3話 悪い夢
家に帰ると、時刻は5時40分だった。
7時頃までわずかに眠り、その日、僕は病人になった。
電話の最中だけね。
「ゲホゲホッ!あー頭痛い!喉も痛いしねー!あー熱あるわー!これ絶対、熱あるわー!あ、先生に変わって貰えます?あー苦しー。まるで蝶番を頭の中にねじ込んでビニール紐で首をまきまきして蛍光灯を割ってその破片を卵と一緒にご飯にかけて食ったような苦しさだわー!苦しい苦しい!」
早口で、電話口にそうまくし立てる。ことができたなら人生、自分に正直に生きれて楽しいんだろうな。言いたいことを言えない日本人気質は、どうにかこうにかすべきだと思うね。
要点を抜き出すと、風邪を引いた為、休ませて欲しいと連絡する。
申し出は受理された。
さすが事務の人は仕事が早い。
神速の武田事務員は健在か!
今、僕が勝手に名付けただけだし、事務員の人が武田かどうかも不明なのだけど。
携帯を切ったあと、僕は寝台に体を伏せ、再び夢の世界に旅立った。
見知らぬ異国の見知らぬ土地で、僕は見知らぬ人と一緒に旅をしていた。
捕まえれば、幸せになれるという青い鳥を探して歩く。
僕たちは、森へ、山へ、海へ、川へ、街へ、古今東西を歩き続けた。
森では巨大なトカゲのモンスターと戦い、山では群れを成すハーピィたちとの決闘。海では今まで共に旅してきた仲間がクラーケンに…、いや、そんな夢ではないよ。
旅の最中、見知らぬ人に僕は幸せについて訪ねた。
「あなたの幸せは何ですか?」
なぜ、こんな哲学の香り匂う質疑応答を繰り広げようとしているのだろう。
見知らぬ人は目を瞑る。
「人の中にいることかな。誰かの近くにいたい。」
寂しがりやな性格なのか。
うさぎのようなタイプだ。
いや、うさぎが寂しいと死ぬはまったくの嘘で、逆にストレスに弱いから構い過ぎると死ぬらしいね。
「じゃあ、青い鳥なんか探してないで、何かのクラブにでも入ったらいいのでは。」
夢の中だというのに微妙に現実感溢れる言葉を返す。
「そう。だけど、僕が人の中にいる為には、鳥を見つけないといけないんだ。青い鳥がいなければ、僕は全てに排除されてしまう。皆逃げていく。だから、そうすることでしか、僕は人の中にいられないんだ。幸福を得る為には見つけなきゃいけない。捕まえなきゃいけない。そうしなきゃダメなんだ。絶対に。」
場面が転換。
目の前の、手を伸ばせば届く場所に青い鳥がいる。
「見つけた。ようやく見つけた。これで、僕は幸せになれる。」
タガが外れたような笑顔を見せ、見知らぬ人は嬉しそうにする。
「ここに幸福がある。」
そう言った。
「ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。」
そう繰り返した。
「ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。ここに幸福がある。」
「ここに幸福がある。」と繰り返し続けながら、見知らぬ人が手を伸ばして、青い鳥に触れる。
見知らぬ人は姿を消した。
それに続いて、吸い寄せられるように、僕も青い鳥に触れる。
場面が転換。
テレビが映画を流しており、テレビの中で男女が抱き合っている。ラブストーリ。内容は、純愛がどうのこうのと口からマカロンを逆流させて新世界に放流するような、倦怠感を感じさせる感動ストーリーだ。
僕は自分の部屋のベッドの上で、薊に抱き付かれていた。
映画に影響されたのだろう。
首に両手を回されて、正面から僕にもたれかかってくる。
鳥肌が立った。
僕は背中に悪寒を感じて、反射的に薊をはね除ける。
視界が赤色に染まり、
ぼやける。
目の前に数人の人の影が映る。
真っ黒い影が立体となって歩いているようなソレ。
それは口から覗く歯だけが白い。歯が、口角を吊り上げていることを示す。
いち、2、さん、さん、さん。
4に増える。
辺りを取り囲まれている。
影は、僕を抱いていた。
抱かれている?
