⑪ 文学は役に立たない?
星降る書店から家に帰った夢未を悲劇が襲います。
わたしのアパートは、星降る書店から三十分くらい歩いたところにあるんだ。
家に帰るのはあんまり好きじゃない。
お母さんはだいたいお仕事だし、がらんとした畳の部屋に一人でいるとなんだか悲しくなってくるんだ。
でも今日は、星崎さんからもらったあの本がある。
わたしはアパートの部屋の扉を開けようとした――。
「相変わらずだな。お前は。そんななんの役にも立たないことをしてるのか」
びくりと身体が震えて、動けなくなる。
この声は……お父さんだ。
まただ。
お父さんが、ここにきたんだ……。
「ごめんなさい」
今度はお母さんの声。
お母さんがしているのは、役に立たないことなんかじゃない。
外のお仕事から帰って来たあとも、家でできるお仕事をしてるの。最近ではでバラの造花をずっと作っていた。
「こんなガラクタ作って。役立たずが」
吐き捨てるようなお父さんの言い方を聞いて、胸が苦しくなる。
ドキドキして、動けない。
いつも、こうなんだ。
「それでは、あなたのお仕事は、そんなに人の役に立っているの?」
お母さんが、言い返した。
こんなこと、今までなかったのに。
「文学なんて、よくわからない仕事を始めて、好きにやっているくせに、少し気に入らないことがあるとそうやって当り散らして」
わたしは両耳を塞いでしゃがみ込んだ。
お母さんの言葉も、聞きたくなかった。
きっとお父さんは、お母さんにものすごく怒るだろうと思った。
でも、次にお父さんが言ったのは一言だった。
「そうだ」
そして、加速がついたように一気に喋った。
「お前の言うとおりだ。オレのやっている文学がいちばんくだらない。なんの役にも立ちはしない。そうだ。オレはくだらない!」
お父さんはそう叫ぶと、テーブルを力任せに殴った。
その音もとても怖かったけど、わたしにはそのすぐあと、部屋の奥で小さくぱたんとした音にもっともっと震えあがった。
お父さんはその音がしたほう――小さな白い本棚に目を止めた。
空っぽの棚の中に一冊だけある、今倒れたその本は、星崎さんからもらった『南海千一夜物語』。
お父さんはその本に近づくと、それを手にとって、力任せに引き裂こうとした。
頭が真っ白になった。
わたしはとっさに、首にかかっている青い小瓶のフタを開けて、中身を一口、飲んだ。
すると、魔法にかかったように身体が動いていた。
「お父さん、やめて!」
生まれて初めて、そう言えたことにも、気付かなかった。
「お願い。壊さないで。わたしの本――」
「うるさい!」
身体が宙を飛んで、頭に鈍い衝撃が走る。
「お前の頭もくだらないこんなものでいっぱいなのか。たたき直してやる」
お父さんが、近づいてくる――。
そのあとのことは、今思い出そうとしても、もやがかかったみたいで、あんまりよく思いだせない。
ただ、お父さんの目の奥に火みたいな先のとがった赤い形が見えたのを、すごく覚えてる。
お母さんが心が抜けちゃったみたいに、ぼうっとこっちを見ていた。
右のほっぺがじんじんして、両足の感覚はほとんどない。
でも、わたしは多分歩いてたんだと思う。
わけもわからないまま、気が付いたら、駅前通りまできてた。
クレープ屋さんの前を通りがかると、クラスの女の子たちが楽しそうに笑いながらクレープを食べていた。その隣には、小さな女の子と、その子のお父さんとお母さんがいて笑ってる。
感覚がなかった体のあちこちが急に痛く感じる。
あれ。クラスの女の子たちのうち二人の子が、つかみ合ってる。
ぼんやりして見えない。あれは白石さんと。
「やだやだっ。また本野さんのところに行くの? 今日はあたしとピアノのコンサート行くんでしょ。すごく楽しみにしてたのに」
「みり。夢を見て。ほっぺが腫れてて足も引きずってる。早くどうにかしなくちゃ」
……ももちゃん?
「ねぇもも叶、ほっときなよ。前から思ってたの。本野さんってちょっと変わってるし、なんか怖い」
白石さんが言うのが聞こえる。
そうだよ。ももちゃん。
わたしなんてほっといて……。
それなのにももちゃんは、白石さんの腕をふりほどいたんだ。
「今そんなこと言ってるときじゃないし。離してっ」
こっちに走って来てくれる。
「夢!」
「ももちゃん……」
クレープもほっぽりだしたももちゃんは、クリームでいっぱいの顔もそのままに、早口で言った。
「どうしたの、傷だらけじゃん」
わたしの耳元に顔を近づけて、周りの子達には聞こえない小さな声で訊いてくれる。
「お父さんにやられたの? そうなの?」
ぼーっとする頭でわたしは答える。
「あんまよく覚えてなくて。長かったけど、なんか、今思いだすと全部一瞬だった気がする」
答えになってないようなってぼんやり思ったけど、ももちゃんはわかってくれたみたい。
急に体中があったかくなった。
ももちゃんが、抱きしめてくれているんだ。
「覚えてるのはね、最後の方で『お父さんに謝りなさい』って、お母さんが言ったこと」
「……うん?」
「わたし、お父さんに謝ることにする。
そしたらまた一緒に暮らそうって言ってくれると思う」
ぱっとももちゃんは腕を離した。
「なんで夢が謝るの? おかしいのはお父さんじゃん」
あれ。
ももちゃん、怒ってる。
なんで……?
だめだ。考えようとするけど頭が動かない。
「ねぇ、夢。そうじゃないでしょ。『今度からは絶対に殴るのはやめて』でしょ」
「だって、そんなこと言ったら」
「また殴られるの?」
「わかんない。でも、絶対、お父さんに嫌われる」
ももちゃんはしばらく黙った。そして。
「そうやっていつまでもびくびくしてれば」
ぞっとするほど冷たい声だった。
「夢は大事なことがわかってない。夢は自分のこと守らなきゃならないの。夢みたいに親に大事にされてない子は余計そうなの。じゃないとほんとうに夢のこと大切にしてる人がいやな想いをするんだよ」
わたしは、ももちゃんの側をすり抜けた。
「ももちゃんには、わかんないよ……」
ももちゃんはまだ厳しい声で言う。
「わかんないってなにが?」
「ももちゃんは明るくてかわいくて、お話が上手。クラスのみんなも、ももちゃんが好きで。
でもわたしは違う。
みんなとなに話したらいいかわかんないし、誰かに好きになってもらえる理由なんてなんにもない。
こういうわたしだからお父さんもお母さんも嫌いになったの。
でもわたし、またお父さんとお母さんと暮らしたい。
なんで今それがぜんぜんできなくなっちゃったの。もうだめなんて思いたくない。思いたくないよ」
「夢……」
ももちゃんがふいに顔を上げた。
白石さんが遠くから、呼んでる。
「もも叶、もう行くよーっ」
それでも、ももちゃんは動かなかった。
こっちをじっと見て何も言わない。
その顔を見られなくてわたしは泣いたまま走り出した。
次回。夢未とけんかして落ち込んだももちゃんのもとに現れたのは?




