~due~
フゥ、と一つ。
月の女神の化身ではないかと見紛う程の美貌を誇る銀髪の少女が、その可憐な唇から溜息を漏らした。
睫毛を揺らすその瞳は何処か切なげで哀愁を漂わせ、見る者の心に得も言われぬ悲哀を齎そうかとするようだ。
だが今、彼女の周りに侍るのは静寂と月の光のみ。
常に彼女に付き従っている従者でさえ辞したその部屋の中で、白い夜着の上にストールを羽織ったララティーナが、そっと窓に手を添え、空に浮かぶ月を静かに眺めていた。
(──わたくしったら、どうしたと言うのかしら? 気も漫ろで授業にも集中出来ないなんて、今までになかった事だわ)
ふと、月に向けていた瞳を己の手へと落とす。
そして思い出すのは、あの日奏でた演奏のこと。
自分の音を更に高めてくれる聞いたこともない響きを、惜しげもなく奏でてくれた教師。
彼に呼応するかのように未知なる音源に向かって高みを駆け上ろうとする、あの興奮。
何ものにも捕らわれず、何処に向かっているのかすら解らない音色が、それでも予め決まっていたかのような調べを紡いだ、あの時間。
……幸せであったと、心から楽しかったと、思う。ずっとこんな時間が続けばと、望んでいたのは否めない。
けれどそれは有限の時間だ、どんな音楽にも、いつか必ず最終楽章は訪れる。
だからこそ、音楽は尊い。そう、教えてくれたのは他ならぬ彼ではなかったか。
「……シエル先生……」
ポツリと呟いた言葉に、ビクリとする。
名前など、呼ぶつもりはなかったのに。
「……あら……わたくしったら、どうしたのかしら……?」
見つめていた手の甲に、ポタリと落ちる熱い水。
それが自分の瞳から零れ落ちていると気付くまでには、少し、時間が掛った。
泣いた事が、ない訳ではない。
けれどそれは、飼い猫が突然命を落としてしまったり、学友が遠くに転校してしまう前の日の晩のことだったり……あるいは、長年心を尽くして支えていた元・婚約者に呆れ果てた瞬間だったり。
とにかくそんな、言い様の無い切なさが胸を打つ時に溢れるものだと自覚していた。
だが今、自分の胸に去来するのは……
(──そう、なのね。わたくしは、シエル先生とお別れするのが、寂しかったのだわ)
どんな時でも優しい笑顔を向けてくれていた教師。
彼によって創造された音楽に、夢中になった。
学院に教師として赴任して来たと知った時の興奮は、今でもハッキリ覚えている。
彼の生み出す素晴らしい音の螺旋は、王侯貴族、市井を問わず人々を癒し、興奮を齎し、そして時には込められた哀愁の響きに涙すら流した。
──中でも自分は、明るく弾ける音が一番好きであったと、思う。
だからある時期、紡ぎ出すその音が悲しみに彩られる事が多かったのが気になって……会いに行ったのだ、シエルに。
『シエル先生! わたくし、最近の先生の音楽より以前の音の方が好きですわ! 最近の音は、何故だか泣いているように聞こえるのですもの!』
三年程前、だっただろうか。
未だ十五歳、酸いも甘いもまだ判別出来ぬ雛鳥のような小娘だった自分が……義憤に燃えた英雄のような気持ちで、彼の教室を訪れたのは。
貴族として、淑女として。
感情を胸の底に押さえ込み、偽りではなかったにせよ常に笑顔でいようと努めていた自分が、本当に珍しく感情を露わにして彼に指を突き付けたあの日。
──教師は確かに、笑ったのだ。仄かに寂しさを残した瞳で。
『ジーベルージュ公爵令嬢。貴女がそのように大きな声を出すなんて珍しいですね』
弾くでもなく、ピアノの前に座っていたシエルが、そう言って自分を迎えてくれたあの日。
──心に、何かの棘が刺さったかのように、きゅん、と心臓が波打ったのを覚えている。
そうして彼は言った。「未知なる音源の探究に行き詰っている自分に気付いたのは、貴女が初めてですよ」と。
お手伝いしますわ、と、生意気にも言ってしまった自分を、思い返せば恥ずかしいとは思うのだけれど。
