結婚のお相手は 1
「お前はどうしてそう、落ち着きがないんだ」
ネコ族族長の棲むお屋敷、その奥座敷。
お庭の池がよく見える畳の間で、ふたりは向かい合って座っていた。
姿形は人とよく似ているが、彼らの頭には猫のような耳があり、お尻からはしゅるりと尻尾が生えている。
先の言葉を発したのは、上座に座る男だった。耳や尻尾は茶虎模様、今年で齢五十五になる。
ネコ族族長でもあるその男が大きなため息をついた。
その正面には黒い尻尾に黒い耳。いまはお叱りを受けているため、耳を後ろに伏せている。くせっ毛の強いショートカットの髪から身につけている衣服まで、全身真っ黒の女の子が長い尻尾を股に挟み、しゅんとうな垂れ正座していた。
名前はクロ。今年で十六になる。彼女はうつむけた顔から視線だけを父に向け、口を開いた。
「いやでも父さま……」
父さま、と呼ばれた男がじろりとクロを睨みつける。
全身の毛をピッと逆立てたクロは、すぐさま口を閉じた。
部屋には父の静かな怒りが充満している。
父は黙って腕を組み、ただ座っているだけなのに、目に見えない無数の針がクロの全身をチクチク刺してきているようだった。いまのクロの胸中を明かすなら、早く終わらないかなーのひと言に尽きた。
ちょっと池の鯉を手で弾いて遊んでただけなのに……。
その池の鯉が、父が長年大事に育てている鯉であることだとか、ちょっとどころか全部陸に弾き飛ばしたことだとかは、彼女の記憶から綺麗さっぱり消し飛んでいる。
クロは父の顔を盗み見ながら、がつんと一発怒鳴られるのと、怒鳴りはしないがこうして延々くどくどと静かな怒りにさらされるのと、どちらがマシかを考えてみた。
はっきりいって、どちらも嫌だった。
ネコとはそういう生き物である。
ここに呼び出されてから一体、どのくらい経っただろう。
クロは父にバレないよう、こっそり庭へと目を向けた。お昼をまわり、お空にある太陽も若干傾き始めている。
あたしの集中、もって五分なんだけどなーとか勝手なことを考えつつ、緊張から洩れそうになるあくびを必死に堪えた。父にお叱りを受けている今、大きく口を開けようものなら、更なる叱責を浴びかねない。
しかし、我慢するにも限界がある。
クロは縋るように、父の隣に座る母に目を向けた。
この場の空気を変えてくれるヒトがいるとするなら、この母をおいて他にない。母はクロの気持ちを汲んでくれた――かはわからないが、父にお茶を差し出した。
「まあまあ、あなた。これでも飲んで。そんなに怒りに身を沈めてたら、また血圧が上がってしまうわ」
ナイス、母さま!
