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~trois~

後篇となります。


 


 ゴトゴトと揺れる馬車。

 その外装は貴族が乗るに相応しいかと言えば……少々質素であると言っても良い。

 勿論、市民が利用するそれよりは立派な造りではあるのだが、中に乗る貴人の身分を考えれば少々不安が残るかもしれない。


「……お兄様、お義姉(ねえ)様……。わたくし、お邪魔ではなかったのかしら……?」


 出来得る限り振動を抑え、内装も貴人を乗せるのに相応しい豪奢な造りの車内で、頬に手を当て、コテン、と首を傾げながらララティーナが前方に座る二人の男女に尋ねている。

 外装は質素に、けれども機能と内装には最大限の配慮を、という、その馬車の設計コンセプトはつまりそういう事であり……もちろん最高級品であった。

 その中でララティーナと対峙するかのように並んで座る二人の男女──クリストフ・ド・ジーベルージュ、ララティーナの実の兄である彼と、先日彼との婚約を発表したアーリエッタ・デュ・ヴェーリ。

 二人は今、心配そうな表情を自分達に向けるララティーナに蕩けるような微笑みを向け、いかにも楽しそうに笑っていた。


「何を言うんだ、ララティーナ。一緒に旅行をするなんて久し振りじゃないか! 私にとってこれ以上の至福の時間があるものか!」


 ……と、婚約者を放っておいてクリストフは上機嫌である。


「そうよ、ララティーナ。親睦を深めるのに共に旅をすること程有効な手段はないですわ。……宿泊先の屋敷は、ジーベルージュのお屋敷程広くはないと言いますし、一緒にお風呂に入りましょうね」


 ……と、こちらも婚約者を放っておいて上機嫌のアーリエッタ。

 元々は政治的な理由から婚約をしたという二人だけれど、似た者同士、存外相性は良いのかもしれなかった。


「お二人共、軽食はいかがですか? サンドウィッチをご用意致しました」


 ……と、もう一人の同乗者、ララティーナの従者であるリオネルが、魔法のように何処からかサンドウィッチを取り出して二人に勧めている。

 勿論、クリストフにもアーリエッタにも従者はいるのだけれど、リオネル程の能力はなかった為、別の馬車にて移動をしており、車中の貴人のフォローは彼に一任されている。

 最も、何とかしてララティーナと絡もうとするクリストフとアーリエッタにとり、リオネルは時たま邪魔な存在ではあるのだが……目の前に取り出されたサンドウィッチの美しさに思わず手を伸ばしてしまう。


「鴨のローストとキャロット・ラペをメインにご用意致しました。一口で召し上がれるように切り分けてございますので、どうぞ」


 ニコリと微笑み、不便な馬車の中だというのに皿をピクリとも揺らすことなく、二人の前に差し出している様は流石と言った所か。

 そんな彼の完璧な従者の仮面の下には深刻な腹黒さも備わっている事を知らないのは、この場に於いてはララティーナだけである。

 だが、付き合いの長いクリストフは勿論のこと、ララティーナに絡む事の多いアーリエッタもそんな事はとっくに承知しており、提供されたサンドウィッチの美味しさに感動の表情を見せていた。


