03 この不条理な世界に抗うには
「ひぃっ……」
とある、スーパーの一角。
照明が落ちたスーパーは、昼間にもかかわらず薄暗い。だが、そんな状況であっても確認できるのは、軒並み倒された商品を陳列する棚。本来なら所狭しと並べられた食品たちが、今ではさながら床を覆うカーペットだ。
そして、そんな中に蠢く、不気味な影。
動物と言うより昆虫のような体つきの何かが、そのスーパーの中を徘徊していた。全長は十メートル近くあるかもしれない。
ただでさえ高いはずの天井は突き破られ、二階の天井が見える。
そんな化け物じみた昆虫など、これまで確認されていない。あんなものは、想像上、すなわち空想の産物、フィクション、それ以外にありえない。
だが、現に目の前にいる。
信じざる得なかった。
「……っ、……っ!」
僅かに生き残った買い物の客や店員数名は、息を殺してスーパーの端っこで固まっていた。
どうやら目はそこまでいいわけではなく、そうそう見つかりそうにない。だが、耳は異常に良く、僅かな物音に敏感に反応していた。
天井が崩れ、同時に陳列棚が倒され、化け物はその上を歩いている。それだけで物音が立っていたから、本当に小さな物音なら気付かれていないのが唯一の救いだ。
だが、つまりは動けないのも事実。音を立てずに動くのは現実的ではない。
あの化け物は、外に出て行く素振りを見せない。一体いつまで、ここで恐怖に怯えていなければならないのか。
それが、なによりの恐怖だった。
そんな集団の中に、ひばりはいた。
手には、電源を落としたスマホが握られている。竜士との電話を勝手に切ったのは、敵が音に敏感だと分かったからだった。
確かにスマホの電源を落とすのは、一番の安全策だ。
が、見方によっては愚策とも取れる。
音を出さずに外と通信する手段はある。それを自ら遮ってしまっているのだ。
そしてそれはすなわち、人間と化け物の臆病者決めを意味していた。
「…………っ」
息をすることすら、恐ろしい。
自分で息を止めたまま、窒息死してしまいそうだ。
隣の人間が、お互いに怯えて、嫌な緊張感が蔓延している。
声を出すなよ。お前も出すなよ。お前もだ。お前も。
一時間が経ったと感じた。実際は十分だった。
二時間が経ったと感じた。実際は五分だった。
「……………………ぅっ」
気付いたら、私は涙を流していた。口を手で必死に押さえ、少したりとも声が漏れないようにと努力するが、その分嗚咽が増えた。
「……っ…………っ」
どうしよう。私のせいでアイツに見つかったらどうしよう。私のせいで皆が死んだらどうしよう。私のせいで。私のせいで。私の。私の。私の私の私の私の私の私の私の私の私の。
溢れ出る負の思考に押し潰されそうになったその時、肩に手が置かれた。優しく、労わるような手。
横を見ると、ひばりと同年代程度の女子高生が、同じようにして泣いていた。声は出していない。だが、相手が伝えようとしている事はすぐに分かった。
ひばりが首を小さく振ると、相手もまた小さく振った。
ガキッ──。
音。
誰もが身を固めた。そして化け物を凝視する。
気付かれてはいない。だが、化け物が何か変だ。顔を上げ、天を拝んでいるような──。
パッと、電気が付いた。
建物中の、全ての電気が。自分達を、ひばりを覆い隠していた薄暗い闇が、突然取り払われた。
そして、化け物の姿を見た。
蟻。巨大な、蟻。
だが、普通じゃない。
スズメバチみたいな、恐ろしい顔、目立つ黄色の模様。
『────キィィィィィァァァァァァァァアアアアッ』
世界が凍ったように錯覚した。
──見られた。化け物が、見ている。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああ!?」「きゃあああああああああああっ!」「逃げっ」「どけっグズ共ッ!?」「死にたくない死にたくない」「いやだぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああ」
来る。こっちに、来る。化け物が、来ている。
思考が止まったまま身体も動かせないひばりは、その化け物をしっかりと見ていた。
逃げようとする人達が叫ぶまで、化け物は確かにこっちに気付いてはいなかった事を。つまり、叫んだのはフェイク。カマをかけられたとでも言うのか。
有り得ない話ではなかった。
化け物相手に、どこまで常識が通用するかどうか。
「ちょ、ちょっと、逃げないと、死んっ、死んじゃうっ!」
ひばりが静かに視線を向けると、つい少し前に慰めてくれた女子高生が、ひばりの腕を引っ張っていた。
だが、ひばりの身体は動かない。足が鉛になったように。
「ねぇっ、ねぇってば! 逃げようっ! はやくっ!」
ねぇ。どうすればいいの。竜士。
まだ、言いたいこと、あるのに。
死んじゃうかも。私。
ここで、あんな化け物に。
ねぇ。
どうすれば──。
ピリリリリリ。
着信音。
竜士。
いつ、携帯に電源入れたっけ?
まぁいっか。
いいのかな?
いっか。
着信。
「そんなことっ、してる場合じゃ──」
最後ぐらい、竜士の声を聞いて終わりたいんだもの。
『かがめぇぇぇッ、ひばりぃぃぃぃぃいいいいいッッ!!』
あれ、それじゃあ、まるでもう少しで助けに来てくれるような言い方──。
あ。
ほんとうに、来てくれてるの──?
その声は、ひばりの心の奥深くに染み込み、動かなかった身体をほぐした。そして咄嗟に、隣にいた女子高生の手を引っ張っていた。
動けなかったひばりが、突然自ら動くとは思っていなかったのだろう。
「ちょっ……」
ひばりにのしかかる形で引っ張ってしまい、二人は抱き合うような形で床に倒れた。
「ちょっとだけ」ひばりがそう言うと、何言ってるのというような顔をして見ていたが、すぐにそれを信じたのか、じっと動かなくなった。
「なんなのよ……」
その一言からひばりは、諦めただけだと察した。
そんな事ないよ、と微笑んで語りかける。
「私、ひばり。沙乃宮ひばり。大丈夫だよ。もう大丈夫。名前も知らない、優しい人。私を励ましてくれた人」
音が聞こえた。
化け物の足音と、もう一つ。
爆音。
コンクリートの壁が壊れるような音だ。