はるののはら
ほっ。
というような音がして、いきなり広い青い空間が目の前に広がった。
眩しい。
果てもない、底もない、ただまるく静かに広がる空間がそこにあった。
白いふかふかふわふわしたものが頭上をいくつも流れていて、そのはざまに正視できないぐらいの光のかたまりが、出たり入ったりしている。
わたし、知っている。あれは、おひさま。
自分はいま、起きたのか。
目を開いたのか。
それとも、いま、生まれたのか。
ふと横に目をやると、白いポンポンした頭を揺らして、同じような顔をした花々が、緑の葉っぱをそよがせている。
風がざざざざ、と地面を伝わってきて、小さな花々はふわふわと頭をぶつけあった。
そして、こちらのほうを見た。
「あら、起きたのね」
「こんにちは、新入りさん。お天気のいい日でよかったわね」
白いポンポンした花々が語りかけてきた。
「こん、にちは」
咲いたばかりのシロツメクサは遠慮深くあいさつした。
見渡すと、まわりじゅう、同じ花だらけだ。そして、ちょっと離れたところに、水色とピンクの服を着た、三つ編みの人間の子供が二人、座って俯いて熱心に何かやっている。
おひさま。
風。
青空。花。
ニンゲン。野原。
わたし、うまれたばかりなのに、いろんなことを知っている?
「あなたたちは、わたしのおともだち? それとも、家族?」
おずおずと、シロツメクサは隣の花に聞いてみた。
「いってみれば、仲間ね。あなたはわたし、わたしはあなた。わたしたちの知ってることは、あなたももう知ってる。生まれて死んでまた生まれて、それは仲間みんなに引き継がれていくのよ。わたしたちひとつひとつに、区別はないの」
「でも、わたしはわたしだわ。今生まれて、あなたとこうしてお話ししてる」
そう言ったあと、
「あっ」
咲いたばかりのシロツメクサに、痛みのような衝撃のようなものが走った。
「おかしいわ。誰もわたしを踏んでないのに。わたし、何かされてる?」
「あそこの子たちがね、わたしたちの仲間を摘んでいるのよ。そして、花冠を作ってる」
花はそっと言った。
子どもたちの方を見ると、二人は、摘んだ花を並べてねじって結んで、輪っかのようなものを作っている。
「いたっ。怖いわ。わたしも抜かれるのかしら」
少女二人が座っているあたりからは、「あっ」「きゃっ」というような、小さな悲鳴が次々に聞こえてくる。
「もうじきに花冠は出来上がるから、ここまでは来ないでしょう」花は答えた。
二人は、出来上がった花冠をそれぞれ、頭に載せた。三つ編みの頭に、可愛らしい顔に、それはとても似あっていた。
「あのふたり、いつもむくむくした耳の垂れた犬の散歩に毎日ここに来てたのよ。でも、ここ数日犬は見かけないわね。いつも私たちの上で寝ころんで、転げ回って遊んでいたのに」
二人の少女は立ちあがった。
「冠のほかに、お花も摘んでいこうか」
「ここらへんのはだいたいとりつくしちゃったけど、あそこらへんに元気なのが咲いてるよ、お姉ちゃん」
ピンクの服を着た子が、こちらにかけてきた。
花々の間に、緊張が走った。
来るわ! こっちに来る!
水色のワンピースを着た、少し背の高い女の子がいった。
「こっちのは、お水に活けるから、ていねいに摘もうね」
そして、まわりの花をむしり始めた。
あっ。きゃっ。花々の痛みと驚きが、シロツメクサに伝わってきた。と思うと、ピンクの服を着た少女の小さな指が、シロツメクサを掴んだ。
「根元近くから、ていねいに取ってね」
水色の服の子が言った、と思ったとたん、ぶつっ、と地面とのつながりが絶たれて、全身に衝撃が走った。
いま、シロツメクサは少女の手の中にあった。
からだが。今咲いたばかりなのに、からだが。
土は? お水は? 仲間たちは?