その日初めて「弾いて、ララティーナ」と請われ、彼の奏でる音に呼応するように演じた『即興』。
あの日の興奮は──今でも忘れない。
自分にこんな事が出来るのかと驚く間もなく、音が、紡がれる。指が勝手に鍵盤を叩く。
そして、自分の奏でた音を包み込み、更に飛翔させるかのように彼もまた……自分が夢中になったあの明るく優しく楽しい音を奏でて行く。
彼の音を、自分が次の音階へと導いているという、感動。釣られるようにまた知らない音を求めて鍵盤を彷徨う指。
……ああここで指が折れ、二度と演奏が出来なくなっても後悔しないとすら思える、至福の時間。
だがしかし、次の瞬間には、更に自分の音が彼によって次なる高みへと連れて行かれ……
(──ああ、そうですわ。あの後何度も先生とは演奏させて頂きましたけれど……あれが今までの私の人生で一番の演奏、だったのですわ)
貴族は、感情に任せて出鱈目な音階を奏でる事を由としない。
既存の楽譜に想いを乗せて伝える事が雅とされている時代にあり、楽譜のない音楽など、軽蔑されるに違いない。
自分が奏でる音楽は、作曲、という思考に基づいた高尚な物ではなく、只管に自分の感情を恥ずかしい程に顕現させているだけのものなのだ。
……けれど、その日の音楽は確かに、素晴らしかったのだ。
それこそ、今でもその旋律が耳に残って離れない程に。
(──シエル先生は、二度と学院には戻らないかもしれない。貴族が実家に戻るなど……有事でしかないことだと、理解るでしょうララティーナ?)
実家で何かが起こり、呼び戻された。だからシエルも言ったではないか、教師を辞める事になるかもしれない、と。
国政は安定しているとは言え、一歩街を出ればそこは魔物が闊歩する世界。
医療技術も衛生設備も、王都から離れれば離れる程に、充実しているとはとても言えないし、市井の人々に我慢を強いている状況であることは理解している。
勿論、現状を改革しようと、王もその周囲の役職者も改善しようと動いてはいる。
だが、画期的な政策などそう出来るものでもなく、王都の周囲ではいつ、何が起きても可笑しくない状態なのだ。
そんな中で、比較的安定しているという評判の領地ではあれど、急遽次男坊が王都から少し離れた場所にある自領に呼び戻される。
……何かあったのだと、自分で無くても解る事だ。
自分は、貴族だ。それも公爵家の令嬢である。
その結婚は、公務と言っても過言ではない。そして、今年、学院を卒業すれば本格的に社交界に出ようとする自分にとり、早く夫となる存在を決めなければならないのは、貴族としての義務だ。
けれど、今の自分には、相手は誰でも同じではないかという気さえ、する。
結婚は、義務。この身はこの国の為に有る。
なれば、国にとり、この家にとり一番良いと思える相手を決めてくれと、兄にも頼んだのだけれど……。
いつも冷静な兄が、その時ばかりは眼鏡の奥の瞳を驚愕に見開き、泡を食ったような表情で何処かに走り去って行ってしまったので、その頼みを聞いてくれるかは、解らない。
父も母も、幼い頃から側にいてくれている従者のリオネルも、自分の心に添って相手を選べと言ってくれる──そう、国王夫妻まで。
けれど、ララティーナには今、自分の気持ち、とやらが解らなくなっていた。
とにかく今は、胸を締め付けるような寂寥感を隠し、日々の予定をこなすことが精一杯。
この胸の痛みが……果たしてシエルと二度と逢えないかもしれないというだけの理由なのかどうかは、解らない。
けれども、その理由の一旦は、確かにそこにあるという実感は、確かにあった。
「……シエル先生、今夜の月は何故だかとても寂しそうに見えますけれど……ああ、けれどとても美しいですわ……」
ポツリ、とララティーナが呟いた。
その言葉を現代日本にある人間が聞いたなら、誤解をしてしまったかもしれない。
──けれど確かに、その日浮かんでいた月は、広い大空の中で孤独に……けれども優しくその光を放っていて。