僕は、その影に抱かれている?!
影が舌を出す。
首筋が生暖かい。熱がある。それが伝わる。
頭が中が鈍痛に鈍く痛みがあったそしてそれが体に走った。
やめろ。やめろ。
背中が鈍く痛い。
やめろやめろやめろ。
足の膝がジンジンとするよ。
触るなやめろ触れるなやめろやめろ寄るなやめろ寄るな寄るな寄るな。
「こないでくれ、触れないでくれ、近くにこないでくれ。」
体が震える。カチカチと歯を鳴らす。鳥肌が立ち、瞳から涙が流れた。
薊が僕に近寄り頭を撫でる。
影も近くに寄る。
影が僕の腕を掴む。
よせやめろ違うそうじゃない。
それはいらないやめろ必要ない。
それは痛い苦しい気持ち悪いしお腹が苦しい頭が苦しい。それはやだ。口の中が苦いんだ。
「大丈夫だよ。もう大丈夫だから。」
薊が語る。
影も僕に何かを語りかける。
影の言葉に、全身が硬直する。
黙れ話すな。語るな。声を出すな。音を立てるな。
その音じゃない。必要なのはその音じゃない。
両手で頭を多い部屋の隅へ離れる。
薊は近寄って来ない。
「まだ…、怖いんだよね。」
薊の目から涙が溢れる。
この日、悲しそうな顔をして薊は泣いていた。
僕の為に涙を流してくれていた。
踞り、どれだけ時間がたったのだろうか。
さっきまで頂点に近かった太陽が消えてなくなり、辺りが暗闇に静まり帰っていた。
その頃になってようやく頭の中がすっきりする。
薊は変わらず、僕をベッドの上で見守ってくれていた。
そして、それは同時に、僕の胸の内側で罪悪感へ刷り変わる。
僕は薊に抱き付かれることを望んでいたし、近くに寄りたかった。
拒絶して離れるつもりじゃなかった。
そうだ。これは昔の記憶だ。
そこで、僕は夢の世界から這い出た。
いつもの見慣れた天井が瞳に移る。
顔が濡れている。どうやら涙が流れていたらしい。
やれやれだぜ。男が涙を流していいのは母が死んだときだけだぜ。
あれれ?っていうことは、男は玉ねぎを料理しちゃいけないのか。
っていうことは料理中、手を切っちゃっても、泣いちゃいけないし…、つまり、料理全面禁止令。
なるほど。亭主関白の源流を見た。
僕は寝ながら涙を流せるんだし、今度は寝ながらアイスティーを飲む。にでも挑戦してみようかな。
そう心に硬く誓って僕はベッドから下りたのでした。
窓から外を眺めると、夕焼けが綺麗だった。
夕方まで眠りこけていたのか。
その夕日を見ていると、「たまやー!」と叫びながら、河川敷を走り回りたくなってはこなかった。
携帯持った。サイフ持った。鍵持った。
外出三種の神器を揃え、願いを叶えてくれる伝説の魔神をこの世に顕現させる!ことが出来たら、僕は何を望むんだろうか。
少なくとも、世界平和なんていう高尚なものではなく、もっと俗物的なお願いをするだろう。
あるいは、僕みたいな人間は、人類の数を10倍に増やして食糧難に陥らせ、その結果、殺しを合法的に…、いや、これは多分、あいつの思考か。
さて、今から学校に…。は行かないが、病院行ってお見舞いには行かなくては。
「今日、病院行くから学校休みます。」
自分のとは言ってない。
ちなみにこの台詞も言ってない。病院に行く途中、コンビニでお菓子を買った。
すると、クラスメイトの浅井と鉢合わせた。
「よっす。」
僕がポテトチップスとポップコーンを手に取っていると、後ろから肩を叩かれた。
「どちら様ですか?」
「浅井だ。長政じゃない方の。」
「残念ですが、僕の知り合いには長政の方しかいないです。」
「逆に知り合いに長政がいることにビックリなんだが…。」
浅井はそう言って頭を掻いた。
「そんなことより、浅井も学校休み?」
社交辞令程度の質問だ。
学校は時刻は4時40分、授業は5時までなので、もうそろそろ終わりだが、まだ授業をしている時間だ。
「ああ、まあ。」
しかし、真面目が板に服を着せて闊歩しているような浅井がサボりとは珍しい。
「最近、色ボケ入って、彼女とデートに行く為にサボりました?」
「そりゃ、お前だろ。」
僕は首を振る。
いや、色ボケサボりではないよ。
ただ、眠かっただけさ!イエイ!
