第五節 砂漠の境界線 4話目
「――これ、早急に終わらせておいてくださいね」
「…………」
デスクの上に野積みにされる書類に、ため息すら出す気が失せる。現実の生活というものはこうもつまらないものだったであろうか。
会社の時計の針は既に深夜を過ぎた時刻を指しており、残業という名の徹夜を強いられている現実を否応なしに突きつけている。
「……ハァ」
今日もまた、全く無意味な作業を突きつけられる。この現実世界のルーチンワークというものがいかにつまらないものか、味わう必要の無いとてつもない苦痛だけが、現実の俺を構築している。
「…………」
とてつもないコミュ障のせいか、いやだと断れていない結果がこれだと分かりきっている。
「あ、先輩帰るんですか?」
先程から後輩の癖に仕事を回してくるうざったい年下の女を置いて、俺は鞄を手に取る。
「……残りは明日やる」
「そうですか。では、あたしももう帰りますから」
「…………」
その性格さえ直せばまともな美人なんだが……まあいい。
氷山の一角にすら満たない仕事を崩し終えた俺は、深いため息だけを残してその場を去って行った。
◆ ◆ ◆
「はぁあああ……」
学生時代とは違う。あの時からもう十年もの時が経つ。昔は窮屈だったスーツやネクタイも、社会人として身になじんでいる。
「社畜の首輪……ってか?」
会社を出てからネクタイを緩めつつ、皮肉をつぶやく。俺の毎日はこうして何も変わらない。
手元の携帯端末に目線を落とし、どうでもいいニュースに目を通す。無意味で無価値な雑音しか発さない上司の話題に合わせて相槌を打つためにも、こうして情報だけは目にしておかなければならない。
「毎度のことながら、ゴシップばかりでつまらん記事ばかりだ」
端末の上を滑る指が、そのまま滞りなく下まで滑り落ちる。何一つ面白みもない、くだらない情報だけが入ってくる。
「……もういい。帰って寝るか」
己の未来を現しているかのような暗い空。そんな暗い夜空の下、足元を照らす街灯を頼りに、ビル街の歩道を歩いていると――
「――やっと見つけましたわ!」
「ん?」
――それは明らかに、この場に不釣り合いな存在だった。
誰しもが手櫛を入れたくなるような、美しき緑の黒髪。かなり精巧なコスプレだと思われる巨大な一対の蝙蝠に似た大きな翼。そしてとてつもなく愛らしく、そして優雅さを携えた顔。その瞳は、まっすぐに俺へとむけられている。
「……えっ? 俺?」
まさかとは思って後ろを見やるが、当然ながら深夜遅くの時間に歩いているのは俺一人。周りにも誰もいない様子から、そのコスプレ美女は俺を見つけて声を上げたのだと理解した。
「な、なんすか……?」
「探したのですよ、“主様”!!」
主、様……?
「……えーと、たぶん誰かと間違っているかと……なんか、そういうドッキリだとしても――」
「なっ……!? 私のことが分からないのですか!? 私です! ラストです!」
え? ラスト? 外国人か何か? でもなーんか耳に覚えがあるようなないような……。
「え、えーと、アイハブアペン?」
「一体何を言っているんですか主様……はっ! いつもの魔法の板はどうしたのですか!?」
魔法の板? ますます言っていることが分からなくなってきたぞ……?
「あー……マジで状況が呑み込めないんだが」
「……本当に忘れてしまったのですか、ジョージ様」
「確かに俺の下の名前は譲二だが……」
……まずい、よくわからないが会話が重い。なんか明らかにショックを受けて沈んでいるし、俺としてもこんな美人を泣かせるようなことになって胸が痛い。
ひとまず簡単な推理になるが、このラストという人はジョージという俺にそっくりな人を探していたみたいで、それで勘違いを起こしているのでは。
「とにかく、そのコスプレっぽい羽根とかつけて、誰かにサプライズを仕掛けようとしているのかもしれないですけど、相手が違う――」
「違いません!!」
そうして俺はラストという人に真正面から飛びつかれるように抱きつかれ――って、凄い! 顔面に巨乳が迫りくるというか圧迫感凄い!?