「ララ様もいかがですか?」


 前方の二人に向けた作り物の笑顔とは打って変わり、慈愛を込めた優しい瞳でリオネルがララティーナにもサンドウィッチを勧める。

 彼にとっては、主人である彼女にこそ食べて欲しかったのだけれど……ララティーナは何処か寂しげに微笑んで首を横に振った。


「ありがとう、リオネル。今は少し食欲がなくて……。折角用意してくれたのに御免なさいね」

「……いえ。慣れぬ旅でお疲れでしょう。ではせめて、甘い飲み物でも用意致しますので、お寛ぎ下さい。

 ……お疲れでしたら、私に寄りかかってお休み頂いても大丈夫ですから」


 心配そうに自分の顔を覗き込むリオネルに、ララティーナは少し困ったように微笑んだ。


「もう、リオネルったら……。貴方は少しわたくしを甘やかし過ぎですわ。このままではわたくし、貴方なしでは何も出来なくなってしまいそう……」


 ポツリと呟いた彼女の言葉を拾い、車内の人間達が各々反応を示した。


「……光栄です、ララ様。大丈夫です、私はいつまでもずっと、貴女のお側におりますから」……と、非常に満足気な表情のリオネル。

「何を言う、ララティーナ! リオネルなんかいなくてもお前はいつも完璧だ!」……と叫び、リオネルに氷の視線を寄越され、ヒッと情けない声を上げるクリストフ。

「そこに本当に、従者としての使命だけがあるとは限りませんわねぇ?」……とコロコロと笑うアーリエッタ。彼女の言葉に、リオネルも少しバツの悪そうな表情だ。


「皆様、楽しそうで何よりですわ。お仕事ではありますけれど……長旅になりますものね。わたくし、ご一緒出来て本当に嬉しいですわ」


 花が綻ぶような笑顔、とはこのような表情の事を言うのだろう。

 それを、絶世の美貌を持つララティーナが放つのだからその破壊力は凄まじいものであった。

 ましてや今、車中にいるのは熱烈なララティーナ信者の三名、それがごく間近で、言われて嬉しい言葉と共に食らってしまった。


「「「……くっ……!」」」


 ……結果、三者三様の仕草ではあるものの、期せずして言葉を同じくして、それぞれ目や鼻や口に手を添え、ララティーナから視線を反らしている。

 そんな彼らを、ララティーナは不思議そうな表情で、コテン、と首を傾げて眺めているのだった。



 ……さて、そんな彼らが向かっているのは王都から南にあるクーヴレール領。

 この時期、出荷されるのを多くの貴族や王都民が心待ちにしているワインの流通量が、今年は酷く少なく、国王の依頼でその原因究明に乗り出すことになったのだ。

 勅命を下されたのはジーベルージュ公爵家、当主である父が手の放せぬ案件があるからと、父の名代で彼の地に嫡男であるクリストフが向かうことになった。

 彼はクーヴレール家の次男・シエルと同じ歳で、同じ学院に通っていた時代に親交があった経緯もあり、彼等の『もう一つの目的』の為にも適任と言えた。

 そして、交易を得意とするデュ・ヴェーリ家から、屈指の審美眼を持つ彼の婚約者であるアーリエッタも同行を依頼され、彼らとリオネルのたっての希望でララティーナも同行することになったのだ。

 正直、ララティーナにもその土地で起きている出来事と、尊敬する教師の現状は気になっていたので、学生の身でありながら長期出張をするという事に承知し、今に至る。


 クーヴレール領。王都の南にあり、温暖な気候と葡萄畑が広がる、穏やかで優しい土地。

 ──今、その土地に戻っているという、ララティーナの通う学院の音楽教師、シエル・クーヴレール。

 稀代の作曲家であり、学院でも音楽教師として生徒達から人気のあった彼。

 ララティーナはもう一度彼に逢って、自分の胸に去来している寂寥感の正体を確かめたかった。

 何しろ、彼が学院を去ってから、あれ程身を入れていた授業にも集中出来ないし、何故だか溜め息ばかり出るし、食欲すらなくなってしまう程なのだ。

 ……もしかしたら、という予感めいたものは、流石の彼女にもあったのだけれど。

 その正体については、やはりもう一度シエルと逢って話をしなければハッキリしないと思ったのだ。


 そして、そんなララティーナの心中などお察しのリオネルとアーリエッタ、つい最近、それを聞かされたクリストフ。

 それぞれの想いはあれど、その根底には『ララティーナの幸せ』を切に願っている彼らにとり、この遠征は勝負であると言えた。

 各々の切ない想い、野望、そして少しの義務感を乗せ、馬車は進む──南に向かって。



 ***



「クリストフ卿! よくお越し下さいました!」



 約一週間の旅路の末に辿り着いたクーヴレール領。

 最高級の馬車とリオネルのフォローのお陰でさしたる疲れも感じる事なく目的の地に辿り着いた一行を出迎えてくれたのは、クーヴレール男爵家の長男、エドガール・クーヴレール。