美しいという言葉以外を受け付けぬかのように……その日の空を優しく照らしていたのである。
***
「ララーーーー!!!!」
甲高い声を上げて、ララティーナに駆け寄って来る影がある。
側に控えていたリオネルが、咄嗟にその前に立とうとするのを、彼女は片手で制して止めた。
……こうしないと、彼女の機嫌が急降下するのだ。
そして、その抱擁は確かに力強くて、たまに息苦しいものではあるけれど……彼女にとって決して不快なものではなかったから。
「アーリエッタお義姉様。ごきげんよう」
ニコリと微笑んで礼をする彼女を、駆け寄って来た人物がギュウウウウっと抱き締めた。
「……ああ……!! 今日も超絶に愛らしいですわ、わたくしの義妹……! 貴女のような存在をこの世界に生み落として下さったお義母様にも、女神様にも感謝の念を捧げざるを得ませんわーー!!」
……心配しないで頂きたい。彼女の名はアーリエッタ・デュ・ヴェーリ、先日、ララティーナの兄・クリストフとの婚約を発表した伯爵家の令嬢である。
黒髪に金色めいた琥珀色の瞳、ララティーナにも引けを取らない豊満な肉体。そして目を引く、目元の涙黒子。
完璧に化粧を施し、薔薇のような真っ赤な紅を唇に落とし、黒い髪を美しく結い上げ、彼女の魅力を引き立たせるような紫色のドレスを纏った様は、誰が見てもハッと息を飲む程の美しさではあるのだけれど……。
「ああーー!! 可愛いララを毎日こうして愛でる事が出来るなんて、わたくし、本当に幸せ者ですわ!」
そうして再び、ララティーナを抱き締める腕に力を込めるアーリエッタ。
存外強い力に主人が「……ヒッ!」と可愛らしい声を漏らしたので、側に控えていた従者──リオネルが「アーリエッタ様、そろそろ」と意外な程の膂力を発揮してその腕を主人から引き剥がす。
アーリエッタは現在、花嫁修行と称して、このジーベルージュ公爵家に滞在しているのである。
同じ家で生活しているのだから、当然こうしてララティーナと遭遇する機会は多いのだけれど……彼女の反応は何時でも変わる事がなかった。
ララティーナにとって害になると思しき人物の排除には容赦がないリオネルだが、主人を深く想い、大切にしてくれている彼女に対しては強い態度に出られずにおり、
けれどいつか、物理的に抱き潰されてしまうのではないかという不安は拭い切れず、人知れず心配しているのである。そして……
「……あら、ララ。貴女、昨日泣きましたわね? その美しい瞳が充血していますわ。目元には微かに隈も……」
ララティーナのその人形めいた頬を軽く撫で、その麗しい顔を覗き込むアーリエッタ。
……リオネルも、気付いては、いた。けれど、彼にはそれを指摘する事は出来なかったし、どうする事も出来ないと理解っていたから。
恐らく、自分以外では気付かないであろうララティーナの微妙な変化に気付き、何とかしようと動いてくれるであろうアーリエッタの存在はまた、リオネルには心強いものだった。
どんなにララティーナを心配していても──ただの従者で、しかも男である自分には、どうしようも出来ない事は多々あったから。
「お義姉様……。わたしくは泣いてなどおりませんわ。恵まれたこの立場にあり、思い悩み涙を流すなんて……あってはならぬ事ですもの」
瞳に憂いを秘め、静かに微笑むララティーナ。
だが、全身から『寂しい』と訴えている彼女のそんな言葉は、気付いてしまった者達にとっては強がりであるとしか言い様がないものだ。
「冗談ではありませんわっ! こんな状態の貴女を放っておくなど……淑女の……いえ、この国に存在する者として許される事ではありません!
リオネル、ララの今日の予定は全てキャンセル! 学校もお休みです! 彼女は今日、わたくしと一日一緒に過ごして……心からの笑顔を取り戻す事が一番の仕事ですわっ!」
ララの笑顔が消えるなど国家の損失! 世界の崩壊! その緊急事態に尽力しないなど、貴族の名折れですわっ!
