ろくでもない事しか起きない
五月の終わりの初めの方だった。珍しく朝早く登校でき、誰も居ない静かな教室で爽やかな初夏の朝を満喫していた。天気は快晴であり、鳥が可愛らしい声で囀っている。
しんっと静まった空間。騒音なんていう無粋な物は聞こえない。心が穏やかになるのを実感すると共に、何故だろうか。静かな高揚を覚える。この瞬間よ永遠に続けと思わず願ってしまう程に、今の僕は満ち足りていた。願わくばこの一瞬の時間を切り取って永久に冷凍保存する技術の開発が望まれる。今この瞬間に誕生しろ。その装置。
体に満ちてるのは溢れ出しそうな程の歓喜じゃない。穏やかな充足感だ。足るを知るというのはきっとこんな感覚なのだろう。
穏やかな気持ちのまま、愛好するスポーツ飲料を口に含む。のんびりと味わい嚥下する。まさか寝ぼけて三十分前に登校したら、こんな穏やかな気持ちになれるとは思わなんだ。
その時だった。穏やかな静寂を乱す無粋な音が教室に響いた。普段なら気にも留めない音量だけど、静かな空間にはことのほか大きく響く。
「あれ? 今日は殺人光線の雨でも降りそうね。困ったわ。長生きしたかったんだけど」
「……随分な言いようだね。というかそれ弾幕じゃ?」
頭を動かせば見慣れた顔。愉快な性格の我が友人、高島佐那が居た。怪訝そうな顔だ。確かにそうだろう。僕は着席時刻の三十秒前。つまりチャイムが鳴る頃に教室に入ってくるのが常だ。そんな奴が二十分前の教室に居る。異常事態だ。
再度扉が開かれる音。入ってきたのは姉川さんだった。彼女は僕の方を見ると、ギョッとした様子だった。時計を確認し、ポケットから携帯端末を取り出して何かを確認する。そして呆然と一言。
「うわあ……。遅刻したかと思った……」
「常識的に考えろよ。遅刻な訳ないだろうに……」
普段皆が僕にどんな印象を抱いているのか問い詰めたい気分だ。爽やかな空気が台無しになった。コミカルな雰囲気なのは好きだけど、朝からぶち込まれると食傷する。体力が持たない。
「ああ、そうそう。一つ伝えることが有るわ」
佐那ちゃんがズズイっと真剣そうな顔を寄せてくる。伝えたいこととは何やら重大な要件らしい。ごくりと唾をのむ。
ガラッと三度目の音が響き、扉は開かれる。入ってきたのは名前覚えて居ない男子。ア行から始まる名前だったことは覚えている。確かサッカー部だったか。
「うわ!? 珍し!」
僕を見てのけぞるモブ野郎。そんなに珍しいか。親しくもない僕を見てそんな反応を見せるレベルなのか。
時刻は朝八時十五分。チャイムまであと十五分の、そろそろ人が増えてくる頃合いだ。朝練に勤しむ連中も切り上げてくる時間だ。
だから続々と朝っぱらから汗臭い男子に女子が群れでぞろぞろと。
「え? 今日日程いつも通りだよな?」
「梅津ちゃん無所属だったよね?」
「うわー。天変地異の前触れやー! 皆逃げろー」
「登校早めるなんて連絡来てたっけ?」
来る奴来る奴どいつもこいつも僕を見れば驚く。珍獣か。僕は珍獣か。ハントされる気は無いぞ。なんで朝っぱらからイライラせにゃならんのだ。爽やかな朝の空気だ台無しだ。にやけた顔を維持するのも限度がある。
最初は「失礼だなー」なんて笑いながら返答していた。出来ていたけど、それが連続するとだんだんと余裕がなくなって来る。終盤の方なんて完全にイライラが顔に出ていたと確信する。
多分今、僕の顔は般若。鬼の形相になっているのだろう。
「くうっ。くっ。ひひ……」
なにか言おうとしていた彼女は自分の机にうつぶせになって肩を震わせていた。寝ている様に顔を両手で隠している。笑ってんじゃねえぞ。スカートめくってパンツ曝け出させてやろうか。
「ぷっ。能面だははははは」
なるほど。鬼の形相ではなく能面のように表情が消えているらしい。それはさぞ面白いだろう。能面は不気味でも人の無表情は笑えるものだ。それは免許証やら学生証が証明している。証明写真は笑顔の宝庫だ。じっくり見たらなぜか笑えてくる。
「ふふふふ……。それでさっきのひひ……。続きだっけどおおおほほほ。昼にひひひっひ決行でえええええ」
