そしてアルスは森へ向かった
今日も殺されそうになったので殺しました。
使命というのは、『陽都』の民を殺めることなのですか、お母様。
***
森の霧は深い。視界を覆う真白い冷気は、侵入者を拒んでいるかのようだ。
「それにしても寒い……森の中は冷えますねぇ」
「おい」
「はい」
「どうしてお前がいるんだスピラエ」
「愚問ですねアルストロメリアくん。アルスのいるところにスピラエあり、その逆もまた然りでしょう!」
「気色悪いこと言うなよ!?」
さて、これから森の探索に入ろう。そう思って『陽都』の外れ、魔女の森の入り口に向かった矢先であった。
『ほらほらアルス、遅いですよ。早く行きましょう!』
当然のように装備を固め、準備万端でこちらに手を振る銀髪の変人が一人。目の錯覚か脳の故障を数度疑った。
可笑しい。僕はいつ、スピラエとここで落ち合う約束をしただろうか。
「アルス? 何を考え込んでいるんです。森において油断は命取りですよ」
「何って、お前のことを考えてたんだっての」
「……照れますねぇ」
もはや突っ込む気力もない。
僕の少し前を歩くスピラエ。鬱蒼と茂って行く手を阻む枝々を掻き分け、足元で群生する雑草を踏み締め足場を固め、進んでいく。長身なスピラエが前を行ってくれることでだいぶ歩きやすいものの、だからといって納得は出来ない。
どうしてスピラエは危険を冒してまで、僕に付き合って森まで来るのだろう。
「……杖」
「え? ああ、これですか。魔女と対峙するのにお飾りの剣を持っていても仕方がないですからね」
先程のスピラエが腰に掛けていた剣と同じくらいの長さの銀の杖。久しく見ていなかったスピラエの杖だ。服のセンスも味覚センスもとことん趣味の悪いスピラエだが、杖に関してのセンスは鋭い、と思う。魔法に詳しくないからなんとも言えないが、魔力を通しやすい純銀の杖には、余計な装飾は一切なく、ただ繊細な彫刻が整然と刻まれていた。美しい杖だと、思う。
「お前、ここまで付き合う義理はないだろ。いくら友人でも、僕なら危険を冒してまで助けたりしないぞ」
前を悠然と進むスピラエの背中に語りかける。僕の声には呆れの色が滲んでいた。だけどこちらの反応なんてお構いなし、スピラエの背中は小刻みに震えて笑いを殺している。
「嘘つきは泥棒の始まりですよ? 尤も、アルスは窃盗なんていかにも後悔しそうな悪行は働かないんでしょうけどねぇ」
「……どういう意味だ」
「ワタシには分かりますよ、アルス。キミは助けに来る、絶対にね」
「自惚れるなよスピラエ。どうして僕がお前のためにこんな辺境の森まで来なきゃならない?」
「いいえ、自惚れではないですよ。だってアルスは、ワタシじゃなくても助けに来る」
足取りはそのまま、ちらりと視線をこちらに送ってくるスピラエ。感情の読めないいつもの笑顔。だが、少しだけ責められているような気がした。
スピラエの言葉は真実だった。僕は相手が誰だったとしても、結局は悪態をつきながらも助けるだろう。でもそれは人助けではない。自分のためだ。
後悔を背負ってその先ずっと苦汁を舐め続けるくらいなら、一時だけ我慢して貧乏籤を引いた方がずっといい。卑怯な自分を恥じることだけは死んでも御免だ。
「……まあ、そこがアルスの美点でもあるんですけどね」
スピラエの苦笑混じりの声。僕の偽善者ごっこ癖は今更治らないと知っているのだ。
僕は返す言葉を何も見つけられず、結局口を噤んで歩くことに専念した。相変わらずの減らず口のスピラエは、身のない話をぺらぺらと一人で続けていたので、森を進む道程は暇しなかった。
「霧が深くなってきたな」
もういくつめかも分からないスピラエの話題の区切り目に、僕はふと呟いた。ただでさえ深かった霧は更に深くなって、気づけば僕たちは濃霧の中にいた。
振り返ってみても、背後には今まで進んできた道は見えない。広がるのはただの白だ。
「こんなんじゃ、後ろを見たって来た道が見えな……」
――おかしい。何かが変だ。
「おい、スピラエ」
返事がない。
「スピラエ、何処だ」
スピラエはこんなときにふざける奴じゃない。返事がないのは異様だ。
進行方向を見失わないように爪先の向きはそのまま、ゆっくりと身体を捻って辺りを見回した。人気は皆無。鳥の声すら聞こえない静寂。四方向何処も白だ。
先程までは確かにスピラエといた。スピラエは逸れることを避けるためにわざわざ喋り続けていたのだ。だから逸れたのは、たった今。これは間違いない。
だが、この一瞬で唐突に逸れるなんていうのはあり得ない。例え視界に映らなかったとしても、声は届く範囲にいるはずだ。それなのに呼びかけても返事がない。
「これは――」