 シエルの兄にしてこの領の跡継ぎ──最も、その優秀な政治手腕は有名で、今やこの領地は彼が仕切っていると言っても過言ではない。

 シエルに良く似た亜麻色の髪を丁寧に撫で付けた彼が、友好的な微笑みでクリストフに向かって右手を差し出している。


「エドガール卿。此度は突然の訪問にも関わらず受け入れて頂き、恐悦至極です」


 この旅団の一応の団長であるクリストフが表の顔で微笑んでその手を取った──彼とて名高きジーベルージュ公爵家の次期当主、唯の妹好き(シスコン)ではないのだ。

 そんな二人の一歩後ろで、完璧な淑女の礼(カーテシー)を披露しながら頭を下げているアーリエッタとララティーナ、そしてその更に後ろには完璧な執事の礼のリオネル。

 美形ばかりが揃ったその面々に、周囲の家臣達は若干怯んでいる様子である。


「……いや、こちらから報告せねばならぬ所なのに、わざわざご足労頂き、申し訳ないのはこちらの方だ。

 ともかく、長旅でお疲れだろう。茶の席を用意させておる故、ゆっくりと寛ぎながら話をさせて貰いたい」


 こちらへ、と、クーヴレール家の使用人が一行を案内する。

 礼を解き、ララティーナ達一行もその後に続くと、案内されたのは立派な薔薇が咲き誇る庭園で……そこには、病気と知らされている現クーヴレール当主が温和な笑みを称えて鎮座しており、

 その傍らにはシエル──ララティーナがもう一度逢いたいと願っていた彼が、温和な微笑みで彼らを迎えてくれていた。


「……シエル先生……」


 思わずその名を呟くララティーナ。

 その声色には切なる想いが籠められているようで、ララティーナ信者の周囲の人間としては嫉妬を感じざるを得ないものだったが……今、彼らの職務は当主の容体の確認である。


「クーヴレール男爵閣下、お体の具合が悪いと聞き及んでおりましたが、起きていらして大丈夫なのですか?」


 彼らを代表してクリストフがそう問えば、当の男爵は困った様に微笑んで言った。


「ははは、私の不調なぞ、長く家を開けていた二男の帰省ですっかり治りましたよ! 市民には心配をかけましたが、この通りピンピンしております」


 トン、と胸を叩いてそう語る彼は、確かに血色も良く、全く病人には見えない。

 不思議に思う彼らに席を勧め、事のあらましを説明してくれるのだった。


「……シエルが稀代の作曲家として王都でも人気を博しているのは知っております。かく言う私も息子の音楽のファンでしてなぁ。

 家督はエドガールが立派に継いでくれそうですし、シエルには自由に音楽活動をさせてやろうと思ってはいたのですが……」


 茶を啜りながら眉を顰める男爵。

 尚、クリストフの一行も着席と同時に茶を勧められたのだが、リオネルの給仕に慣れている彼らはだいぶ舌が肥えており……一口啜っただけで茶碗を皿に戻し、黙って話を聞くに留まっている。