「まあ、レズビアンは社会に受け入れられ難いからね。隠すのもわかる。けど、少なくとも、僕はLGBTに偏見を持ってないよ。」
「俺は男だ!それで弄るの何回目だこら!」
何十回ぐらいかな。
浅井は中性的な容姿で、しかも体つきも男子としては小さいので、よく女性と間違われる。
僕も始めて会ったときは、女性と信じて疑わなかった。
喚く浅井を放っといて、レジに向かう。
会計を終え、僕は浅井に「じゃ。」とだけ挨拶をし、コンビニを後にした。
病室で、今日は薊のお母さんと鉢合わせた。
薊のお母さん、紅葉さんが、「生ちゃん!久しぶり!来てくれたのー!」と僕に抱きついてくる。
「はい。紅葉さん。久しぶりです。」
抱きつかれたまま挨拶をする。
「この子、今日も生ちゃんが来てくれるかな。ってずっと待ってたんだよ。だって、私が病室に…。」
「お母さん。ストップ。うるさい。」
薊の方を振り返り、紅葉さんが笑顔を見せる。
薊と、紅葉さんは笑顔が瓜二つだ。
笑っていると、薊と見分けがつかなくなる。ことがあれば眼科に通院すべきだと思う。
クリソツなガオエなのはジツジだが。
薊が手招きをして近くの椅子を指差す。
後ろで扉が開き、そして閉まる音がした。
僕は誰の指図も受けん!僕に命令するな!と逆らわず、反抗期ではないのでおとなしく席についた。
「ありがとう。今日も来てくれて。」
薊は笑顔でお礼を言う。
「いやいやなんのなんの。ヒロインが苦しんでいるときに知らぬ存ぜぬ顔をしてのける奴はヒーローじゃないよ。」
悪役がヒーローを語ってんじゃねぇよ。ペッ。
架空の声が聞こえた。
そうだ。耳鼻科、行こう。
「あ、これ。今日のお見舞い品。」
ポップコーンとポテトチップスを渡す。
「特にうまいって評判のコンビニで買ってきたからきっとうまいよ。」
「職人の技?プロのパティシエが作ったポップコーン?」
「いや、プロのフランス料理人だよ。」
訳が分からないよ。
「ありがとう。美味しいよ。」
早速、お菓子をポリポリと食べ始める。
「生も、一緒に食べよう。」
お菓子の袋の口をこちらに向ける。
「いただくよ。」
袋に手を入れて、3つほどポップコーンを取り出す。
「ねえ。生。」
「どうしたの?」
ポップコーンを口に入れながら聞く。
「私、あと三日で退院できるってさ。」
「うぉー!わぉー!がおー!よかったな!やった!わあーい!」
両手を万歳して全身で祝福の祝詞を表現する。
「うん。でね。退院したらどっか遊びに行きたい。ここやること無さすぎてね。」
そうだよな。傷を治すと言う自然な時間経過で起こる現象を手にいれる場所だからな。
手持ちが無沙汰になって武将に髭とか生えだすのもわからんでもないな。
「あ、でも、今日は別かな。今日はクラスメイトが一人お見舞いに来てくれたんだよ。」
何奴!?我が主君の下へ、断りもなく足を運ぶ不心得者は!?
