プロローグ 社畜からの脱却
「――これ、早急に終わらせておいてくださいね」
「…………」
デスクの上に野積みにされる書類に、ため息すら出す気が失せる。現実の生活というものはこうもつまらないものだったであろうか。
時計の針は既に深夜を過ぎた時刻を指しており、残業という名の徹夜を強いられている現実を否応なしに突きつけている。
「……ハァ」
今日もまた、全く無意味な作業を突きつけられる。この現実世界のルーチンワークというものがいかにつまらないものか、味わう必要の無いとてつもない苦痛だけが、現実の俺を構築している。
「…………」
生来のコミュ障のせいか、いやだと断れていない結果がこれだと分かりきっている。
「あ、先輩帰るんですか?」
先程から後輩の癖に仕事を回してくるうざったい年下の女を置いて、俺は鞄を手に取る。
「……残りは明日やる」
「そうですか。では、あたしももう帰りますから」
「…………」
その性格さえ直せばまともな美人なんだが……まあいい。
氷山の一角にすら満たない仕事を崩し終えた俺は、深いため息だけを残してその場を去って行った。
◆ ◆ ◆
「はぁあああ……」
学生時代とは違う。あの時からもう十年もの時が経つ。来年で三十になるいわゆるアラサーに属するこの俺こと皆川譲二は、かつて社会現象とまでなったとあるVRMMOにて、『刀王』という異名を冠する最強の武士だった。
仕組みは今でも不明のままであるが、そのVRMMOは一度没入すれば最後、VRヘッドギアが生み出す電脳世界と脳波の複雑な結びつきのせいでゲームをクリアするまで目覚めることができないというとんでもないゲームだった。
しかも死亡時には独特のペナルティが課される等、何かと高難易度だったせいかクリアされるまでにプレイヤー全員が二年という歳月を費やすこととなった。そして当時攻略最前線に立っていたこの俺もまた、二年もの間ヘッドギアをつけたまま病院で昏睡状態だったと聞かされている。
ゲームクリア当初は警察からのしつこいまでの事情聴取を受けることになったり、うざったいマスコミからの取材からコソコソ逃亡したりと、それなりに現実世界でも妙なスリル感があった。しかし世の中に流行り廃りがあるのと同じように、いつしかそのVR事件は過去のものとなり、VR世界を救った俺もまた、過去の人間としてこうして一般人に入り交じって生活を送っている現状だ。
「…………」
手元の携帯端末に目線を落とし、どうでもいいニュースに目を通す。かつてゲーム内であった王国議会の野次と同等に無意味で無価値な雑音しか発さない上司の話題に合わせて相槌を打つためにも、こうして情報だけは目にしておかなければならない。
「毎度のことながら、ゴシップばかりでつまらな――ん?」
端末の上を滑る指が、ふと止まる。そして気づけば俺は、自分の意思でもってある一つの情報の収集を始めていた。
「“キングダム・ルール続編発表”……?」
――そう、このキングダム・ルールというVRMMOこそ、俺が以前刀を司る王、『刀王』として名を馳せた件のゲームであり、そして今、俺の端末にはその続編が発売されるというのだ。
「あり得ない……」
そう、あり得ない。あんな危険なゲームを制作した開発者は、それこそとっくの昔に捕まっている。俺がゲームで直々に対決を仕掛け、打ち負かし、現実世界においても公安によって逮捕され、今でも牢獄の中にいるはず。そんな開発者不在の筈のゲームの続編が、前回と同じVR没入型のゲーム内容で突然のリリース発表されたのだという。
「…………」
画面に指を這わせて文章を読み進めていくと、どうやら捕まった開発者が所属していた企業がその汚名返上の為に、サプライズも兼ねてあえて再度復活させたタイトルらしい。
そして同じような内容でありながらも危険性を排除し、前作をさらに発展させたハイクオリティのゲーム内容であるとのことだ。
記事を更に読み進めていくとオープンβの体験版の配布も決定しているらしく、肝心の配布日はというと――
「……ッ!?」
一体どういう数奇な運命であろうか。ニュース発表の日付は今日、そして配信日もまた――今日だというのである。
「……っ」
俺は少し心が動いたが、もう関係ないばかりに端末を静かにポケットにしまう。
「今更何の未練があるんだ……」
あの世界は俺とギルドのメンバーが所属する国が統治をすることで、ゲームクリアを成し遂げた。続編があれから百年経ったという世界設定とはいえ、もう俺のようなロートルともなり得る存在が、今更舞い戻る必要なんてない。
「…………」
しかしながら少しだけ気になることもなくはない。
俺があの世界に置いていってしまった、とある戦術魔物。最後まで最強の一角としてともに戦ってきた一人の女性が、百年経ったあの世界ではどうしているのかということだ。
「…………」
――いくらゲーム内の話とはいえ、気になるものは気になる。寿命なりキャラデザイン一新なり、何らかの理由でゲーム内に登場しなくなっているのであれば、何の未練も無い。
「……だがもしも、だ」
もしもあの姿、あの性格のまま、他のプレイヤーの戦術魔物として“寝取られてしまった”らなんて、下らないかもしれないが気分が悪い妄想が俺の脳裏をよぎってしまう。
「…………」
無言で立ち尽くすまま、よからぬ考えだけが膨らんでいく。このまま変な気分を残しておいたまま、果たして明日まともに仕事ができるだろうか。
――体験版の雰囲気だけ味わって、様子だけ見るとしようか。