「ですが、シエルも良い歳ですし、そろそろ婚約者を決め、人並みの幸せをと考えておったのです。ところがコイツは全く家に寄り付こうとはせぬ。

 そこで流言を放ち、呼び戻した次第なのですが……どうやら市民にも流布してしまったようで。いやはや、ご心配をお掛けし申し訳ございません」


 眉を顰めて頭を下げるクーヴレール男爵と、その息子二人。

 どうやらここに来た名目上の目的であるワインの出荷量の低下については、程なく改善される見込みであるようだ。

 だが、別の目的であるララティーナの幸せについては……今、大きな壁が立ち塞がった。


「……シエルの結婚、ですか……」


 絶句したクリストフが一同を代表してようやく言葉を口にする。

 そんな言葉を聞き、ララティーナの顔面は既に蒼白で、椅子に座っているにも関わらずフラリと倒れそうな程であるが、「ララ様」と、リオネルがしっかりと支えていた。

 自分の気持ちを確かめようとやって来たら、相手は既に手の届かぬ所へ旅立とうとしているのだ、ララティーナの絶望は計り知れない。

 だが、そんな彼らに対し、当のシエルが慌てたように口を挟んだ。


「……全く、父上はせっかちが過ぎるのです。私はこの手を音楽の女神に捧げた身。私の音楽を世の人々が楽しみに待っていてくれているのですよ。

 それに、今は教師としての仕事にもやりがいを感じているというのに……嘘までついて私を呼び戻すなど、人が悪いにも程がありますよ」


『音楽の女神』の下りでチラリとララティーナに視線を寄越すシエル。

 当の本人はショックでその様子を見ることが出来ずにいたのだが……この時、リオネル、アーリエッタは確信を強め、クリストフでさえ軽い嫉妬の念を抱いたものだ。


「私の幸せをそれ程までに願って下さるお気持ちは大変嬉しく思います。けれど私は……私の心は女神の掌中にあるようだ。

 クリストフ、お前が来てくれて確信に繋がった。私にとっての幸せは、奏でる音楽にこそあり……今こそハッキリと形にしなければならないと。……お前は気付いていたのだな」

「……ああ、シエル。私の目的もそこにあるのだよ。女神に溜め息は似合わないからな」


 突然通じ合った男達に付いて行けていないのは、今や男爵とララティーナだけだ。二人とも、パチパチと瞬きを繰り返して困惑したように周囲を見渡している。

 だが、ララティーナの周囲の人々は安心したように微笑み、彼女に優しい視線を向けていた。



「我々国民にとり、女神の幸せは何よりも叶えねばならぬもの。シエル……自覚したのならばヘタレの仮面を脱ぎ棄てて勝ち取れよ」



 寂しさの中にも満足気な色を乗せたクリストフがシエルにそう告げる。

 その言葉にシエルも力強く頷き……取り残された約二名(その片方は当人でもあるのだが)をよそに、その時、ララティーナの『幸せ』への道が開かれたのであった。



 ***



 その夜。

 リオネルも辞した時間だというのに、宛がわれた部屋の扉を優しく叩く音に、ベッドに腰掛けて読書をしていたララティーナは不思議な気持ちになる。


(──どなたかしら? こんな時間に……)


 夜遅くに淑女の部屋を訪ねるなど、余程の緊急事態かと、少し心配になったララティーナが扉の前に立ち、それでも開け放つのを躊躇っていると、


「夜分遅くに申し訳ありません、ララティーナ嬢。シエルです」


 と、優しい声が聞こえて来た。

 良く知る人物の突然の来訪に、若干心をときめかせてララティーナはそっと扉を開けた。

 普段の彼女であればあまり見られない行動だ。しかも普段であれば夜着に着替えている時間帯。

 だが、その日は何故だか、このシエルの来訪を示唆するかのようにララティーナは未だドレスのままであったし、リオネルもお召し替えは後で侍女を寄越します、と言って早々に辞してしまった。

 一人取り残されたララティーナは、ドレスのまま横たわる事も出来ず、また横になったとしても今日の事もあり、寝付けそうになかった為に本を開いて文字を追うだけの、読書と言うには少々虚しい時間の遣い方をしていた所であった。


「シエル先生、どうされたのですか?」


 そっと開かれた扉から顔を出したララティーナの頬は、仄かに桃色に染まっていた。

 こんな時間に一人で男性の訪問を受けるなど、彼女にとって初めての事なのだ、緊張していても可笑しくはないのだが……そんな表情が他人──特に男性に齎す影響、という物を彼女は全く理解していないらしい。