「ふごご……」
「私の主様は、刀王ジョージ様ただ一人! あの幻獄最深層・ミラージュから救ってくれた、貴方様ただ一人なのです!」
そうしてさらに強く抱きしめられ、どこか覚えのあるような言葉をなげかけられ続ける。
幻獄最深層・ミラージュ……? 刀王? なんだ? その、ゲームに出てきそうな名前は……?
――ん? ゲーム……?
「――っ、そういうことか!!」
その瞬間に、俺の姿はいつの間にかスーツから、いつもの真っ黒なコート――タイラントコートに身を包んだ、“リベリオン・ワールド”での俺の正装へと変わっていた。
「あっぶねぇえええ! ってかなんだよこのギミック!? こんなのアリかよ!?」
「あ、主様……?」
突然大声で驚愕する俺に、ビクッと驚くラストだったが、今度は俺の方からラストを抱きしめなければならなかった。
「お前のお陰で助かったぞ、ラスト!」
「あ、えーっと、お役に立てたのならよかったです……?」
あまりの変わりように頭の整理が追い付かずキョトンとしているラストをよそにして、俺はこの反則的な現状に対して悪態を漏らす。
「何だってんだよまったく……お前を超える幻術というか、メタ的なものに片足突っ込んでくるんじゃねぇよ! こんなの反則だろ反則!!」
「……と、とにかく! この私のことを、思い出してくれたのですね!」
「ああ。全部思い出した」
思い出さなかったらこのまま社会人としてある意味抹消されてだろうよ。
そうしてラストとの再会を心から喜んでいると――
「――残念、もう少しで君たちの冒険を終わらせることができたというのに」
『……何者だ』
声のする方を即座に振り向く。相変わらず周囲の光景は変わらぬまま。だがもう既にここはリベリオン・ワールドの一部だと分かっている。腰元の刀に手を添えて、いつでも目の前の敵を斬り捨てる準備ができている。
「まあまあ、そういきり立たないで。ゲームオーバーってのは確かにゲーマーに対して言い方が悪かったかな」
そこに立っていたのは、エナジー飲料を口に含みながらヘラヘラと笑い、現代的な服装に袖を通した、痩せ細った体格の女性だった。
「所謂イースターエッグってやつかな。海外ゲームではよくあるものさ」
「イースターエッグって何でしょうか……?」
『隠し要素みたいなものだ』
例えばゲーム内に他のゲームキャラクターの存在を示唆させるようなアイテムを置いたり、あるいは思い切ってゲームプロデューサーが現れたり――
『――まさか』
「そういうことさ」
クスクスと笑うこの女は、自らをこのゲームに深く関与した存在だと言いたいようだ。
だがあり得ない。システマの性格上、イースターエッグはあり得ても、このようにゲームをゲームだと自覚させるような俯瞰的なものは取り入れるとは思えない。
そして何よりこんな現実世界が存在しているなど、現実世界にクソ食らえと公言しているシステマとは明らかに真逆の考え方だ。
「しかし残念だね。元の世界はいずれ破棄されるのだから、私がこうして疑似世界で保護してやろうと思ったのに」
「元の世界の破棄、だと……!?」
バトラが残した言葉より、更に物騒な言葉。俺は思わず言葉を繰り返した。
「まあ、いいさ。ここで消えれば同じこと」
痩せ細っていた体にみずみずしさが取り戻され、どこから取り出したのか眼鏡をかけ、服装は変化し、まるで砂漠地方の女王のような煌びやかさを帯びていく――
「ようこそ、はじめまして。システマを作った創作者がこの世界を生んだ父親とするなら、私はこの世界の母親の象った存在! そして私自身もまた、“罪”深き存在――」
変化は空間にも広がってゆき、いつの間にか大都会の巨大なビルの屋上に俺は足をつけている。
「私の名はグリード!! 七つの大罪の一員にして、ラスト! お前の生みの親である者だ!!」
なっ――
「何ですってぇ!?」
「何だってぇ!?」
ラストと俺の驚嘆の声が重なる。そして俺は、七つの大罪、そしてこのゲームを生み出したクリエーターという存在と敵対していることに、それ以上は何も言えず絶句してしまう。
「安心するがいい。私に殺された際にはリセットではなく、そのままこの世界に引きずり込んで、二度と目覚めないようにしてやる」