…べつに誰でもいいや。男だったら、自重して頂きたいがね。
「へ〜。」んしん。
「それで、その子、トランプ持ってきてて、一緒にやってたんだ。」
トランプか。そうか。あまりはしゃぎ過ぎて、病院に迷惑さえかけなければやってもよかったのか。
僕も持ってきてやるべきだったのか。いや、でも…。
「二人でできるトランプゲームって少ないよな。」
何がある?スピードしか思い当たらないぞ。
「案外、そうでもないよ?スピードとかはもともと二人だし、大富豪もできるし、はばぬきもできる。後は、ルールをいじれば3人以上用のゲームもできたりするよ。例えば、7ならべなんかだと…。」
薊はそこで語りをやめる。
「って、トランプの話してる場合ではないよ。お出掛けの話がしたいのだよ。」
右手をひらひらと左右に振る。
「どこか連れていって?」
宇宙と言われて、一般人がとりあえず太陽とか土星とかをイメージするような、すごく漠然としたお願いをされる。
「うん。いいよ。」
が、二つ返事で了承する。
「じゃあ、退院までにどうするか考えておくよ。」
ぱっと、頭の中に三ヶ所ぐらい候補が浮かぶ。
とりあえず遊園地とか、無難に映画館とか、あんぱいのカラオケとか、あと、薊との、思い出の場所とか。
まあ、まだ3日あるし、他にもゆっくり考えよう。
日が地平線に沈み、月が昇る第一歩に足を踏み入れ、看護師さんが「さて、そろそろさようならのお時間だぜ?ガキはお家に帰ってママのおっぱいでもしゃぶしゃぶして豆腐と白菜と一緒にむしゃむしゃしてな!」というオーラを全身から迸らせ始めたので、あー!ざー!みー!帰りたくないよー!離れるなんていやなのだー!と未練たらしく何度も振り返り(心の中オンリー。)すごすごと病室を後にする。
「じゃあ、また明日ね。ちょっと早いけどおやすみ。」
最後に捨て台詞として、そう吐き捨てて家に帰った。一瞬だけ。
レディスアンドジェイソンマン!
さて、みなさんお待ちかね!夜の犯人探しのお時間です。実況はこのわたくし、生。
解説として、白井さんをお迎えしてお送りして参ります。
なお、大変血生臭いシーンや凄惨な描写もございますので、その部分につきましては、地上波では完全カットさせていただきます。
とは言っても、今日は、僕は誰も殺す予定はないのだが。
あんパンを食わえて、牛乳持ってというポリスメンスタイルで電柱にもたれかかりながら、ちょっとカッコつけた立ち方をする。
今日は私怨である可能性にかけて、薊の家の前で張り込みをしてみる。
犯人がまだ薊が生きていると知っているなら、退院がいつか知らない犯人は、ときどき様子を見に来てる可能性も高いのではないだろうか。
まさか、病院の中では事を起こすまい。あんな人がいっぱい、監視カメラたくさんの中で犯行に至るのは、計画的犯行なら愚か者。突発的犯行なら仕方ない。だ。
薊の家は、すでに電気が消えている。
とりあえず、日の出まで張り込んでみる。
しばらく佇んでみて分かったのは、やはり、この通りは夜だと人通りがほぼ無に等しいということだ。
僕が張り込みを始めてから1時間半が既に経過したが、未だ誰も通らない。
暗い上、誰も来ないとは。
犯人、やり易かっただろうな。
僕としては、住居ももう少し少ない方が好みだが、充分妥協できる範囲内だ。
しかし、恐らくだがこの人通りの無さは、通り魔に対する警戒で、外出を控えてるってこともあるだろうと思う。
自分の身を守る為には最善だ。しかし、犯行を止めるのに有効かは、首をかしげざるを得ないが。
通り魔出る。対策する。外出避ける。人通り少ない。通り魔やり易くなる。
皮肉なもんだな。
裏目にも出てるってわけか。
更にしばらく待っていると、男が声を切らしながら走ってきた。
「運動などもう何年もしてないよ。」と一見しただけで回りにわかるように自己主張をした体型をしていて、さらに、「私は本が好きでね。本の読みすぎで目が悪いのだよ。」と一見しただけで回りにわかるようにアイテムを身につけた男だ。
男は、背中からトマトジュースのプールにダイブしたようで、スーツなのだが、背中からトマト汁が滴り落ちていた。
どうやら痴情が縺れ絡まって千切れる寸前で「待ってよたっくん!あの女誰!?浮気したの!?」というやりとりがあったのかは定かではないが、女がチェイスしていた。
笑顔で。百点満点で花丸の中の笑顔で。女が笑顔でチェイスしていた。