そう叫ぶアーリエッタに、リオネルはクスッとひとつ、微笑みを落とした。
……朝、自分の主人に対面した時からその異変に気付いた彼は今日の予定について調整を重ねており、既にその根回しは行き届いている。
今日、主人が逢う予定だった人物はお世辞にも候補になり得ぬ対象であったし、既に全ての授業をその何倍も深く理解しているララティーナにとり、一日、学校を休む事など何の影響もない。
「……既に手配済です、アーリエッタ様。どうかララ様の心配を取り除いて差し上げて下さいませ」
完璧な従者の礼を返して、リオネルは二人をララティーナの自室へと案内しようと彼女らの前に立ち、
「最高の紅茶とクレープ・シュゼットをご提供致します。お二人共、ご期待下さいませ」
と、不敵に微笑む。
そんなリオネルを見やり、アーリエッタは満足気に嫣然と微笑んだ。
「……やはり良く出来た従者ですわねぇ、リオネル・コーラルト。……クレープ・シュゼット、期待していますわ」
呟くようにそう言って、反論を試みようとするララティーナの腰を抱き、半ば連行するように彼女の私室へと歩く様は……
──まるで誘拐犯のようであったと、言わざるを得ない。
***
「……それで? ララ、何があったと言うのです? 貴女のその悲しみを告げて貰う事すら出来ない義姉になど、わたくしはなりたくないのですけれど」
リオネルの淹れた紅茶を優雅に口に含み、嫣然と微笑む様は流石の伯爵家令嬢と言った所だ。
アーリエッタ・デュ・ヴェーリ。由緒ある家柄にあり、その立ち居振る舞いは完璧。また、デュ・ヴェーリ伯爵家と言えば、交易を得意とし、運営する店舗は日々拡大しており、国内外にその愛好者は多い。
そんな家に生まれ育った彼女であるから、様々な商品に触れる機会も多く、その審美眼は国内でも屈指の物であると言えた。
「お義姉様……わたくし、特別な悲しみなど抱えておりませんし……己の立場には、日々感謝を捧げておりますのよ?」
苦笑して告げるララティーナを、その審美眼を称えた瞳で見やるアーリエッタ。
その瞳はまるで獲物を狙う狩人のそれであった。
「何を仰いますの、ララティーナ。言っておきますけれど、わたくしの前で嘘は無用の長物ですわよ?
特に、可愛い貴女をつぶさに観察しているわたくしにとり、貴女のそれが本音ではないなんて、火を見るより明らか。
……もし、自分でも解っていないのだとしたら、今日、この対話で詳らかにして一緒に解決するまで、わたくしは貴女から離れませんからね?」
ズイッと顔を近付けるアーリエッタに、困った様に微笑みながら「近いですわ、お義姉さま」と呟き、さりげなくララティーナが距離を置くと、
示し合わせたかのように彼女らの傍らで給仕をしていたリオネルの前のシュゼットパンからボッと炎が上がる。
そしてそのまま、出来立てのクレープ・シュゼットを美しく皿に盛り付けると、
「どうぞ、アーリエッタ様」
ニコリと……けれど何処か黒いものを含んだ笑顔をアーリエッタに向け、提供するリオネル。
アーリエッタはそんな彼の様子に軽く溜息を吐きながら、それでも提供された見事なクレープシュゼットを前に女性らしい喜色を見せた。
「……相変わらず侮れない男ですわね、リオネル・コーラルト。……けれど、この場はこの見事なクレープ・シュゼットに免じて許して差し上げますわ」
そうして微かにリキュールの香りの残るそれを口に含むと、驚いた様に瞳を見開いた。
従者としての能力には定評のあるリオネルだけれど、紅茶やお茶請けの提供に対する評価は特に高かった。
とりわけこのクレープ・シュゼットはララティーナも大層好んでおり、リオネルの腕前は王家の料理人ですら舌を巻く程なのである。
現に、リオネルに提供された皿の前では、ララティーナを包んでいた寂しさが少しだけ軽減されたようだった。
好物を前にして微笑む、年頃の少女らしいそうしたララティーナの表情を見て、アーリエッタはクスリと微笑む。