上から下を見ると、のこされた花々が、さわさわさわさわと怯えたように風に揺れていた。
「このくらいでいっか。もう、おうちに帰ろう」
ピンクの服の小さい子は、姉に言われて、うなずいた。そして二人とも、花冠を頭に乗せ、手にシロツメクサの小さな花束をもって、駆け出した。
ああ、せっかく、さっき生まれたのに。
足の根元がひりひりする。いきが、できない。
さようなら、いろいろおしえてくれたわたしの仲間、わたしの草原。
少女の手の中に握られたまま、シロツメクサは住宅街を通り、姉妹の家に連れていかれた。
玄関ドアを開けると、かすかに犬の匂いがした。でも、鳴き声は聞こえない。
わたし、知ってる。自分たちの体の上を小さな犬が転げまわる感覚。ふんふんと臭いをかぎに来た黒い鼻。これは、あの野原の、仲間たちの記憶?
「なにに入れようか」と、靴を脱ぎながら姉が言う。
「小さすぎて花瓶は無理だよね。じゃあ、ママが最近買ってきたコップでいいんじゃない」と、妹。
「あれ、高いお酒を飲むときの特別なグラスって言ってたよ。切子とかいうの。ああこれ。きれいだね。借りようか」
「お水は水道のお水でいいの?」
「メダカだって、いきなり水道のお水はダメだってママが言ってた。栄養のある、自然の水がいいよね。じゃあ、さっき餌をやったばかりだし、栄養あるし、メダカの水槽の水でいいんじゃない」
姉は日当たりのいい居間の、窓辺の水槽に切子のコップを浸した。水草のかけらと、それに紛れてメダカが一匹、入り込んだ。二人ともそれに気づいていない。
水に束でつけられたシロツメクサは、しんなりと根元が水に浸かると、ああ、飲める、息ができると思った。今まで息がつまりそうだったのだ。足元をこそこそと泳ぎ回るメダカがくすぐったかった。
まわりのシロツメクサたちは、ああ、とかふう、とかため息をついている。
ココ、ドコ? ミンナハ? デグチドコ? モトニモドリタイ。
メダカが小さな声で呼びながらうろたえている。
「こんなとこはいりたくなかったわよね。わたしもよ。もう、出られないね」
シロツメクサは話しかけたが返事はなかった。ああ、魚臭い水。もっとおいしいお水が飲みたい。
「わたし、知ってるよ。お花を持たせるコツはね、氷と、お砂糖を入れることなんだって」姉がそんなことを言いだした。
「ほんと? 氷なら製氷室にあるね。それと、お客用のグラニュー糖入れは、ここ」
背の低い妹が足台を引っ張ってきて、砂糖入れを戸棚から取り出し、姉が氷を取り出して皿に乗せた。
「これで長持ちするよ」
シロツメクサとメダカの入った切子のコップに、氷と砂糖がどぽんどぽんと入れられた。水の温度が一気に下がる。シロツメクサは震えあがった。足元で、メダカは氷に挟まれていた。
サムイ。ツメタイ。……ミンナ、ドコ? ココツメタイ。サムイ。ミンナ。ミンナ……ツメタイ……
「メダカさん!」
それきり氷の間で固まって、メダカは何も言わなくなった。固まったまま、コップの底に落ちていった。
姉はコップをもって、居間のピアノの椅子によじ登ると、ピアノの上にコップを置いた。隣には、ムク犬のかわいい写真が飾ってあった。
くるくる巻き毛に、垂れた耳、黒いつぶらな目。
姉妹はそれぞれ頭の花輪を取ると、写真に斜めにかけた。
「トト、お前の大好きだったシロツメクサ、たくさんとってきたよ」
「そこから見える?」
「もっとたくさん、いっしょに、おさんぽしたかったね」
姉は写真を見ながら、涙ぐんでいるようだった。
がちゃん、と玄関のドアが開く音がして、「ああ疲れた」と大人の女の人の声がした。
「二人とも、何してるの。ああ、トトの写真の前にお花を飾ってたのね」
居間に入ってきた母親らしき女性は、花束を抱えていた、そして花の活けられたコップを見ると、悲鳴のような声を上げた。
「なあに、これ! わたしの大事なグラスじゃない。こんなことに使って。水も汚いし、ああ、中でメダカが死んでるわ。あんたたち、水槽の水入れたの?」
「メダカなんて気が付かなかったもん」と不満そうに、姉。
「シロツメクサなら、捨てようと思ってた古いこっちのコップで十分でしょ。それより、トトのお供えに綺麗なお花買ってきたのよ、ほら」
母親は花束を傾けて見せた。わあキレイ、と二人は同時に声を上げた。
白や紫、赤ピンク、あでやかな色の大きな花々が、薄紙に包まれて揺れている。
「それにしてもなんで切子のグラスに氷が入ってるの」
「お花が長持ちするって聞いたから」二人は答えた。
「それなら別の方法があるのよ。花の根元を火で焼くの。そうすると、水揚げがよくなるのよ。それに、花を長持ちさせる液体の薬ももらったし」
花束の花々は、急にざわざわし始めた。いま、なんていったの? わたしたちをどうするの?
