④ 文豪たちのほんとうの議題
『名作の部屋』の外に出てみて、わたしはたちはえっと声をあげてしまった。
そこにあるはずの、いっぱいの本棚がない。
『名作の部屋』自体は内側を紫のカーテンで覆われた、鉛筆型のガラスの空間として、相変わらずそこに立っているんだけど。
その外は満点の星空の宇宙の中に浮いてる、とても広い庭園だった。
『名作の部屋』のほかにも、そこここに不思議な形のガラスでできた空間がある。
足元がまぶしい感じがして、見てみると、透明に光る百合やすずらん、ききょうが咲いていた。
「あれ」
わたしはあることに気が付いた。
光が漏れているのはすずらんの白く透き通った花びらの中からだった。
薄紫の光が辺りを照らしてるんだ。
かがみこんでよく見てみると、白い花びらに包まれた光の正体は、四角いとても小さな――本みたいだった。
よく見ると、えんじ色の表紙に茶色の背表紙がちゃんとついてる。
ももちゃんがうへっと声を出した。
「すごいきれい。でもこんなちっさい本、読むどころか、ページをめくることすら一苦労じゃん。これじゃもはやブローチだね」
ページをめくるとき指を置く表紙の左端――日記帳なら、鍵がついてる部分ね――に、星形のボタンのようなものがついてる。
紫の光はそこから強く出てたんだ。
かわいくて、すごくきれいだけど、これ、なんなんだろう?
ケストナーさんが、わたしたちの心の声を読んだかのように答えた。
「それは、ブーフシュテルン。本の星屑さ」
本の星屑。
素敵な響き、とわたしたちは顔を見合わせた。
「優れた文学がこの世に誕生すると、夜空に星が一つ生まれる。
物語の命をつかさどるものさ。
古代からブーフシュテルンは宇宙にたくさん降り積もってきた。
作家が亡くなっても、本を介して星屑は人々の心を照らし続ける。
その光があるときいっぱいになって、ここ星降る書店に、ブーフシュテルンがたくさんつまった宇宙の一角がつながったようなんだ。
ここを僕らはドイツ語で物語の庭『メルヒェンガルテン』と呼んでいる。
この一角は、文学の星屑たちでできている。
地球上の常識ではなく、本の世界の常道で成り立っているんだ。
だから星屑の光の力をもってすれば、もう死んでいる僕らのような作家たちでもこうして伝記から抜け出して存在し、生きている君たちと話をすることができる。
一冊の本が著者の死後も生きた言葉を人々に語りかけ、その心を照らすようにね」
「そんなことって」
ももちゃんは信じられないというように口を開いた。
「……わかる気がする」
わたしはゆっくりと頷いた。
「本には魔法に近い力があるんだよ」
「マジ?」
わたしは頷いた。
「だってそうでしょ。本の文章は実際にはない場所を描き出すし、本を開けば、もう今はいない人たちとお話だってできるんだよ」
「う~ん、そう言われると」
上からかすかな汽笛の音がしてももちゃんの言葉を遮った。顔を上げてみてみると水色に澄み渡った鉄道のようなものが夜空の右から左へ横切って行った。
これって……。
わたしが次に目を止めたのは、すぐそこにあった看板だった。
隣にあるひときわ大きなゆりの花びらの中からやっぱり淡いオレンジンのブーフシュテルンが看板を照らしている。
そこにはこう書いてあった。
十二月の庭園のテーマ 銀河鉄道の夜
久しぶりに、アジアの小国日本の作品世界を取り入れてみました。
本の星と、光の粒と、いっぱいの切なさに溢れた美しい夜をお楽しみください。
庭園の管理人、またの名をみどりの指の庭師
今空を横切った鉄道には、あのお話に出てくる二人の男の子、ジョバンニとカンパネルラが乗ってるのかな。
「わたしたちも、あんな鉄道で旅したいよね」
どこまでも。
いつもいるところじゃない、銀河へ。
ケストナーおじさんは、きっと行けるだろう、って言ってくれた。
想像力の翼をもった君たちなら、どこへでもって。
「夢。やっぱり……」
「ももちゃん? なにか言った?」
「なんでもない」
ももちゃんがあわてて打ち消した言葉も気にならなかった。
それくらい、わたしは本の光が溢れるこの空間に見とれていたんだ。
見とれながら、庭園の端まで歩いて行く。
「夢。待ってよ」
ももちゃんが言うけど、浮かんでる庭園の奥の景色が気になって仕方なかったんだ。
その先は崖になっていて、下に透き通った青紫の海が揺れていた。星屑が浮かんでいて、とってもきれい。
「ケストナーおじさん、あれなに……?」
その底に、沈んでいる船があったの。
びっくりしたのは、そこに乗っているものぜんぶがすっごくきれいでロマンチックだったこと。
宝箱の中の宝石、おしゃれな羅針盤、きれいな色の砂が入った砂時計。
でもどれも壊れたり、ばらばらになったりして海に沈んでる。
「あれは、ブーフシュテルンがかつて照らしていた夢の船だよ」
「夢の船?」
「本に感動する心が創り出した夢は、ブーフシュテルンも応援して照らすんだ。しかしその夢が難破すると、メルヒェンガルテンに流れ着く」
「じゃ、あれは、叶わなかった、誰かの夢なの?」
ももちゃんの問いかけに、ケストナーおじさんは深刻な顔で頷いた。
「あの船は十年前ここに流れ着いた。ほんとうならこの辺りの住人が片付けるんだけど、あれは特に美しくて、惜しい夢だから、このままにしておこうってことになったんだ」
船にたくさん積まれた宝物が寂しげに、虹色の光を投げかけていた。
それがあんまりきれいで、わたしは心配になった。
この夢の持ち主だった人は、自分の心のきれいなところをごっそり、海に投げ捨てちゃったんじゃないかな。
「あの船、もとの持ち主のところに帰りたがってる気がする」
助けてって、光りながら言ってる気がするんだ。
「僕もできれば帰してやりたい。でも、難破した船が持ち主の元へ帰ることは少ない。それにあの船が誰のものなのか、確かめる術すらないんだ」
「そんなの、悲しい」
ももちゃんがぽつりと呟く。
「一緒に、祈ろう」
あたし達はケストナーおじさんに頷いて、目を閉じた。
あの船が無事、持ち主のところへ帰れますように……!
