E 祝福をあなたに
二足歩行する豚の化け物は、棍棒か何かを振り回していた。
勇敢に立ち向かった警官二人が真っ二つに千切れてから、長い事それに挑む奴はいない。とはいえ、隠れて生き延びているのは、少年と少女、二人だけであることを、その二人は知らない。
少年が一人、幅一センチもないコンクリートのひび割れから覗き込む。
なのに、その化け物は、見通したようにこちらに視線を向けた。
ビクッと肩を震わせ、座り込む。口を手で塞いで、何事もないようにと祈る。きっと何かの間違いだ。勘違いに違いない。
十秒。二十秒。一分ほど経っても、何も起こらなかった事に酷く安堵した。
隣にへたり込んでいる少女が不安そうに少年を見た。
少年はどうにか、大丈夫だよ、と伝えようとした。
「……っ、…………っ」
だが、コンクリートの壁を一つ挟んだ向かい側から聞こえる音と振動が、少年の張り裂けそうな胸に銃口を向け続けている。声が、出ない。それこそ枯れたように。
見てしまったからでもある。
地面に散らばるそれを。赤くてらてらと鈍く光るそれを。
パックに詰めてスーパーに並べたら、それなりに美味しそうに思えるのだろうか。補色の緑と並べてみたら綺麗に見えるだろうか。そんな事を思った。
怖い。だが、あまりに現実から離れていて、恐怖に怯えているのか、それ以外の何かに震えているのかは分からない。おかしくなってしまったのか。
いや、おかしくなっていない訳がない。パックに詰めてスーパーに並べたら? あそこにあったのはどう考えても人間の身体の一部だ。それを見て、そんな発想がそうそう出てくるはずがない。
「ぉ、ぉ、おに、ちゃ……」
少女は──いや、妹は喋れるのに。少年は己の不甲斐なさに顔を俯ける。
情緒不安定になりつつあった。怯える心と、それに耐えようとする心、そして、既に恐怖に狂った心が混在している。
どうすればいいのか分からない。
左腕を斬り落として、これで許してくださいと懇願すれば許してもらえるだろうか。
それとも足か。それとも血か。
何なら許してくれるだろう。
妹なら許してもらえるだろうか。
──違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違うそうじゃない。大切なのは妹と一緒に生き残る事だ。左腕だろうが足だろうが血だろうが、無くしたら死んでしまうかもしれない。
あ。そうだ。なんで思いつかなかったんだろう。
妹を囮にすればいいんじゃないか。その隙に逃げれば、後はどうにでもなる。
大丈夫。これで無事に一件落着だ。
違う。
違う。そうじゃない。
さっきから、妹と二人で生き残るための方法を探してるんだ。それじゃ意味ないだろ。ふざけんなよ。ふざけんなくそ。くそくそくそくそ。なんなんだよもう。いやだいやだ。くそくそくそくそっ!
あああああああああ。
くそ。何が「お兄ちゃん?」だ。背中に隠れて自分ばっかり助かろうとしやがって。妹だからってふざけんなよ。
絶対に守ってやるからな。
死ねば解放されるから。
……何言ってるんだ僕は。
一体、何を。
──怖い。
実にシンプルな感情。恐怖。
怖いのは、何も分からないから。
自分が助かる方法も、自分が死ぬかもしれない未来の事も。
敵の事も。
妹の事も。
自分の心の中の悪魔の存在も。
何も分からないから。何一つ、分からないから。
シンプル故に鋭く、素直に心を抉る。
シンプル故に防げない。
肩を揺すられて妹に呼ばれるまで、少年は体育座りのまま動かなかったらしい。
ハッとして妹に目を向けて、その怯えた表情を見た時、自分がどれだけ愚かな事をしたのか悟った。
守るべき妹がいながら、妹以上に化け物に怯えているなんて。
それこそ、駄目じゃないか。
こんなじゃいけない。勇敢になれ。果敢に挑め。大丈夫、恐怖は克服出来る。克服出来ないものなどない。
──そう、思った直後だった。
腐った生ものや果実を存分に混ぜ合わせたような異臭がした。
横を見、
化け物、
やば、
何で、
場所が、
その時、咄嗟に身体が動いた。
妹の服を掴んで、力一杯投げ飛ばしていた。
少年自身も驚く、本物の勇気そのものだった。
これを勇気と呼ばずして何と呼ぶ。
が、これで妹が救われると決まったわけではない。ただ延命したに過ぎない。それでも、と少年は思った。自分よりも一秒でも長く生きていてくれれば、それでよかった。
勿論、僕はここで死ぬ。
衝撃と共に、コンクリートを突き破って外に投げ出される少年。
あの豚の顔をした化け物の一撃を食らったのだ。
右腕の感覚が無い。下半身の感覚もない。
少年は、仰向けで道路に倒れていた。
空が見えた。
綺麗だった。
次の瞬間、その視界に棍棒が映った時は、もう終わりだと目を閉じた。
少年は願う。
鈴。僕の妹。どうか、幸せに生きて。
終わりまでの瞬間が、とても長く引き伸ばされた。
棍棒を振るうのに、一秒もいらない。
なのに、それを考えられるだけの時間、少年は生きている。
不思議なものだな、と思った。
つい、目を開けてしまった。
時が止まったみたいに、空中で静止する棍棒を見た。
──まだ、死んでいないのか。まだ、死なないのか。まだ、死ねないのか。
ゆっくりだが、棍棒は動いている。身体は……動かそうとしても、少したりとも動きはしない。そうして理解した。死ぬ間際、引き伸ばされた時間の中で、思考が加速しているのだと。
少年は、絶望する。
これから死ぬというのに。それまでの僅かな時間を、身体も動かせないままどうしろというのだ。何を考えろというのだ。
こんなの、死の恐怖が増幅されるだけではないか。
嫌だ。死にたくない。
そう何十回も祈る事が出来るほど、棍棒の動きは遅い。
いっそのこと、何も分からないまま死にたかった。
死について考えるほど、その未知の領域故に恐怖が勝る。
怖かった。
怖くて、怖くて、しょうがなかった。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ」
だから。その声は他のどんな光よりも眩く輝き、少年の心に光を灯した。
そして、スコップを剣のように振るう、英雄のような男を見た。
幻想の世界に入り込んだような戦争の時間は、まだ終わらない。