なるほど。今日の昼に屋上にアタックするらしい。教師にマークされぬよう、梅高百合百合事件と僕が命名したあの一件から約二か月。ずっと目的を隠し雌伏していた。ああ、この二か月。なんと長く感じた――と言えばそんな事はないけど、確かに良く考えるとちょっとは長く感じたかな、まあ高校に入学して慣れない生活送ってると考えると共用範囲内――だろう。
ただ佐那ちゃんよ。貴女に一つ言いたい。笑いすぎだろ。仏の顔も三度までと言うけど三度目はとっくに終わってるぞ。
「笑いすぎ……」
朝の人が増えてくる時間帯。彼女の押し殺そうとする笑い声が延々耳に入ってきていた。
「はい、それでは時間となりました。歩さん、ヘアピンの用意はオーケー?」
「へいよー……」
どいつもこいつも人を何だと思ってるんだ。結局あのイライラは消える事が無く、しぶとく僕の腹の底に熱く固まってへばり付いていた。いや、正しくは朝のイライラだけではない。しゃべってもないのに一時間目の英語教師から注意され、考え込んでただけなのに国語教師から『寝るな』と言われた。反論してもそう見られるお前が悪い。
どこぞの底辺高校かよ。
「テンション低……もっと張り切ろう? ね?」
元気づけようと彼女が言うが、ぐれた僕の耳には響かない。
「え? 知ってるよ。どうせ失敗するんだよ。考えてみてよ。そう簡単に事が進むと思う? なにかしらの妨害にあったり、知らなかった事実が発覚して失敗するんだよ。僕にはわかる」
「いや、そんな事ないと思いましょうよ」
「そんなことはないさ。僕らの失敗やら僕の体験が出来の悪いコメディ仕立てになって笑いのタネになるのさ。顔も知らない連中のね!」
思っていもない言葉が口から飛び出していく。彼女は何言ってんだこいつという顔をしている。その気持ちはよくわかるさ。でもイラついた感情が言葉になって飛び出るのを止める事は出来なかった。
「何言ってるの?」
「皆笑ってる。僕は笑いものさ。自覚してるよ変人だってね」
声がだんだんと鼻声になっていく。視界が霞むのを自覚する。昼食の場所を教室に定めた連中がざわつくのを知る。
「貴女の夢はそこまでなの? その程度なの?」
「え?」
彼女は何を言っているのだろうか。今はそんな流れじゃない。そんな会話の流れではない。でも不思議な事に、僕の耳にはっきりと響いた。
「諦めるの? ずっと頑張ってきたんでしょ?」
彼女が真剣そうに言う。なんだろうか。この出来の悪いイベントは。まるで何かの漫画のワンシーンだ。現実に遭遇するとは思わなかった。
「諦める訳ないじゃないか。僕はやるよ……」
「その意気よ。さあ、行こ?」
彼女の背についていく。そうだ。僕は何を思っていた。くだらない怒りで夢を何故夢を諦めようとしていたんだ。
「私が監視してるから、できる限り早く解除してね」
そう言う彼女に対し、僕は自信満々な顔で指を三本立てる。訝しそうにそれを眺めた彼女は、小さく「三分?」と聞いてきた。
「三秒で開けられる。この前見た感じではね」
「まさか……」
「まあ、見てなって」
「見てたら見張できないんだけど……」
見送る佐那ちゃんの視線を背中に感じつつ小走りで進む。梅津家の鍵要らずと呼ばれた僕の実力を見せてやろう。きっと驚くだろうな。驚いて尊敬してくれたらうれしい。良い気分になれる。
「ぬるい鍵穴よの……」
伸ばしたヘアピンを突っ込み、かちゃかちゃ弄れば鍵の降りる音がする。手を掛け横にスライドさせれば扉が動く。僕らを二度も防いだ砦があっさりと陥落した瞬間だった。数ミリだけ動かしてみて、開けるのを止める。開ける瞬間は、記念すべき瞬間は佐那ちゃんと共有したい。
駆け足で階段を降り、彼女の所に向かう。
「ん、どうかしたの? 問題発覚?」
「開いた」
「は?」
唖然とする彼女の腕を引っ張り、扉の下にいざなう。
「本当に空いてる……」
小さく呟く彼女の横で、僕はえっへんと胸を張る。喜びで胸が一杯だった。きっと今ならばぎりぎりでB程度の大きさになっているのかもしれない。
「やった、やった! 歩さん最高! 貴女最高よ!」
「よせやい。照れるよ」
ぴょんぴょん跳ねながら抱き着いてくる。抱き着いてぴょんぴょん跳ねる。だけれど僕は油断しない。いつもならば確実にここで妨害が入る。そうなる前に目的を達成しなければならない。
