おうちに帰りたい 2
どのくらい、そこでそうしていただろう。
じっと座っているあいだに半分うとうとしかけていたら、クロの背後で声が上がった。
「ニャーニャー鳴く声がすると思って来てみたら、お前か!」
ぱちりと目を開き、首だけひねって振り向くと、トリ族の青年が仲良く三人、肩を並べて立っている。
そのうちの一人がクロを指差し、ぷるぷる震えていた。
クロに指を向けていたのは、クロがトリ族の里に忍び込んだ晩、真っ先に駆けつけ、クロを取り押さえるはずが、逆にあっさり昏倒させられたあの青年である。
クロは座ったまま、首を傾げた。
青年はクロのことをはっきり覚えていたが、クロは覚えていなかった。
青年の態度から察するに、どこかで会ったらしいが、まったく、全然、微塵も思い出せない。
「どこかで会ったっけ?」
クロが尋ねると、青年が声を荒げた。
「覚えてないのか!? お前のせいで、こっちは大変だったんだからな!?」
青年は“お前のせいで”といってはいるが、実のところ、それはすべて青年自身のせいだった。
通常、里への侵入者を見つけた場合、後援が駆けつけるまでその場で待機、駆けつけた者たちと連携してことに当たる。しかし、青年は鐘を鳴らしはしたものの、すぐにその場を離れて侵入者を追い、相手を見て侮り、功を得ようと単身突っ込んだ挙句、昏倒させられ、その姿を見失った。
本来であれば減俸だったり、降格だったりするところを、青年自身が新米なこともあり、厳重注意で済んでいた。だが、こっぴどく叱られた青年の中では、クロが悪者となっていた。
つまり、こいつがあのとき来なければ――、こいつが大人しく捕まっていれば――、強いなら強そうな見た目をしろ――、とかである。
「ここで会ったが百年目! あのときの恨み、いまここで晴らしてやる!」
うわぁ、そんな台詞、テレビの中でしか聞いたことない。クロは思った。
そもそも、青年がクロにやられてから再会するまで、百年も経っていないのだが……。
クロは、ヒトが感傷に浸っているときに――そう思いはしたものの、それよりも、悦ぶ気持ちのほうが大きかった。
形はどうあれ、かまってくれるらしい。
青年の様子から、軽く運動も出来そうだ。
クロが軽く心を弾ませていたら、青年の後ろにいた仲間二人が引き留めた。
「おい、よせよ。そいつ、ヒジリ様のところに嫁いできた奴だろう?」
「うるさい! お前、偉い人の嫁なら、なにしても許されるとでも思ってんのか!?」
「そういうわけじゃないが……」
なにやらごちゃごちゃいい出した。
クロの見たところ、後ろの若者二人が青年を止めているようだった。
しかし、それではクロがつまらない。クロは軽く挑発することにした。
「ごちゃごちゃいってないで、かかってきたら? なんなら全員まとめて相手してあげてもいーよ? あんたらみたいなのがいくら来たって、痛くも痒くもないし」
片手で沈めてあげるから、といったところで三人がこちらを向いた。
クロは最大限、嫌味ったらしく聞こえるよう馬鹿にした声を出した。
「ああ、それとも怖いのかな? 女の子相手にビビっちゃって、かーわいー。まあ、三人で挑んで、万が一にも負けようものなら、恥ずかしくって外歩けなくなっちゃうもんね」
さすがチキン、と舌を出す。それからしっしっ、と手を振った。
「やる気がないなら尻尾巻いて、とっとと帰りなよ」
トリ族に尻尾はなかったが、その顔から多少はカチンときているのが見てとれた。クロは順に人差し指を向けながら、トドメのひと言を放った。
「ヒ・ヨ・コちゃん」
「よし、わかった。こいつにはお仕置きが必要だ」
「ちょっとこらしめるだけだからな」
青年を引き留めていた若者二人が、こちらに一歩足を踏み出し、スパンと拳を手の平に当てるのを見て、クロはほくそ笑んだ。どうやらやる気になってくれたらしい。
挑発なんて、これまでしてみたことはなかったが、やってみるもんだ。
クロは心を躍らせた。楽しい楽しいお遊びの時間である。
クロは尻尾をピンと立てると、その場に立ち上がった。三人を迎え入れるべく両手を広げる。
