忘却
シリアスです。
萌え要素が出る予定は皆無です。
カラン……
パラ……パラ……
どこかで、何かが崩れる音が聞こえた。
小さな、それはとても小さな音。
だけど、随分と聞き慣れた、いや、聞き慣れてしまった音だ。
それは落ちくぼんだ奈落のような穴から空を見上げていた。
砂埃混ざりの風にちらほらと舞う雪。
時折思い出したみたいに空を輝かせる音の聞こえない雷。
曇天が支配する世界を、この動かぬ四肢で一体どれほど見続けただろうか。
飽きるほど、呆れるほど、脳が乾き腐り落ちるほどに見続けた。
どんなに荒れ果てた空を見ても、思考はとうに凪いだまま。
それ《・・》の感情は、確かに死に枯れていた。
その時だった。
視界を眩いばかりの光が覆い尽くし、ドンッという一際巨大な音がとぐろを巻いた耳穴を伝い全身を震わせた。
何が起きたのだろう?
それは衝撃に身体を吹き飛ばされながら、もつれるように辺りを見渡した。
辺りを見渡す?
その事実に、それはとうに枯れ果てたと思っていた衝撃を覚えた。
いま、何かが自分を突き動かしたのだ。
それは、あるいはただの奇跡であり、あるいは神の気まぐれであり、恐らくは悪魔の戯れであったのかも知れない。
でも、それは確かに今を噛みしめた。
いったい何時ぶりだろうか、見飽きた空以外を見ることが出来たのは。
何よりもその事実こそが、それには途方もなく嬉しかった。
「あ゛あ゛あ゛」
何時ぶり以来だろうか、それが声を出したのは。
かつては泣き叫んだ記憶がある。
かつては慈悲を求めたことがある。
かつてそれは、確かに声を出していたのだ。
だが、ビルが崩れ落ち、ガレキに挟まれたあの日から、
空を炎の赤が覆い尽くしたあの日から、
大地から声が消えたあの日から――
それは何かに助けを求めるのを諦めた。
いや、声を出す。そんな当たり前の事さえも諦めてしまったのだ。
もう、どれほどの時をここで過ごしただろう?
そんな感覚もとっくに忘れてしまった。
忘れる、諦める、望まない、それだけがそれの唯一の救いだったから。
声を出せば何かを望んでしまう、
助けを、救いを……
だが、全ては無駄だった。
だからそれは、繋がれた深い牢の底でただ枯れ果てる事を望んだ。
だが、全てを諦めたそれに奇跡は起きた。
何が起きたのか確証は無い。
自分を拘束したガレキが跡形も無く吹き飛び、辺りからブスブスと煙が上がっているところ見ると特大の雷でも落ちたか。
真実は何一つ分からない。
分からないが、確かに奇跡は起きたのだ。
自分を突き動かす確かな衝動。
その衝動に突き動かされるまま、自由になった四肢を動かした。
長い永い拷問のような拘束で立ち上がることさえままならずふらつく。
頭が、やけに重い。
それはよたよたとふらつきながら、ヒビ割れた壁から剥き出しになった錆びた異形棒鋼を力任せに引きずり出す。
ボロボロのコンクリートが張り付きいびつに歪んだ異形棒鋼。武器として振り回すには心許ないが、杖代わりにするには十分だ。
骨と皮だらけの身体、久しぶりに動かした関節はボキボキと鳴りギクシャクする。
「あ゛……」
それが小さく呻いた。
落ちくぼんだ瞳が写す歪み乾いた世界。
そこは自分が見慣れたはずの場所だった。
焼け焦げ文字のかすれた看板に残る『珈琲工房 美―』の文字。
『ゴー……ポーン……ちゅんちゅん……』
遠くぼやけた記憶が脳裏をかすめた。
ただ、ただ……懐かしい記憶。
わずかに思い出した記憶が枯れた感情を揺さぶる。
それは『ああ、そうだ』とばかりに頷いた。
自分は休みの日にはこの地下街のお気に入りの店で珈琲を飲んでいた。スピーカーから流れるよくも知らないジャズの音色を聞きながら、大学の馬鹿友と知ったかぶりをしながら酔いしれた。
少し遅めの朝食で食べるスクエアピザが旨かった。
記憶を思い出すと、感情は数珠繋ぎで溢れ出した。
町はどうなった?
自分はここに居る。
家族は、友達は……
それは溢れ出した感情のままによたよたと走り出した。
あの日、忘れたモノを、
あの日、無くしたモノを、
あの日、奪われたモノを、
ただ取り戻すために。