母親は水道の水を出し、その水の流れの中ではさみで根を切ると、ガス台の火をつけ、花束の根元をその上にかざした。
きゃあ、あついあつい、あああ、いやああ、という色とりどりの悲鳴が台所から響いてくるのを、シロツメクサは震えながら聞いていた。
「さあ、これでよし」
水色の流れるような模様が描かれたガラスの花瓶に、さっきまで悲鳴を上げていた花々がふっさりと上手にいけられて、母親の手にあった。
花々は、目をぽっかり空けたまま、放心したように、首を揺らしている。
でも、しおれていない。焼け焦げてもいない。見たところ、元気そうだ。
「さあ、たくさん水を吸うのよ」母親は、写真の裏側に花瓶をおいた。
そのとき。
写真の隣に置かれたコップの中で、シロツメクサは、不思議な影を見た。
それは写真立てからすうっと立ち上がるようにして、白っぽい透けた犬の形をしていた。
それが、コップに鼻を付けて、クンクンと臭いをかいでいる。
顔を押し付けている。
シロツメクサの頭にも鼻をつけて、ぺろりとひとなめした。
……わたし、あなたを、知っている。
これは、仲間の記憶。
わたしたちのことがだいすきだったわね。いつもかけまわって、ころげ回って遊んだわね。
トト。
こんにちは。
でも、さようなら、が近いかもしれない。わたしもう、下しか向けないみたい。首が、垂れてきちゃったの。
「しっかり!」
「頑張るのよ。ママさんが、水も入れ替えてくれたわ」
まわりの仲間たちの声が遠くに聞こえる。
がんばるって、どうやるの。
わたしは今朝生まれて、今ここにいて、自分で自分をどうすることもできない。
頭が、垂れていく。もう、持ち上げられない……
その日の夕方。
ピアノの上のコップを見て、妹が母親に言った。
「あれえ、がんばってたのになあ。シロツメクサ、みんな、下を向いちゃった」
母親は答えて言った。
「そういう雑草は水揚げが悪いのよ、茎も短すぎるしね。もうみんな枯れてるんだから、捨てちゃいなさい」
「はあい」
小さな手がコップを持ち上げ、ゴミ箱に、小さな白い頭の花たちをパサリパサリと落とした。
狭いゴミ箱の、もう何も語らなくなった仲間たちの中で、シロツメクサは切れ切れに思いだしていた。
野原でみんなに言われたことを。
(あなたはわたし、わたしはあなた。
わたしたちの知ってることは、あなたももう知ってる。生まれて死んでまた生まれて、それは仲間みんなに引き継がれていくのよ。わたしたちひとつひとつに、区別はないの)
……なら、そのうち、あなたたちと一緒にいつかまたのはらで咲けるわね。
おしゃべりもできるわね。
ありがとう、トト。あなたの鼻息、暖かかった。
会えて、キスしてくれて、うれしかった。
あなたも、いつか、うまれかわる?
きっとそうね。あの広い青い空で、この世界もあの世界も、どこかで、つながっているわね。
トト。
はるののはらで、また、会いましょう……