髪が長く、黒髪ロングストレートで、ワンピースを着ている。
それと、大きめのバッグを背負っている。
名字が桜井っぽい顔で、名前が美里っぽい体つきをしている。
男は、ちょうど僕の横を通りすぎる辺りで倒れた。
美里の投擲したナイフがふくらはぎに突き刺さったようだ。
足のふくらはぎから血を飛び散らせ、頭から地面に倒れ伏せる。
男が倒れるのを見ると、美里は駆け足をやめ、ゆっくり歩きながら距離を詰め始めた。
無言で接近し、笑顔で男の足に刺さったナイフを掴み、乱雑に掻き回す。
「がああああああッ!」
簡素な住宅街に、突如として悲鳴がこだました。
「…………………………。」
美里はしゃべらない。
乱暴にナイフを抜き取ると、今度はそれを喉元に当てる。
突き刺した。
男は悶え、声にならない悲鳴を上げる。
美里は男の右腕を強引に押さえつける。
無理矢理、手を開かせて、5本の指の内、親指と人差し指を切り離した。
男は口を大きく開けて苦悶の表情を見せる。
男が口を開いた瞬間、美里は切り離した指を掴み、男の口に放り込んだ。
男は首を振りながら、拒否の反応を見せ、指を吐き出す。
まあ、そりゃ不味いだろうね。けど自分の血なら病気にはならないか。
僕はその光景を見ながら、そんな事を思った。りはしなかった。
ただ、静観して、事の成り行きを見守る。
男には申し訳ないけれど、友達と他人が困っていたら、友達を優先するのは当然のことなのだから、僕の傍観は正当なことだと思う。
と、思考を中断して再び男の方に意識を向けると、切り落とされた片方の耳と足首が一つ転がっていた。
そして、美里は切り離した手首を持って、ご満悦といった表情をしている。
男は既に意識が朦朧としているらしく、美里が突き刺したナイフを片手間にいじっても、小さく体を跳ねさせるだけで大きな動きは見せない。
美里は、しばらくナイフを捻ったり、奥に深く刺し込んだりしていたが、やがて飽きたのか、立ち上がってナイフを引き抜いた。
そして、今度は全身を何度も激しく切りつける。
ナイフが振りかざされる度、男の体から残り少ないであろう血液が勢いよく噴射する。
3桁に到達する少し手前ぐらいの回数、ナイフを振りかざし、ようやく美里は動きを止めた。
美里は返り血と、高まった体温で顔を真っ赤にしていた。
美里は近くのコンクリートの塀に寄りかかり、体を預けながら座り込んだ。
そしてナイフをしまうと、片手を自分の股の間に持っていき、自慰を始めた。
「はあ。んっ。あっ。」
と、ここにきてようやく声を発する。
今、僕はあちらから気付かれない位置に立っているし、そんなシーンを見てしまったら気まずいので、とりあえず、この場を立ち去ることにする。
何も見なかったことにして、さぁ、立ち去ろう。と一歩踏み出した瞬間、カランッ。と足下で音がこだました。見てみると空き缶だった。
狙ったように足下にあった。飲みかけだった。中身が溢れて足下に広がる。
なんて運がない。ヤバい。殺人鬼に見つかる。
但し、殺されることが恐ろしいわけではなく、ピー音で規制されるような行為をなりゆきではあるが見てしまったことが気まずいだけだが。
美里は立ち上がり、ポケットからナイフを取り出してこちらに歩いてくる。
目撃者が僕でなかったらきっと排除されるのだろうな。
やっぱ、敵にすると恐ろしい相手は、味方にするに限るね。権力者に媚びへつらう三下の気分を今、理解した。
諦めて観念をし、両手を上にあげて目の前に登場する。
「ゲルニカだな。」
まずは目の前の惨事をそう表現する。暗いからって、僕だと分からずに咄嗟に刺されたら困るし、僕だと分かるように登場しないと。
「あっ、…生か。なんだ。」
そう言って、美里はナイフを下におろす。
「今日も景気よく赤字大盛況じゃないか。満員御礼だ。」
「…赤字で…、大盛況…?」
小首を傾げて、分かりやすく分かってない表現をする。
「つまり、出血大サービスさ。」
「…なるほど。そっか。」
うんうんと美里が頷く。
「それより、着替えとか済ませなくていいのか?あと、速く離れた方がいいだろ。」
そう言って、美里を連れて現場を離れる。
「近くに人の来ない路地裏があるからとりあえず、着替えとかはそこで。」
そう言って歩き始める。
美里は僕の後をついて来ながら、また自慰行為を行おうとする。