船の中の宝物が、星屑に反射して、お礼を言ってくれてるように、きらきら悲しく光った。
~もも叶の語り~
ケストナー先生がそろそろ会議の時間だからと、星降る本屋でいう、『名作の部屋』にあたる場所――ガラスでできた鉛筆型の会議室に戻ってしまうと、あたしは夢に耳打ちした。
「文豪たちの会議、聞いちゃわない?」
「えっ」
それまで周りの景色に見惚れていた夢は、あたしのほうを見て驚く。
「だめだよそんな。盗み聞きなんて」
「有名な児童文学作家の話し合いだよ? 気になるじゃん。決めた。夢がこないならあたし一人で行く」
そう宣言してあたしは鉛筆型会議室『名作の部屋』へと足を向けた。
「あぁ、ももちゃんってば。もう~、知らないよ」
夢の声が追いかけて来るけど、気にしない。
地獄耳には自信があるんだ。えへ。
あたしが悪いんじゃない。
悪いのはモンゴメリさんだ。
「それで、今日の会議の本題は?」
「わかった。観念して話すよ」
それからケストナー先生も。
「困ったことになったんだ」
オレンジの扉を少しだけ開けて、カーテンの隙間からのぞくと、二人はさっきまであたしと夢が座っていた席についていた。六角形の対角線上に、向かい合って。
ケストナー先生が困ったように両手を広げて話し始める。
「近頃、ブーフシュテルンの力が満ちてきて、本の中の登場人物達がいささか元気がよすぎてね。とある作中のわんぱく坊やたちが、お話の中に飽き足らず、この時代の身勝手な大人をやっつけるとか言って計画を始めてしまって。現に現代日本の一人にターゲットを決めて、いたずらなんてしているらしいんだ」
ほらね。こんなおもしろそうな話、子どものいないところでするから悪い。
モンゴメリさんが呆れたように、
「そのわんぱく坊やたちを生み出したのはどこのどなたか、おわかりなのかしら」
「いやぁモンゴメリ嬢、勘弁しておくれよ。わかっているからこそ、僕は今こうして策を講じているわけだからね」
なるほど、とあたしは納得する。
ケストナー作品の登場人物たちが、現実世界でおもしろいことをしているようだ。
どの作品の登場人物だろう。
わんぱくって言えばなんとなく、想像はつく。
「あなたという人は、どこまでも楽観的で困るのよ」
「面目ない。悲しむのは性に合わなくてね。そういえば君のお好みは、悲劇のヒロインを大袈裟に演じてしまう赤毛の女の子だったかな?」
くすり、と思わず笑ってしまう。
赤毛のアンのことを言っているんだと思う。事件を起こした時、コンプレックスに想いを馳せる時、すっかりマイ・ワールドに入ってしまうアンの大袈裟な台詞がなんだかおもしろくて、アンは悲しんでいるのに笑いながら読んじゃったっけ。
そうこうしているうちにケストナー先生がさて、話を戻そうと微笑む。
「えぇと、どこまで話したっけ」
モンゴメリさんが落ち着き払って答える。
「あなたのわんぱく坊やたちがなにかをしでかしてくれそうというところまで」
「そうそう。そこで僕はぜひとも」
作者として責任をとってとめるんだろう。
「この偉大なる計画を成功させたいんだ」
がくっ。
「ケストナー!」
モンゴメリー嬢は眼鏡の奥からきつく睨む。
いやぁ困った困ったと、ケストナー先生は笑った。
「こんなおもしろいことをされてしまっては、仮にも一時代の児童文学界の代表者としては、中途半端に終わらせるわけにはいかないじゃないか」
あぁ、冒険者の血か疼く。
ケストナー先生じゃないけど、もうがまんできないっ!