 だが、その日の訪問者のシエルは幸いにして大人であり、彼女の教師という一面もある為、その表情を受けた衝撃はどうやら上手く内面に隠すことに成功したようだった。


「こんな時間に失礼します。実は、我が家の庭園のガゼボは月明かりを受けた庭の様子が最も魅力的に見える配置になっていましてね。そして今夜の月は格段に素晴らしい。

 ……お疲れかとは思ったのですが、折角こんな遠方にまで足を運んでくれた君に、私が一番好きな景色を見せて差し上げたいと……無礼を承知で罷り越した次第です」


 優しく微笑みながらそう告げるシエル。

 もしかしたら、彼こそが自分の『特別』なのではないか、という意識を持ちつつあるララティーナにとり、突然のその誘いは非常に魅力的であった。

 そして今こそ、自分の気持ちを確かめるに相応しい時なのではないかと言う思いもあり、彼女はフワリと微笑んで言った。


「……まぁ! それは素敵ですわね! 是非拝見させて下さいませ、シエル先生」


 未だ着替えも済ませておらず、結い上げた髪もそのまま。見れば、シエルも日中に対面した時のまま、正装に身を包んでいる。

 だが、今はそれが当然の事であるかのように、ララティーナは「良かった」と微笑みながら呟いたシエルにエスコートをされ、庭園へ向かった。

 そうして辿り着いたガラス屋根のガゼボの中には、大人二人が並んで座るのがやっと程度の小さなベンチと小さなテーブルが配置されており、そこにはブランケットと、テーブルの上にはデキャンタとグラスが二つ。

 ……この秘密の夜のデートはなる程、計画されたものなのだとララティーナも気付いたが、そこは気付かないフリでエスコートをされる程度の気遣いは出来る淑女である。



「……本当に素敵な場所ですわね……」



 ララティーナが思わず感嘆の声を漏らす。

 ベンチを勧められ、その膝に優しくブランケットを掛けて貰ったララティーナがガラス屋根の先の空を見上げれば、今夜満月を迎えたと思しき月が、ちょうど彼等の視線の先に浮かんでおり、優しい光が庭園を照らしている。

 昼間の庭園もそれは美しい景観なのだろうが、確かにシエルの言う通り、このガゼボの中からは月明かりに照らされた庭の様子が最も美しく見えるように設計されているようだった。



「夜というのは不思議と寂しくもなるものですが……何故だか私は、昔から昼より夜の方が好きでしてね。そしてこんな月夜には、よくここで作曲をしていたのですよ。

 この中では不思議と自分の描きたい音楽が頭の中に響いて来る事が多かったですから。

 何もなくても、ここで思いを馳せていると、悲しいことや心配な事も小さな事に思えて来てね……言ってみればここは、私の秘密の場所なんです」


 小さなベンチで、ララティーナの横に座ったシエルが優しく微笑んでそんな言葉を告げる。

 その、少し動けば肩が触れそうな距離にドキドキしながらも、ララティーナは黙って庭園を見つめていた。

 触れずとも感じるその体温は、恥ずかしさと共に安心を彼女に齎してくれている。


「……素敵ですわね」


 多くの言葉を告げるのは野暮なような気がして、ララティーナはフワリと微笑んでその一言にあらゆる想いを詰め込み、月の女神へと賞賛を送った。

 自分が夢中になった彼の音楽がここで生み出されたという事に、深く感謝を捧げながら。


「そう言えば、こうして貴女と教室以外の場所で話をするのは初めてですね。

 ……けれど、何故かな。君との連弾は会話以上に心を通わせられる気がしていてね……。ハハ、私の勝手な思い込みなんですけどね」


 照れたように笑うシエル。

 いつも大人の対応をしてくれていた彼の、子どものように笑う意外な一面に触れ、ララティーナはつい、クスリと笑ってしまう。


「いえ、解りますわ、シエル先生。先生との連弾の最中は、わたくしもかなり想いを吐露して饒舌になりますもの。勿論それは『言葉』ではありませんけれど……言葉だって音の一つですものね。

 けれど、先生がわたくしの音の中に言葉を見つけて下さっていたのだとしたら……わたくし、かなり情熱的で自分の気持ちに素直な、子どものような人物、という事になってしまいますわね」


 恥ずかしいですわ、とその白皙の美貌にポッと朱を乗せるララティーナ。月夜の中にあっても尚、その様子はとても蠱惑的であった。

 そんなララティーナの言葉に、シエルもまたクスリと笑いを落とす。


「そうですねぇ……。君がもし、私の演奏の中に言葉を見つけていたとしたら、私もまた情熱的で……臆病なのに焦がれる気持ちを捨て切れない、面倒臭い男だという事がバレてしまっていたかもしれませんね」