手のひらを目の前につきだしてストップのジェスチャー、美里を静止させる。
「ちょっと待て。君は自転車に乗りながらラーメンを食べるのか?」
「…えっ。食べない。」
美里はすっとんきょうな声を出す。
「じゃあ、寝ながらトライアスロンのオリンピックに出場するのか?」
訳が分からないといった顔で首を横に振る。
「…出ないよ。」
その答えを聞いて、僕は「じゃあ。」と言って、本題に入る。
「君は歩きながら自慰行為をするのか?」
一応、人間の三大欲求で話を纏めたつもりだ。
しかも、まだ二回しか顔を合わせた事のない男の目の前で。
なんというノーガードだ。寧ろ自ら当りに行ってる。
「…うん。だって、人、居ないし。」
どうやら僕は人間でなく、人型の電柱としてカウントされているようだ。それとも、足下に落ちてる小石が人の形をして服を着てるという認識だろうか。
あるいは、私たちは殺人鬼だから鬼であって人間じゃないよね。かも知れない。
「ここにいるぞ!」
小さく叫んでみた。
「生はいいの。友達だから。」
そう言って、美里は実行しようとする。
「友達って、君は高校生と言っていたが、じゃあ、クラスメイトの前でも…、」自慰をするのか?
そう僕が言いかけた瞬間、凄い剣幕で美里が声を荒らげた。
「あんなの友達じゃないっ!」
夜の街で、静まり帰った住宅街に声が響き渡る。
僕は、静かなイメージのある美里が、怒鳴り声をあげたことに驚いた。
「あんなの!あれは違う!違うっ!」
憎々しげに、クラスメイトを友達呼ばわりされたことを否定する。
美里は、まるでゴキブリやムカデに触れるような表情をしながら、苦しそうに頭を抱え座り込んだ。
そんな美里の様子に、僕はまるで、鏡に写った昔の自分を眺めているような気分になった。
あの日、薊が僕にしてくれたように、落ち着くまで黙って三里を見守る。
しばらくして、美里は不安そうな表情を見せながら立ち上がった。
「…あの。」
遠慮がちに声をかけてくる。
「ごめんなさい。いきなり怒鳴っちゃって。」
そう言って美里は頭を下げる。
「…怒ってる?」
そう僕に聞いてくる。
「いやまったく。考え事してただけ。」
「…そう。よかった。」
美里はそう言ったきり黙ってしまった。
「あ、ここだ。」
ちょうど、目的地に到着した。
「ここなら誰も来ないから、着替えとかはここでしな。」
そう言って、僕は美里のいる反対を向いた。
後ろからかさかさと音がする。
理性完全制御、開始。
きっと、木の葉が待ってるんだろうな。
そういえばこの前、浅井が、好きなバンドのCD買ったとか言ってたな。
あと、こないだ、僕の脳内妹が、「お兄ちゃん!見てこれ!新しい漫画買ったのー!えへへー!」って楽しそうにしてたな。
かさかさ。
そういえば、この時期はお肌がかさかさになる。かは分からないけど、そんなこといちいち気にしなきゃいけない日本の女子は大変だな。
「…終わったよ。」
後ろからお声がかかったので、理性完全制御を解除する。
「一歩進んでひっくり返ってぺこりんこするぞ。」
声をかけてから振り返る。
すると、そこには何故か、まだ完全に着替えてない美里が…、居ませんでした。残念。
いや、別に期待してないけどね。本当に。
「それならもう分からないな。後は帰って服の処理だけだ。」
なんとなく、手順をおさらいする。
「…うん。毎回、捨てる為の安い服買うの大変。」
服もただじゃあないからね。
この世の中、ただでもらえるものなんて、ティッシュ配りのティッシュと、チラシ配りのチラシと、美容室の飴ちゃんと、愛情、友情、色々あった。世の中も捨てたもんじゃないんだな。
「お金かかるもんな。仕事、してるのか?」
美里がバイトというのも想像できない絵面ではあるけど。
例えるなら、インド像がインドネシアに生息してるような、場違いな無駄な三文字が付属している感覚がある。
「…ううん。特にしてないよ。」
案の定、無職。ニート。…美里の場合、服買うの大変らしいし実際は違うのだろうが、無職やニートというよりは、働く必要性を持たない浮世離れしたお嬢様なオーラが全身からこぼれ出てるんだよな。
「そうか。ならお母さんの財布からチョンボ?」
シーフにジョブチェンジか。
「…?…お母さんの財布がトンボ…?」
なぜ虫になったのだろう。聴力と視力と学力は、ちゃんと先生に見てもらった方がいいぜ!