「いつでもいーから、かかっといで」
挑んできた三人が見晴らし台の上に転がるまで、さほど時間はかからなかった。
クロは最初に声をかけてきた青年、翼の生えたその背中の上でしゃがみ込み、手の甲を舐めていた。
髭も汚れたような気がするので手入れする。
「あんたら、本当に弱っちいねえ。これじゃ運動にもならないや」
本音が口を衝いて出た。踏みつけられた青年が、クロの下で声を洩らす。
「ちくしょぉぉ」
この女を懲らしめるはずが、三人でしかけたにもかかわらず、またもやあっさりやられてしまい、青年の憂さは晴れるどころか溜まる一方だった。青年はクロの下敷きになりながら、懐をまさぐった。
さすがに卑怯かと思い使わなかったが、こうもやられてばかりでは、あまりにも悔し過ぎる。
青年は、懐から円錐形のおもちゃ花火を取り出した。
中には粉末状のマタタビが仕込んである。こんな日も来ようかと、前にクロにやられ、上司にこっぴどく叱られたあと、せっせと用意していたものだ。
「くらえ!」
クロの下で身をひねり、自分の上に乗っかっているクロめがけて、おもちゃ花火の先端から伸びる糸を引っ張った。パンという小気味いい音と共に、中の粉末が弾け飛ぶ。
正直なところ、仕込んだ量も少なかったため、あまり期待はしていなかったが、効果は覿面だった。
粉末を吸い込んだクロが青年の上から崩れ落ち、見晴らし台の床板にうにゃーんと身体をこすりつける。その後、ふくふくとうずくまった。
クロの下から解放され、後ろに手をつき、半身を起こしたトリ族の青年が、クロのそんな様子を見てぽかんとした。
「……マタタビ、すげー」
「……なあ、いくらなんでも、これはやりすぎじゃないか?」
「うるさい! こいつには散々ひどい目に合わされたからな。これぐらいでちょうどいいんだ!」
青年は散々といっていたが、今回でたったの二度目である。青年はどうやらクロに再会するまで、勝手に怒りを膨らませていたらしい。
青年たちはマタタビで大人しくなったクロを、里から少し離れた場所にある一本杉のてっぺんまで運んだ。
この杉は樹齢千年を優に越え、樹上にあるトリ族の里をなおも見下ろす巨木だった。
里のなかと違い、ここには足場のようなものは組んでおらず、翼のないものが下りるには難儀する場所だった。それだけでも充分報復となったはずだが、青年は更にクロの髭を何本か、ぶちぶちと引き抜いた。
「ざまあみろ!」
そういい置くと、青年が翼を広げた。
ネコ族の髭はイヌ族のそれと違い、切ったり抜いたりしてはいけないことは、あまりにも有名だ。青年の取った行為にあとの二人が眉をひそめ、顔を見合わせた。枝のところでいまだふくふくとうずくまるクロを気にしつつ、青年の後に続いて翼を広げる。
一人は晴れ晴れと、残り二人は後ろを振り返りつつ、その場から飛び去った。
その頃、昼食を食べ終えたヒジリは、屋敷の庭から空を見ていた。
朝食を抜いたから昼飯時には帰ってくるだろうと思っていたが、クロは戻ってこなかった。隣にやってきたユウマがそっと声をかける。
「……気になるなら、捜しに行けばいいんじゃないの?」
しかし、両腕を組んで黙り込んだまま、動こうとしない兄を見て、やれやれとため息を洩らした。
* * * * *
クロが正気を取り戻したのは、夕方に差しかかろうかという時分だった。
どうもマタタビで酔っ払ったらしい。
しかし、その後の記憶がどうにもあやふやだった。
クロは辺りを見回した。少し離れた場所に里の灯りが見える。下をのぞき込めば、地面は遥か遠くにあった。ぶっとい杉の途中までは、足場になりそうな枝が生えているものの、そこから下にはなにもない。近くに飛び移れそうな岩や木なんかも見当たらないため、下りるのにやや苦労しそうだった。
クロは頭を掻いた。
こんなところにいるということは、マタタビでハイになった挙句、浮かれて登ってきてしまったんだろうか。
夕焼け空を背景に、くっきりと浮かび上がった樹木のシルエットがクロの目に映り込む。
そろそろ日も暮れる。クロはうんと伸びをした。
いつまでもこんなところにいるわけにもいかない。