クロが心のなかで賛辞を送っていると、差し出されたお茶を飲んだ父が、はあーっと長く重たい息を吐いた。
「お前の姉のシロは、お前の歳にはもうずいぶんと落ち着いてたんだがなあ」
そんなんだから、いつまでも眼が青いんだ、とかぶつぶついっている。
うぐぐ、人が気にしていることを……クロは唇を噛んだ。
普通なら、生後間もなく色が変わるはずのクロの眼は、青いままだった。
キトゥン・ブルーと呼ばれるその色は、要は“お子様”ということだ。体毛の白い猫や、シャムネコなんかはずっと青いようだけど、クロは黒猫だ。できれば父や母のように、金に輝く目が欲しい。
クロが視線を落とし、畳の目を数え始めたところで母が口を開いた。
「まあまあ、あなた。この子に落ち着きがないのは、いまに始まったことではありませんから」
母の口から常套句が出た。
この言葉が出たら、父のお叱りタイムは終了だ。クロは内心喜んだが、この日はいつもと違っていた。
ですからね、と母が続ける。
「結婚でもすれば、多少は落ち着くと思うんです」
「ん?」
「え?」
父とクロの言葉が重なった。
そんな二人を尻目に、母がおっとり爆弾を投下した。
「お話はもう、進めてありますから」
「ええーっ!?」
* * * * * *
「ニャー! バカなの!? アホなの!?」
部屋の灯りに照らし出され、障子に映ったクロの影が、動きに合わせて激しく動く。
母の爆弾発言のあと、自室に下がったクロは襖の奥から枕を取り出し、怒りに任せてぼふぼふと殴っていた。引き裂かないだけマシである。そんな彼女の目の前には、先ほど母が告げた結婚相手の絵姿が畳の上に投げ出されていた。
その隣では、先ほど比較対象されたクロの姉、シロが膝を崩して座っていた。
シロは畳の上の絵姿を見て、ふふと笑った。
「ずいぶんと個性的な御方ねえ」
母も大概おっとりだが、この姉は、更に輪をかけておっとりしている。
少し耳が悪いことも影響しているかもしれない。
クロは畳の上に転がった絵を蹴り飛ばした。閉じた襖にがつっと当たる。
「個性的とか、そういう問題!?」
クロは今しがた蹴り飛ばした絵をもう一度見た。
有名な画家が描いたんだか何だか知らないが、できればいますぐバリバリと引き裂いてしまいたい。
「前衛的すぎるのよ! アートすぎるのよ! 顔からパーツが飛び出てるじゃない! これ見て相手のなにを判断しろってーの!?」
フーッと毛を逆立てたところで、シロが手招きした。
誘われるまま、その膝の上にごろんと頭を乗せる。
結婚が決まったという母の言には驚いたし、聞いたときには夜逃げしてやる、と思いもしたけど、絵姿を見てからでも遅くはない。
クロとて年頃の女の子だ。そういったことに興味がないわけでもない。
だというのに、部屋に下がって見てみたら、コレ。
頭に来ないわけがない。
シロがそんなクロの頭を撫でた。クロの喉がゴロゴロと鳴る。
クロは姉の膝の上が好きだった。こうやって撫でてくれる優しい手も好き。
寝転んだクロの視界に、襖のところで止まった額縁が映った。
結婚するなら、近いうちにこの姉ともお別れだ。
そう思った途端、急に寂しさが込み上げた。だというのに、送られてきた絵がアレ。
無機質に光る金属の額縁を見ていたら、再び怒りが湧いてきた。
だいたい、カメラがあるのだから、写真一枚パシャリと撮って、送ってくれればよかったのではないだろうか。一体どこの古民族だ。
そうやって、ぶすくれていたクロの頭に、ふと疑問が浮かんだ。
写真で見られてはマズいくらい、容姿が変だとでもいうんだろうか。
クロの胸の内にムクムクと好奇心が渦巻いた。
元来、気まぐれが身上のネコ族。先ほどの怒りはどこへやら。またたく間に、絵に描かれた人物への興味が抑えきれないまでに膨れ上がり、頬から伸びたクロの髭が、さっと開いた。
「決めた!」
クロはパッと立ち上がると、ぐっと拳を握り込んだ。
「ちょっと行って見てくる!」
いうが早いか、障子を開いて窓を開け、素早く外に飛び出した。
音も立てず、身軽に屋根に飛び乗ると、陽が落ちたばかりの夕闇に溶けていく。