 呟くようにそう言ったシエルがふと、隣に座るララティーナの美しい横顔に視線を向ける。

 それに気が付いた彼女が顔を向けると、今までに見たこともないような真剣な色を瞳に乗せたシエルと目が合った。

 その射抜くような力強さに何故だか目を反らす事が出来ずにいると、その瞳は途端に何処か泣きそうな寂しさを伴ったものに変わる。


「でも、それに甘えていてはいけませんね。本当に伝えたい事は、やはり言葉にして伝えなければ。

 ……ララティーナ、私はずるい人間です。君に届けと音楽を紡ぐ反面、言葉とはどうしても違うそれが、正確に君に届く事がないのも知っていた。

 ……出来ればずっと、君とは言葉なんて野暮なものじゃなく、美しい音楽の遣り取りで『対話』をしていたくて」


 だけどね、と、彼女から視線を反らし、俯いたシエルが言葉を続ける。

 ララティーナはただ黙って、彼の言葉を聞くことしか出来ずにいた。余計な言葉で、彼の告白を妨げたくはなかったのだ。


「君に、私の想いが届けば良いと願っていたのは本当の事です。

 ララティーナ、君は美しい。容姿もさる事ながら……私はやはり、君の紡ぐ音楽に、そしてその中に込められたであろう心根にとても惹かれて……いつしか魅了されてしまった。

 けれど……私は教師で君は生徒、そして貧乏男爵の次男である私と君とでは、立場も身分もまるで釣り合っていない。だから、父の急病が流言であることを知りながら……逃げたんですよ、君から、自分の気持ちから」


 紡がれる、シエルの告白。

 それは身を斬るような痛みと共にずっと押さえつけていた心情を初めて言葉に乗せる少年のように素直で……そして戸惑いと少しの後悔の色が彼の全身を包んでいる。

 自分から目を背け、ギュッと両手を色が変わる程に握りしめながら言葉を紡ぐシエルの肩に、ララティーナはそっと触れた。

 ……彼女はこの時、気が付いたのだ。自分はこの人の側にいたいのだと。

 優しく微笑んでくれるシエルも、それは好きだった。その紡ぐ音楽には憧れたし、今でもそれは心の奥に一番大切なものとしてそっと、真綿に包まれるように保管されている。

 けれど、今、こうして素直な気持ちを吐露してくれている彼。

 そんな彼の姿が、自分の胸に一番響くものであると気が付いたから。そして、やっぱり彼にはそんな苦しそうな姿ではなく、いつものように優しく微笑んでいて欲しいと願ってしまったから。