「……ララ。貴女にはいつでもそんな風に微笑っていて欲しいのよ……わたくし、その為にこの家に嫁ぐ事を決めたと言っても、過言ではありませんのよ?」
優雅に紅茶を口に含み、その整った顔に満開の薔薇のような美しい微笑みを浮かべるアーリエッタ。
ララティーナも度々月の女神、と称される美貌の持ち主だが、アーリエッタのそれは闇の女王めいた貫禄と色気を放つものであった。
今、その琥珀色の瞳は目の前でクレープ・シュゼットを食べながら、不思議そうにコテン、と首を傾げたララティーナにしっかりと固定されている。
「ねぇ、ララティーナ。貴女は結婚を、わたくしたち貴族にとっては義務のようなものだと考えているのかもしれないけれど……。
貴女がそれを望まないのならば、わたくしも、クリストフも、お義父様もお義母様も……そして貴女に仕えているリオネルだって、全力で他の道を探すお手伝いをしますわ。
……けれど、貴女は結婚を望んでいない訳ではない。其の心に住まう幸せな御仁──その方の事で、何か思い悩んでいるのではなくて?」
突然のその問いに、ララティーナは首を傾げたままパチパチと瞬きを繰り返す。
自分の心に住まう御仁、という存在が、未だ彼女には明確に解っていなかったから。
シエルに会えなくなるかもしれないという事は、確かに寂しいとは思う。けれどそれは、尊敬する教師として、そして時々演奏を共にする演者仲間としてだと思っている。
ララティーナにとって、恋というものは未だに憧れと……少しの虚飾に彩られた未知なるものであった。
「貴族の結婚には、政治的な理由や家同士の結び付きといったものが絡んで来る事が殆どですわ。かく言うわたくしとクリストフの結婚だって、少なからず政治的な理由があるものですし。
……けれど、わたくしはこの婚姻を義務で引き受けたのではありませんのよ?」
クスクスと笑いながら、悪戯っぽく自分を見つめるアーリエッタに、ララティーナは首を傾げたまま「理由をお聞きしても?」と尋ねれば、
彼女は再び、咲き綻ぶ薔薇のような笑顔を浮かべ、こう言った。
「貴女に『お義姉さま』と呼んで欲しかったから、ですわ」
頬に朱を乗せ、口元に手を当ててホホホ、と上品に微笑む様とその言葉には、酷い乖離を感じざるを得ない。
さしものリオネルでさえ、ドン引きの態を隠し通せず、胡乱げな瞳でアーリエッタを見やるが、当の本人は全く意に介した様子もなく、言葉を続けた。
「ずっと憧れていましたのよ、ララティーナ、貴女に。
わたくしより歳若いと言うのに完璧な立ち居振る舞い、冴え渡るその美貌、鈴の鳴るようなその声で会話をすれば心を解きほぐしてくれるかのような素敵な話術。
そんな貴女が卒業パーティーであの外道に言い掛かりを付けられていた時は、わたくし、思わず飛び出して行って首を圧し折ってやろうかと思う程でしたわ。
……最も、あの種馬と貴女が結婚だなんて、どんな手を使ってでも阻止しようと思っていた矢先でしたし、相手から断ってくれると言うのなら貴女へのダメージは最小限で済むでしょうから、思い留まりましたけれどね」
フフッと、悪役めいた黒い微笑みをその麗しの顔に浮かべるアーリエッタ。
そんな彼女の迫力は、ララティーナは勿論、ことララティーナに関しては彼女に引けを取らない位心酔しているであろうリオネルまで圧倒されてしまう程である。
「夫婦の在り方は、それこそ十人十色ですわ。大恋愛の末に結婚したって、数年で冷めてしまう二人もいれば、最初は義務でも、そこから愛情を育んで行く夫婦もいる。
わたくしとクリストフも、切っ掛けこそ政治的な理由でしたけれど、わたくしたちの間には共通の……ララ、貴女という大切な、大切な存在があって。
ですからわたくしは、クリストフと共に可愛い貴女の幸せを守ろうと誓い、その手段としてこの結婚を承諾した。……世の中には、そんな理由で結婚する輩だっていますのよ?」
慈愛に満ちた瞳を向けられ、ララティーナが思わずその頬を紅潮させる。