昼寝への一歩かつ、ロマンその一。屋上でお弁当と言う目的を。
「ささ、開けて入ろう。見回りが来る前に」
二人で扉に手を掛ける。顔を見合わせれば、彼女は笑っていた。僕も笑っているのだろう。ふふふっと笑いあい、掛け声を一つ。
「いっせーのっせ」
ガラッと勢いよく扉を開ければそこには扉があった。
「……ん?」
声がハモる。これは一体どういう事だろうか。
「歩さん。開けた? これ」
「開けてない。と言うか無理。電子ロックだ」
物々しい機器が扉の横についていた。番号を打ち込む為のキーも一緒だ。曇りガラスは強化ガラス。殴れば腕を痛めかねないし、割れたとしても音で気付かれる。
「でも希望はあるよ。このタイプは電力がなくなるとただの鍵になるんだ。非常時に開けれなかったら困るからね」
でも電力の供給を絶つ術は僕等にはない。もしやれたとしても確実に警察の事案になる。この歳で前科者はきつい。
嘆きのため息を一つ。そしてふと、何かの気配に気が付く。後ろから感じられる圧倒的な気配。認識すると同時に汗が全身から噴き出る。大粒の汗が一滴。最初の一滴が身体を離れ、床に当たりって散ると同時に、
「貴様ら。そこで何をしている?」
地の底から響いたと言われても信じる声。大よそ人間が出せるとは思えぬ声。それは最悪の敵に、言い訳できないタイミングで遭遇した事を知らせる物だった。
「あ、あああ……」
佐那ちゃんがぶるぶると震える。顔色が真っ青だった。
僕の命に替えても、彼女を逃がさねばならない。森羅万象。そうさ、この世にあまねく存在する万物を味方として、最善の行動最適の行動をとってようやく勝利できる最強の敵。
その名を、
「ゴ、ゴリだあああああ」
またしても僕らの声はハモった。
「誰がゴリだ! 俺は剛力だ!」
ゴリの声、響き渡り大地を揺らす。キーンと響く耳鳴りが鼓膜が限界であると告げる。三半規管がやられたのか妙に体がふらつく。ゴリの気配は足音と共に近づいてくる。
「お前ら一年か? どうやって扉を開けた? ここは立ち入り禁止だぞ」
身体が思う様に動かない。佐那ちゃんが動かない。さっきまであんなに震えていたのに。そっと見てみれば白目剥いて泡吹いて気絶していた。立ったまま気絶していた。
「うっそーん」
妙に舌っ足らずな声。僕の声。口の中に水分が多い時の、唾が多い時の声だ。ふっと吐き出してみれば、一つの泡がシャボン玉みたいにぴゅっと飛び出して割れた。
「うっそーん……」
それを自覚した瞬間、視界が霞みゆっくりと、やけにゆっくりと後ろへと倒れていく感覚。
「お、おい!? どうした!」
ゴリの分厚い胸板に支えられた女子高生二名。犯罪的な絵面だと思う。意識が消える最後の瞬間に思ったのは、ゴリは見た目通り汗臭い奴だったという事だ。こいつが体育担当の男子連中が可哀想だった。
「オェ……獣の……ビーストスメル……」
「おい! 大丈夫か! おい!」
目覚めると白いカーテンがあった。知らない天井だと言いたかったけども、どうやら寝返りを打ったか何かで横を向いていたみたいだった。
病院やらの医療機関特有の何とも言えない臭い。遠くから体育だろうか。はしゃぎまわる生徒の声が聞こえてくる。
フカフカで温かいベッドに毛布。下手したら我が家のよりも質が良いかもしれない。学校の備品に敗北する、少しへこむ。
反対方向を見やれば、やっぱり白いカーテン。保健室に居るみたいだった。
「目が覚めたの?」
保険の先生がカーテンをめくって覗き込んでくる。
「先生、なにがあったんですか? 佐那ちゃんは?」
「高島さんなら隣で寝てるよ。頭痛いとか、変なところはない?」
先生が向かって左側を指さす。ベッドから手を伸ばし、カーテンをめくればまたカーテン。
「特にないです」
「そう、それは良かった。剛力先生泡食っちゃってたから」
あのゴリが泡食って驚く様は見てみたかった。気絶している場合ではなかったようだ。一生の不覚だ。ついてない。
「親御さんは呼んでおいたから、すぐに来るって。一応病院行きなさいよ? 異常あったら大変だから」