「……シエル先生、嬉しいですわ、とても……」


 フフッと悪戯っぽく微笑んでそんな言葉を告げるララティーナを、シエルは少し涙の滲んだ瞳で見つめている。


「先生の中のわたくしが、どのような女性像なのかは存じませんけれど……知っていますか? 本当の私は案外ポンコツで、苦手な物も多いんですのよ」


 そうだ、自分は完璧などでは決してない。

 公爵家の令嬢として、少し前までは王族の婚約者として、世間の模範たれと育てられて来たし、それを目標にもして来たし、苦痛に思ったことなど一度もない。

 これからも努力は続けるし、国の為、国民の為、今まで培って来た知識と経験は、特に王宮や公の場では披露し続けるだろう。

 ……けれど、たった一人で良い、弱みを見せられる存在が欲しかった。心情を吐露しても引くことなく、それを受け止めてくれる相手が欲しかったのだ。

 彼は、今までは『音楽』という場においてだけではあったけれど、自分の本音を受け止め、そして優しく返してくれた、唯一の人。

 ただその『対話』に、どれ程自分が救われていたことか。

 けれども、ただの感謝とも違う。そこにあったのは、もっと情熱的で強い気持ちであったと、唐突にララティーナは理解する。


「わたくし、苦い野菜は苦手で今でもピーマンが食べられませんのよ。それから料理もしたことがありませんし、勉学も、解剖学はちょっと苦手ですわ。

 社交界で微笑んでいても、話を聞いていない事もありますし……それに」


 そこまで言ってララティーナはそっと、シエルの片手を両手で優しく握る。

 ……嗚呼どうか、不器用なこの人に自分の言葉が伝わりますように、と。



「本音など、どなたにも語った事がありません。偽りの仮面を被り、淑女然と振る舞っていただけのわたくしを解放してくれたのは……シエル先生、貴方だけでした」



 生まれて初めての心の吐露。だが、ああ何故だろう、この人の前でだけは、貴族でも優等生でもなく、一人の人間として存在していられる。

 今ここに『音楽』は存在していないけれど……

 不思議なことに、自分の口から放たれるその『言葉』は、至上の音楽以上にありのままの自分を、表現出来ているのではないか。

 ララティーナは生まれて初めて感じるその解放感と幸せに戸惑い……その美しい瞳に涙を浮かべる。

 だが、そんな彼女の言葉を聞き、握られた手を握り返したシエルは。


「……ララティーナ、待っていて下さいませんか。君が社交界に正式に放たれるその時までに……必ず君を迎えに行く。

 そして君の本音を受け入れる事の出来る唯一の存在となり、これからも外の世界で仕事をし続ける君の受け皿たるに相応しい存在となり、君の前にきっと立ってみせましょう」


 そうして、握ったままのその手をそっと唇に寄せ、その美しい指先にチュッと音を立てて口付けるシエル。

 その表情は、先程までの切羽詰まったものとは違い、使命感と優しさと……そして限りない深い愛の中に、少しの「男」を滲ませる色っぽいもので。



「……ララティーナ、知っていますか? 東の果てにあるという国では、愛を囁く時にこう言うそうです」



 ──月が綺麗ですね、と。



 そんな言葉を掛けられたララティーナが、涙の浮かんだ瞳でそっと空を仰げば、そう、確かにその日の月は、以前、部屋の中で見た月の何倍もの光を放っているように見える。



「……シエル先生、月は……ずっと以前(まえ)から綺麗ですわ」



 社交界にいるララティーナにとって、手にキスを受けた事など、もちろん初めてではない。

 だがしかし、その日、シエルから受け取ったキスには、今までは違った意味と想いを感じることが出来た。

 ……そして、今や自分の想いを自覚した彼女にとり『想い人』たる彼が言外に愛を滲ませる言葉を自分にかけてくれ、待っていろ、と、確かに言ったのだ。



「シエル先生、わたくし、その時が例え寿命の尽きる時であろうとも……ずっと、お待ちしております」



 そんなに待たせる訳がないでしょう、と、苦笑したシエルがそっと彼女の肩を抱き。




 その、月明かりが最も美しく見えるというガゼボの中で、生まれたばかりの恋人達が、そっと寄り添い……

 ……月の女神だけが今、二人を優しく見守っていた。






 ……と、いうのは勿論物語上の美しい大団円で。


「……待てリオネル! 今飛び出したら元も子もないだろう!」

「何を仰います、クリストフ様! 今、我々の女神がヘタレの毒牙にかかろうとしているのですよ!? 今止めないでいつ止めるのですか!」

「手前勝手な理屈は身を滅ぼしますわよ? 見て御覧なさい、ララティーナのあの幸せそうな笑顔を……! ヤバいですわ、鼻血が……」

「アーリエッタ様、確かに仕向けたのは我々ですが、あんな告白はないでしょう!? 何ですか、月が綺麗だなんて! ララ様は鈍感なのです、もっと直接的に言って頂かないと!」

「あら? これ以上ない位、美しい告白だと思いますけれど?」

「確かにあれはない。あれでは月の女神に愛を囁いたと勘違いされても仕方がないではないか!」

「……ハァ、これだから芸術を理解しない殿方は……。あのシエル様にあんな告白をされてトキめかない乙女などいませんわ」

「「あれの何処が告白だ!?」」


 シエルとララティーナの居るガゼボから少し離れた茂みの中で、傍観者達(デバガメ)がそんなやり取りを交わしていたことなど……もちろんララティーナもシエルも知らずにおり。

 後に事実を知った際に「覗き見なんて止めて下さいましっ! は、恥ずかしい……!」と頬に朱を乗せて照れまくるララティーナの可愛らしさに、

 この時の傍観者達のみならず、その場にいた侍女や使用人たちまでが悶えまくり暫く仕事が手に付かない事態になってしまったのは言うまでもない。



お読み頂き、有り難うございました!

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