっちゃったの。もう仲直りもできない。もうプロポーズの返事もできない。辰哉の苦しみを分かち合うこともできない。このまま辰哉と永遠のお別れをすることになるなんて、思いもしなかったよ。」
二人は表情を崩さない。一呼吸置こうとして、わたしは涼音がくれたカクテルを一気に飲み干した。空になったグラスは、辰哉との思い出を何もかも失った空っぽなわたしの心を反映しているみたいだ。そのままテーブルに突っ伏す。
「わたし、結局何がしたかったんだろう。もうわたしの生き方に自信もてないや。」
感情の無いかわいた声だった。言いたいことは言い尽くしたのか、わたしからそれ以上の言葉は出なかった。もはや客はわたしだけ。無音の空間にわたしの知らない洋楽だけが流れる。
「あんたさ、これから辰哉がしぬまで何もしない気なの?辰哉の記憶から消えたままでいいわけ?」
月が沈黙を破った。相変わらず容赦無い鋭くよく通る声で。
「え…。だってわたしは…」
そんなこと考えもしなかった。だってわたしは何も悪くない辰哉を地獄に落としてしまったのだから。もう合わせる顔なんて無いって言おうとする。
「呆れるわ。根本から自分の生き方を変えて、モデルのオーディションまで受けて、自分から変わろうと動き出したあんたが今更何身を引こうとしてんの。あんた身長155しか無いじゃない。モデルにしては低いけど、それは変えられないことだからその上でどう自分を変えていくかの方が大事だって、あんた言ってなかった?今回だってあんたが辰哉にしてきたことは変えられないとこは同じじゃない。いい加減いつものあんたに戻りなさいよ。」
月に続いて涼音が言う。
「不謹慎だけど、わたしはチャンスだと思うよ。彼氏さんは今アルコールに溺れるほど苦しんだ経験も、大好きだった紗季に相手にしてもらえない寂しさも何も覚えてないの。だったら、辛い思いさせた分だけ最期までにいい思い出作るのが、紗季に出来ることだと思うよ。」
わたしだって辰哉とこのまま別れたくない。あと1年しかないのなら、時間がある限り一緒にいたい。けど…
「どうやって辰哉に近づけばいいのかな。」
ふと前を見ると涼音が微笑みを浮かべている。
「あんたにとって1番大切だったものって、いったい何なの。」
空っぽなわたしの心を満たしてくれるような、涼音の優しい声。
「わたし今すぐ行かなくちゃ。ふたりとも今日は本当にありがとう!またね!」
わたしはそのままバーを去った。バーを出てすぐマネージャーさんのラインを開く。もうわたしの心は誰にも変えられないだろう。
「あいつ…お会計忘れやがった…。」
「さてと。月、紗季に出したわたしのジュースの分5000円今すぐ払いなさいよ~。」
「いやなんでわたしが。現金持ってないわ。てか涼音バーの店長のくせにカクテル飲めないのやばくない?」
わたしがバーでお会計をすっぽかしたのに気づいたのは1時間後だったが、涼音がチャラにしてくれた。やっぱり二人はどこまででも頼もしい、わたしの友人だった。