「……分かりました」
これは不味い事になった。良い言い訳を考えなければならない。そして口裏を合わせねばならない。ゴリの追撃を防ぐためにも。
寝ている場合じゃないぞと、佐那ちゃんを起すべくベッドから降り、カーテンをめくる。
苦悶に満ち溢れた表情で眠りについていた。
「高島さんはずっとうなされているのよ……」
なるほど。確かにうなされている。知らない人からすればかなり心配な姿だ。けれども事情を知っている僕にとっては脱力すべき光景だ。なんてことはない。彼女は気絶していても平常運転だった。
そういえば髪をほどいた姿初めて見た。印象が随分と変わるものだ。クールビューティーと言う奴だろうか。ただいつもの姿を知っていればクールビューティーではなく、むしろ狂うびゅーてぃーって感じだ。残念さしかない。
耳元に顔を寄せ、内緒話でもするようにそっとささやく。
「宇宙の神秘は無限大。無限大」
苦悶から穏やかな涅槃の表情に。解脱に成功したのかどうかは定かではない。そして開眼、絶叫。
「ギャラクシー君人形!? どこだ!」
「宇宙の神秘人形君じゃなかったの?」
彼女は宇宙柄の布団じゃないと寝られない人種だ。それが無理なら同じ柄の抱き枕か宇宙の神秘人形ギャラクシー君を用意してやる必要がある。心底頭イカレてると思う。
無理に寝かせるとご覧の有様だ。悪夢を見て苦悶に満ち溢れた表情となる。奇人変人通り越して狂人だ。
「先生、驚かないでください。この娘、馬鹿なんです」
「……ああそうなの」
驚いて凍り付く保険の先生にフォローを入れる。先生は内線の受話器をかちゃりと置いた。
「剛力先生今から来るらしいから」
「分かりました。佐那ちゃん大丈夫?」
心配するふりをして顔を近寄せる。彼女は苦々しい表情を浮かべていた。
「ちっ宇宙の神秘人形君いないのか……」
「どっちだよお前。はっきりしろよ」
そんな事よりもゴリへの言い訳を伝えねばならない。ゴリが強く出られない様にしつつ、なおかつ追及を躱す最高の言い訳は、ついさっき思い浮かんだ。自分の天才性が空恐ろしい。
「誰になに聞かれても、覚えてませんで通そう」
「分かった」
彼女も察したのか、力強くうなずく。
数分後、二つの足音と何やら男の人が話している声。両方とも聞き覚えがある声だった。実に頭が痛い。
「高島。梅津。大丈夫だったか? すまなかった」
ゴリがそう言って保健室に足を踏み入れた瞬間だった。
廊下から脳みそに突き刺さる狂った電子音が響く。先生もゴリも驚き思わず耳を塞いでいる。僕は枕の下に頭を埋める。あのレーザーの演出が無いけれども、この騒音は確かに聞いたことが有る。あの男が来たんだ。
「ノープレブレーム!? 我が愛娘よお!」
間違った英語の使い方を学び舎である学校でシャウトするという暴挙。その勇気に敬服する。枕を浮かせ、ちらりと見れば喫茶店のマスターが居た。
「父さんうるさい!」
「私の娘がご迷惑をおかけいたしました」
そう言ってマスターは頭を深く下げた。ゴリと保険の先生は唖然とそれを眺めていた。その気持ちはよくわかる。自分がおかしくなったのか、それとも相手がおかしいのか分からなくなる感覚は僕も体験した。きつい物だ。
「何事ですか!?」
馬鹿みたいな電子音なんか立てた物だから校長先生が驚いてパニックになってるよ。今やってきた直後なのに可哀想な物だ。きっと謝罪とか色々考えていたんだろうけど、それが抜けてないか心配だ。
「娘は大丈夫なんですか? 友人の子も。どのような経緯でこのような事に?」
ゴリと保険の先生が顔を見合わせる。そりゃそうだろう。中止したら恐怖で気絶されました、どう説明したらいいのか分からない。気絶した本人が驚いているのだから。
「私覚えてないの……私はどこ? ここは誰?」
「佐那ちゃんやっぱり馬鹿でしょ!?」
覚えていないってそういう事じゃないよと、僕は頭を抱えるのだった。
ただ、彼女の馬鹿な行為が場を和ませるためのボケと受け取られた事。皆がつい笑って、和やかな雰囲気になったのが唯一の救いだった。
どうやってフォローしようかと考えている僕と、どうすれば良いと助けを求める眼でこっちを見てくる彼女以外は。