自分の存在すら曖昧になって溶けてしまいそうな白い世界に一人きりにされては、いつ意識を手放したのかも気付けなかった――。
「……アルス?」
振り返った先には誰もいなかった。視界の先に広がるのはただの白。
何故だ? さっきまで確かにアルスは背後にいたはずだった。間違いない。おざなりではあったものの、確かに後ろから相槌を打つ声が聞こえていたのだから。
――これは、図られた。
「これだから低俗な魔女は嫌いなんですよ」
吐き捨ててからはっとした。もしかしたら何処かでアルスに聞かれてしまうかもしれない。こういうことは口に出すべきことではない。
それに、人を騙し欺いてばかり。自分も魔女と大差はない。
銀の杖を握り締めて大きく深呼吸した。早くアルスを取り戻さなければ。
不意に、さっきまで森閑さを貫いていた木々たちが、迷子を嘲笑うようにざわざわと風に揺れた。
***
暖かい思い出なんて殆どない。お母様は厳しいばかりだった。普段は優しい笑顔をしているけれど、本性はとんでとない女だ。魔法の勉強を怠ったり間違ったりすると、恐ろしい呪いで脅された。どうして出来ないの、と責められた。
でも、殆どないけれどないこともない。
難しい魔法を成功させると、頭を撫でていっぱい褒めてくれた。あなたは凄いわ、私の自慢よ。撫でてもらったときの、彼女の指が髪をすり抜けていく感覚が、たまらなく好きだった。
そして一頻り褒めた後、クッキーを焼いてくれた。シナモンたっぷりの手作りクッキーにありつけることは滅多にないけれど、その分本当に嬉しかった。
***
甘い匂いがする。この匂いは何だったか。蜂蜜のような、黒糖のような、でも微かに辛い。香辛料の匂い――
不意に鳴った古時計の音で目が覚めた。
瞼を押し上げて、まず目に飛び込んできたのは、見知らぬ天井の木目だった。僕の家ではない。スピラエの家でもない。ここは何処だ?
どうやら僕は、ソファに寝かされていたらしい。首を動かして辺りを見回すと、そこには食器棚、テーブル、先程鳴った古時計と、生活感のある家具の数々があった。古びてはいるが、丁寧に使い込まれている。家人に大切に扱われているのだと見て取れた。
半身を起こして状況を整理していると、あの甘い匂いが一際強く香った。
「……シナモン?」
「ああ、目が覚めた?」
反射的にソファから転がり下りて体勢を整えた。部屋の奥から突如として現れたのは、赤い目の少女。
思い出した。僕は霧の中でスピラエと逸れ、いつの間にか気を失っていたのだ。それがどうして、このような誰かの家にいるのか?
僕の脳内で結論が導き出される。恐らくここは、目の前の女の家で、そしてあの女は――
「……お前は、誰だ」
大きなローブに身を包む女に問いかけた。あれでは何処に杖を隠し持っているかも分からない。おまけに僕の武器は今、手元にない。完全に不利な状況だ。
僕の焦りを悟ったのか、女はにやりと妖しく笑って答えた。
「私は、魔女だ」
「お前……!」
「なーんちゃって」
「………………は?」
「くっ……ははっ、誰が魔女だって? 君ってば警戒しすぎ。人馴れしてない小動物みたい」
そこで耐えきれなくなったのか、女は糸が切れたみたいに笑い転げ始めた。取り残された僕は戦闘体勢を取ったまま呆気に取られるばかりである。
「あー、おっかしい。って君、いつまで殺気振りまいてるつもり? もう終わりにしようよ」
「冗談じゃない。お前が魔女じゃなかろうと、怪しいことには変わらない。大体、どうして僕はここにいる? さっきまで森にいたはずだ」
「君が倒れてるから運んであげただけだって。そんなに疑うなら見てみなよ。ほら、武器は隠し持ってないから」
そう言うがいなや、女は何の前置きも躊躇もなく、ローブをばさっと脱いで見せた。――中には何も着ていない。
「ばっ!? お前何してっ……!」
驚きのあまり言葉が続かなかった。いくら潔白の証明のためとはいえ、普通男の前で羞恥の欠片もなく脱ぐか?この女はもしや痴女か?……痴女?
白い肢体は、女性のようなしなやかさを持ってはいるものの、引き締まって筋張っていた。胸にふくよかな膨らみはない。首元に薄っすらと浮き出ているのは喉仏。
ローブで体のラインが隠れていたうえに魔女の先入観に邪魔をされて、すっかり騙されてしまった。
「お前、男か……」
「その通り」
先程までより幾分か低い、得意げな声。意図的に僕を欺いていたのだろう。
「騙してごめんね、俺はカメリア。この森に住む魔法使いさ」
悪戯がばれた子供のように、眉根を下げた困り顔をする。
僕は森で魔女に出会わなかった代わりに、緑の髪の魔法使いに出会った。
「取り敢えず、食べない? 俺特製のシナモンクッキー、美味しいよ」