家族や国民からの友愛の情は強く感じており、自分もそれに対して誠実であろうと自らに課している彼女の事であるから、貴族としての自分に向けられる好意や期待を受け取る事には慣れているけれど、
こうも明け透けに『個人』への情を向けられる事には若干のむず痒さを感じてしまうのだ。
自分はあくまで『貴族』であり、個の感情や存在については、恐らく誰よりも表に出すことに慣れていない──ララティーナにはそんな不器用さがあった。
「お義姉様、それは光栄な事だとは思いますけれど……でも、わたくしの為に結婚するだなんて、なんだか少し、申し訳ない気がしますわ……」
困った様に眉を下げるララティーナ。
そんな彼女を嫣然と見やり、その豊満な胸を反らして自信たっぷりにアーリエッタは言い放った。
「ならば人一倍幸せにおなりなさいませ。ララティーナ、世の中にはね、『絶対に幸せにならなければならない存在』がいると、わたくしは思っていますのよ」
そうして再び、優雅に紅茶を一口含むと、アーリエッタは言葉を続ける。
何処か威厳に満ちたその様は女王を彷彿とさせるもので、ララティーナも彼女の言葉に聞き入っているようだ。
「ララティーナ、貴族からも市井からも人気のある貴女が『悲劇の女神』と称されてしまっている。それは大変嘆かわしいことですわ。
……あの下衆との結婚が貴女の幸せであったとは女神様ですら思っていないと思いますけれど……でも、罪なき罪を断じられ、今までの努力を台無しにされてしまったのは事実ですものね。
貴女のような素晴らしい人が、いつまでも悲劇の影を背負っていてはいけません。悲劇に見舞われたのならば、それを弾き返して嫣然と、心からの微笑みを向けなくてはなりませんわ。
……貴女は女神様が遣わされた、人々の理想を詰め込んだ存在なのですもの。貴女の幸せが人々の……わたくし達の幸せであることを、貴女は自覚しなければ」
そう言って、アーリエッタはララティーナのその白魚のような手をギュッと握り、真っ赤な紅の引かれた唇に寄せると、チュッと音を立てて口付けを落とす。
突然の事にララティーナは目を見開いて固まり、側にいたリオネルが「アーリエッタ様!」と珍しく焦った様子で主人の手を彼女から奪い返した。
だが、当のアーリエッタはそんな二人の様子を面白そうに眺め、くつくつと、若干意地の悪い笑いを漏らしている。
「幸せになる事を恐れないで、ララティーナ。ご自分の心と向き合って……素直におなりなさい。
大丈夫ですわ、貴女を拒む物など、人間でも世界情勢でも……例え神だろうと、わたくしが必ず覆してみせますわ」
ホホホ、と悪役めいた笑い声を披露するアーリエッタ。
そんな彼女に、フゥ、と溜め息を漏らしながらも何処か安心したような様子で、リオネルが微笑む。全くこの方には敵わない、とでも言いたげな表情で。
そしてララティーナは、女性からキスをされるという突然の事態に未だ対応出来ずにおり、その場で未だに固まっていたが、
「……時に、お二人共。この時期、クーヴレール領から出荷される極上のワインが今年は激減している理由について、知りたくはありません?」
『クーヴレール』という、ある人物を連想させるその単語にハッと息を飲んで反応を示し、真面目な表情でアーリエッタに視線を向けるララティーナ。
そんな彼女を満足気に見やり、アーリエッタは交易を得意とする貴族だからこそ知り得た情報を語り出した。
「……実はね、領主様の具合が芳しくないらしいですわ。今年の葡萄は稀に見る出来だという噂なのに、領民から絶大な人気を誇る領主を心配して自粛しているとか……。
わたくしも、クーヴレールのワインは数あるワインの中でも一番好きな品種ですし……どなたか、現状を打破して下さる気概のある人物はいらっしゃらないものかしらね?」
悪戯めいた微笑みでそんな事を語るアーリエッタであったが……
この時すでに、ララティーナの心は心配でいっぱいであり、リオネルはどのようにしてララティーナを遠方へ連れ出すか、そしてその理由はどうすべきか、という算段で頭がいっぱいになっていた。
お読み頂き、有り難うございました!