「そう。虫取り大好きな美里は、しょっちゅうトンボを捕まえてるのかなって。」
そういうと、美里は、小首を傾げながら、この人の喋ってる言語は日本語なのかな?実は日本語に見せかけたフランス語なんじゃないの?という疑念を目線で暗に訴えてくる。
とりあえず、無言で見つめ返して見た。
視線と視線がぶつかり合う。
「………。」
僕の攻撃!ダークネス アイズ ブラスト!悪タイプ 命中率は100。
「………。」
しかし僕の攻撃は、美里のカオス サイト イレイザー!で相殺される。
この状況!先に笑った方が負ける!
緊迫した状況が生まれ出た中で、美里は平然と視線を僕から外した。
なんと、攻撃を避けられてしまった。それにより、外した分のダメージが僕の心臓に直撃する。
…負け…、か。
久々だぜ、この感覚、最後に負けたのは、400と、54年前だったか…。
「…お腹空いた。ねえ。なにか買いに行こう。」
そんな僕の心の中の一人芝居などまったく意に介さず、そんなことを宣った。
「…まあ、いいか。けど、この時間だと、コンビニしか空いてないな。」
御食事処はもうどこも銀色の鉄の幕を下ろして舞台を終演してるだろうしな。
チェーンのラーメン屋すら終わりを迎えてるだろ。
「そう。コンビニでいいよ。最近はコンビニの食べ物もかなり美味しい。」
僕は首を縦に振った。
「そうだな。その通りだ。僕はドーナツとか、チキンとか、よく食べるよ。」
「行こうか。」
美里はそう言って僕の前を先導して歩き始めた。
美里が選んだコンビニは、薊の家の近くのコンビニだった。
ここで買い物をした帰りに、薊は事件に巻き込まれた。
なんとなく立ち止まって外観を眺めていると、コンビニの前に見知った顔がたむろしていることに気が付いた。
相手も気が付いたらしく、相手も僕のことを見て「おっ。」と反応し、僕に近寄ってくる。
「やーッす。こんな時間にどうした?その娘誰だ?…浮気か?」
出てきたのは浅井だった。
もう夜も暑くなり始めているのに、真っ黒なパーカーを着ている。
美里は、浅井が近寄ってくると、まるで隠れるように、僕の後ろに立った。
どことなく不安そうな顔をしている。
「いいや。ただの熱心な僕のファンだよ。最近のアイドルは会いにいけたり、握手したりってのが少し前から流行ってるじゃないか。」
浅井はやれやれといった風に首を横に振る。
「世間一般では、ファンの娘とプライベートで出歩くのは流行してないだろ。」
確かにそうだ。まあ、説明もめんどくさい、というか、通り魔仲間です。以後、よろしく!なんて説明できないので、適当にお茶を濁しておこう。
「そんなことより、浅井はこんな時間になにしてるんだ?」
「ん?ああ、腹減ったから、これ買いにな。」
そう言って浅井は右手に下げたコンビニの袋からパンやおにぎり、シュークリームにアイスクリームなどを出した。
「こんな時間にこんなにこんなもの食べたら、こんな体になるぞ。」
手を横に広げて太っちょを表現する。
そして、浅井の手からなんとなくアイスを引ったくった。
アイスはカップアイスで、蓋に抹茶味と表記してある。
「これ、ぬるい。」
生暖かいアイスを浅井に突き返す。
「アイスクリームは、買ったらなるべく優先して一番手に食すべきだと僕は考えているんだけど、浅井は違った思考をしているのか?」