「気をつけてねえ」
そういって見送るシロも、やっぱりネコだった。
普通だったら止めそうなものなのに、そういう頭はないらしい。
シロは開け放たれた窓のそばに寄ると、見えなくなったクロの背中にそっと手を振っていた。
* * * * *
野を越え、山越え、谷越えて。
数日と経たないうちに、クロは自分の結婚相手、あのふざけた絵の人物が棲むトリ族の営巣地までやってきていた。
ずっと走ってきた割に、微塵も息が切れてない。疲れた様子もみせず、クロはトリ族たちの家が並ぶ木の下を、闇夜に紛れて疾走していた。
茂みの中を進んでいるのに、がさりとも音がしない。クロは驚異の身体能力で、葉を揺らさずに駆けていた。
結婚のお相手は、トリ族族長の息子だと聞いている。
だとすれば、目指すべきは族長たちの棲まう場所。
クロは営巣地の奥に見える、大きなお屋敷をひたと見据えた。おそらくあれがそうだろう。
クロは迷うことなく、頭上に見えるお屋敷を目指した。
「ふあ~あ」
煌々と明かりの灯る望楼の上。夜の見張り番を任されたトリ族の青年は、堪えきれないあくびを我慢することなく、盛大に洩らした。
彼が望楼に立つようになってからこれまで、この里に侵入してきた者はいない。
どうせ今日もそうだろうと、槍を片手にボケっと突っ立っていた。
青年の頭の中は、早く交代の時間にならないかなあ、それだけである。
そんな彼の目の端を、普段ならあり得ないものが掠めた。
「ん~?」
涙の滲む目を擦り、じっと暗闇に目を凝らす。
トリ族の家は、木の上にある。樹幹の又や、太い横枝を利用して、板を渡して路を作り、そこに家を立てていた。
その下を、黒い影が走り抜ける。
トリ族は夜目が効かないと思われがちだが、存外、夜でも見える者はいる。
夜勤で見張りについていた青年もそうだった。
黒い影を目で追うと、その影はどうやら、一路、トリ族族長のお屋敷を目指しているようだった。
青年は常と違う事態に興奮した。すぐさま侵入者を報せる鐘を打つ。
「くせ者だ!」
ひゃっほう! とでもいわんばかりに大きな声でそう叫ぶと、背中の大きな羽を広げ、影めがけて降下した。
茂みの中を疾走していたクロは、頭上で鳴る鐘の音に耳を澄ませた。
「あらら、見つかっちゃったかな?」
誰にも見つからない自信はあったんだけど、トリ族もなかなかやるものである。
素早く手近な木の陰に隠れ、ほんの少し顔を出して周囲を窺う。その間、三角の耳を左右異なる方向に動かしながら、周囲の音を探った。
――上!
隠す様子もなく、クロのいる場所めがけて枝葉を揺らす音が頭上に迫り、クロはその場から飛び退いた。
直後、クロがいた場所に槍が突き刺さる。
クロは着地と同時、地面に刺さった槍を持つヒトに目を向けた。
背中には大きな羽が生えている。
青年は槍を地面から引き抜くと、クロのほうへ顔を向けた。まだ若い――といっても、クロとそう歳は変わらない。
クロを襲ったのは、さきほど鐘を鳴らした青年だった。
侵入者の姿を目にした青年が、ヒューと口笛を鳴らす。
見れば小さなネコだった。かわいいかわいい仔猫ちゃん。
青年は幸運に歓喜した。
このまま地道に勤めても、出世するには程遠い。
しかし、ここでこの侵入者を捕まえて手柄を立てれば、出世の道も早まろうというものだ。
これで家族に楽をさせてあげられる。恨むんなら、不用意にこの里に踏み込んだ己自身を恨むんだな、と明るい未来を夢に描いたトリ族の青年は、次の瞬間、地面でおねんねしていた。そのまま、さきほど見ていた夢の世界へ旅立つ。
「あまいあまい」
地面に転がった青年の脇、すっくと立ったクロが、腰に手を当て青い目を光らせた。
この世は弱肉強食である。
青年がクロを見て侮り、一瞬見せた隙をクロは見逃さなかった。
相手がそうと認識する前に背後に回り、手刀を叩き込んだのである。
「あたしとやろうなんて百年早い。お尻の殻が取れてから出直してくるんだね」
奇しくもクロを仔猫と揶揄した青年をヒヨコ扱いし、クロは再び屋敷を目指した。