あたしはカーテンを翻し、二人の前に躍り出た。
「あたしも協力します、ケストナー先生!」
「あぁ、驚いたわ」
胸を押さえるモンゴメリさんの向かいで、ケストナー先生はちっともびっくりしていない。言葉ばかり、おやいたのかいとか言っている。
「先生の著書の『五月三十五日』にあるような、子どもが大人を教育する国を、現代日本にも作るんですね」
「そういうこと。さすがは現代のルイーゼちゃんだ。呑み込みが早いね」
当たり前だ。
大人が必ずしも立派な存在じゃないってことくらい知っている。
身近に、ひどい大人を知っている――。
あたしは気付いてたんだ。
いつの間にかホワイトボードに書いてある文字が変わっていたことに。
議題:少女がほんとうに困っていることについて
「で、でも、それってその、大人の人を困らせるってことだよね。子どものわたしたちがそんなことしていいのかな」
盗み聞きの内容を喋ると、夢は予測通りの反応をした。
全く、夢は大人に遠慮しすぎる。
あのあと、それじゃぁその作戦は次回の会議の議題ということで、と言ってケストナー先生はモンゴメリさんと一緒に光になって消えてしまった。
気が付くと、あたしは名作の部屋の外のYAの棚の前でぼうっとしていた夢を見つけたってわけ。
あたしたちはモンゴメリさんとの約束の時間まで駅前通りのアクセショップや子ども服屋さんをぶらぶらすることにした。どれもかわいいけど、小学生のお小遣いで買えるかは別問題。今いるのはファンシーな雑貨屋さん。パリやロンドンの街を旅するくまちゃんがラブリーに描かれた手鏡がたくさん置かれている棚の前で立ち話だ。裏の値札を見たら六百円。うーん、来月お小遣いもらったら買おうかな。
まだ一時間、余裕がある。
「うう。七時にまた星降る書店に行くのかぁ。星崎さんにしつこい子って思われないかな」
しょぼんとする夢にあたしは呆れる。
「あのねぇ。まだ星崎さんは、夢の気持ちを知らないんでしょ?」
「そうだけど……」
「やれやれ」
あたしはアメリカ人みたく肩を広げて両掌を宙に向けてみせた。
「出会って一年経つんなら、普通だったらとっくに行動起こしてるよねぇ」
「う」
「モンゴメリさんだって、自分で努力してない子に力を貸してくれるかなぁ」
「え」
夢はおもしろいように青くなって、あわてて手を振る。
「わ、わたしだってなんにもしてないわけじゃないよ」
お、そうなんだ? あたしは聴きながら、手鏡の一つを手に取る。エッフェル塔のてっぺんに立ってバランスをとるくまちゃん。このデザインがいちばんかわいいなぁ。
「星崎さんに、お願いしたの。観たい映画があるって」
「え? それって」
あたしは、手鏡を放り出した。
「デート?」
ぎゅっと目をつぶって夢は頷いた。その背中をどんっと叩く。
「なぁんだ、やるじゃん」
「で、でもね。観たい映画なんてほんとはそんなのなくて」
そんなのよしよし。どうとでもごまかせるって。
「水曜日は映画館半額だから行きたいんだけど、お母さんはお仕事で行けないし、うちお父さんはいないからって言ったら、星崎さん、『それじゃ一緒に行こうか』って。お父さんたちのこと、使わせてもらっちゃった……だめだったかな」
あたしは首が取れるかと思うくらいぶんぶん横に振った。
「そんなの。じゃんじゃん使いなよ。だめな親もだめなりに役立ってもらわなきゃ」
「……」
「あ……」
夢の悲しそうな目を見て、あたしは我に返った。
「ごめん、夢。傷つけるつもりはなかったの。あたし、夢につらい想いしてほしくなくて、それで、夢のお父さんたちについ怒っちゃうっていうか。ほんと、ごめん」
夢はすぐに笑った。
「わかってる。ありがとね、ももちゃん」
夢はそれだけ言って話題を戻した。
「それでね、実は、わたし、水曜日は、星崎さんがお休みの日ってことも知ってたんだ。むしろ、だから映画館にしようって思いついたくらいで」
あたしはうーんと唸ってしまった。
ぼうっとしているようで、夢は意外と計画的なところがある。
予定を立てて物事を進めるのがうまいから、勉強の成績も結構いいんだ。でもそのせいで、あたしまでママに、夢ちゃんを見倣いなさいってお小言を食らうのだけは勘弁してほしいけど。
「夢、うまくいくといいね」
はにかんで頷く親友の笑顔が、並んでいる手鏡のひとつに映って光った。
次回はいよいよ恋と魔法のカフェの登場です。