例えば僕の小学校では、アイスクリームは1度溶かした上で、再度凍らせて食った方がうまい。という迷信が謳われていた。
「いや、俺も普通にアイスは優先すべきと思うけど、…なんとなく食い忘れてた。」
そんな話をしていると、美里が後ろからちょんちょんと、僕の服の袖を引っ張った。
長話ししすぎ。早くしてくれないとグサー!って殺っちゃうよ。そういうことだろうかも知れない。
「さて、じゃ、僕はこの辺でコンビニにやってきた本来の意味を全うさせて頂くよ。シーユーアゲイン。」
そう言って、美里を連れてコンビニに入った。
僕はまず、パンのコーナーに足を運んだ。
チョコパン、アンパン、クリームパン、それからジャムパンを手に取る。
「やっぱり、これらがチャンピオンの前に踏破するべき四天王であることはわかりきった話だよな。」
美里を見ながら、4つのパンを掲げる。
「…菓子パン。おいしよね。」
美里はそう言いながら、鮭のおにぎりを二つほど掴み取った。
それから次に飲み物のコーナーに行きオレンジジュースを掴み取った。
美里も、飲み物のコーナーで、何を買うべきか顎に手をあてロダンの考える人のポーズを取る。
僕は「じゃあ、先に買って外出てるから。」と言ってレジに向かう。
外で、ジャムパンとオレンジジュースを飲みながら、夜空を眺めて星を見る。
流れ星、見れないかな。なんてことはいっさいがっさい思わないで、修行僧のように心を無にして、ただ時間が過ぎるのを待つ。
機械音が横から聞こえて、そちらを見ると、美里が出てきた所だった。
僕の横に来て、「お待たせ。」と言う。
隣に立ち、二人して沈黙に耽る。
しばらく黙っていて、先に口を開いたのは美里だった。
「あの、ね。…これから、ちょっと話したいことがあるんだ。相談、って言った方がいいかも知れない。大丈夫?」
時間のことを気にしているのだろう。
もう空がだんだんと明るくなる頃だろうから。
「平気だよ。」
しかし、僕は断らなかった。
どうも美里は、どうしても自分と被って、冷たくしたり放っておくことができないらしい。
「じゃあ、ついてきて。」
そう言って美里は歩き始めた。
美里が僕を導いた場所は、コンビニからさほど遠くない距離にある神社だった。
大見手神社と旗に書いてある。
お稲荷様を祀っている神社であり、それほど大きくもないが、かといって、それほど小さくもない。
美里が鳥居をくぐり、階段に足をかけ、僕を神社の中に引っ張ろうとする。
しかし、僕は踏みとどまった。
「ここはよそう。」
美里が二段ほど階段を上がった所で、そう言って逆に美里の手を引き、神社から離れようとする。
「…?ここなら人いなくて都合がいいんだけどな。」
「人が来ない所がいいなら。すぐ近くに公園があるから、そこでも大丈夫だろ。」
「…なんでここはダメなの?」
その疑問に遠回しに答える。
「別に僕が敬虔なキリスト教徒だからとか、或いは祟りとかを真に受ける性格で、オバケ怖いから入れないとか、少なくともその類いの理由ではないよ。」
「じゃあ、どうして?」
「なんとなく。」
そう答えた。
勿論、なんとなくなんかじゃない。
ここは僕にとってすごく大切な場所だから、それを知らない人と、一緒に訪れたくはないってことだ。
美里でも、友達でも、同種でも、同族でも、仲間でも、それは譲れない。
僕がまだ小さかった頃。
始めて薊と出会った場所がここだった。