夜になれば獣も出る。やられる気はまったくしないが、特に理由もなく、わざわざ危険に身をさらすこともないだろう。
クロは空と森の境界線、無数に散らばる星のような里の灯りに目を向けた。
その中でも一際大きな光を放つ、樹木を飾る灯火へと目を凝らす。
いまのクロの帰る場所といったら、ヒジリのいるあの屋敷を置いて他にない。
あんまり気乗りはしないけど……。
「かえるかあ……」
クロが今いる杉の木は、途中まで枝が茂っている。とりあえず、伝って下りれるところまで下りて、そこからどうするか考えよう。
クロはそう決めると、ためらいなく飛び降りた。
クロはこのとき、自分の髭が何本か、抜かれていることに気づいていなかった。
ネコ族の髭はセンサーの役割を果たす。外界の変化を髭に伝わる振動で微細なまでに感知し、周囲の状況に対応する。
クロの異常なまでの身体能力は、この髭によって支えられているといっても過言ではなかった。
結果、どうなったかというと――
クロは最初の枝に飛び移るのに失敗した。
ヒヤリとしたクロの口から短い悲鳴が上がる。「ひえっ!?」
常ならば、しっかり足のつくところをつるりと滑らせ、バランスを崩し、がさがさバサバサ枝を揺らしながら落ちていく。
「だっ! たっ!」
がんごんと身体をしたたかに打ちつけながら落ち続け、枝が途切れたところで宙へと投げ出された。
クロは慌てた。目の端を掠める木肌めがけ、めいっぱい右手を伸ばす。爪が杉の幹を捉えた瞬間、腕がちぎれるかと思うほどの衝撃を受けた。なんとか堪えて爪を立て続ける。
ギャリギャリと木肌を削り、杉の幹に縦三本の爪痕を長く残すが、落下を止めるには至らない。若干、速度が緩んだものの、迫りくる地面が焦りを生んだ。
クロは木肌を滑り落ちながら、ここからなら着地出来そうだと判断した。
伸ばした右腕を強引に引き戻すと、両手で膝を抱え込み、くるくる回りながら着地の体勢へと入る。
地面が近づき、パッと両腕を広げた。
いつもなら華麗に着地を決めるはずが、このときは違った。
またもや距離感を見誤ったクロは、地面に右足がついた瞬間、思い切りぐねった。
「いったあっ!」
バランスを崩した身体が倒れ込む。
無様にも、腹を下にしてべしゃりと転がったクロは、草の生えた地面に手をついて半身を起こした。
「……な?」
クロは状況が理解できないでいた。いつもなら、絶対にあり得ない失態だった。
立ち上がろうにも、ひねった右の足首に力が入らず、再び地面に転がってしまう。クロは仕方なく、四つん這いになって地面を這った。
クロは獣ではなくヒトである。こんな姿、誰にも見せられない。
そこでふと、ヒジリの顔が頭に浮かんだ。
これがあいつに知れたら、腹を抱えて笑うに違いない。そう思い、あの男が腹を抱えて笑うところを想像してみたが、うまく思い浮かばなかった。
とちらかといえば、言葉でなます切りにしてきそうだな……。
クロは言葉で切りつけてくるヒジリの姿を想像しようとして、やめた。
いずれにせよ、腹が立つことに変わりはない。
ぐぬぬ、いやなやつ!
クロは這って、なんとか茂みの奥に潜り込んだ。
ヒト一人座れるほどの空間を見つけ、座り込むと、先ほどひねった足首を確かめる。
「うわ、派手にやったなあ」
見れば真っ赤に腫れ上がっていた。
いまのところ、動かさなければそれほど痛みは感じないが、時間が経てばどうなのかわからない。
「骨までいってないといいんだけど……」
クロは動くのを諦め、その場でこてんと横になった。ぐうぅ、とお腹が鳴る。
そういえば、朝からなにも食べていなかった。
「……おなかすいたな……」
しかし、この足では、なにか捕まえようにも無理だった。
背中を丸めて縮こまる。地面に投げ出されたクロの尻尾が力なく垂れた。
辺りはすでに薄暗くなり始めている。
遠くでなにか、獣の鳴く声がした。
クロは急に心細くなった。はたして、いま、なにかに襲われたとして、この足で逃げ切れるだろうか。不安になったクロの口から、知らず声が洩れる。
「……おうち、かえりたい……」




