ようじが済まなくても立ち去ろう
「ん? 誰か居るんですか?」
階下から響く人の声。互いに階下を見る。影が壁に差していた。
中年以上の女性の声。学校でこんな声を出せるのは掃除のおばちゃんか、親とかの来客者。一番多いのは教師。わざわざ立ち入り禁止の場所から聞こえてきた声を詮索しようとするのは教師しかいない。
二人して顔を見合わせる。
「しー……」
自分の指を唇に押し当て、静かにするように促す。手すりの陰にしゃがんで姿を隠すようにジェスチャーで指示する。息を殺し、彼女と一緒に小さくなる。制服越しに彼女の体温を感じ、少しドキドキする。
「確かに声が聞こえた気がするんだけど……隠れても無駄よ」
階段を一歩一歩昇る音。確実に近づいてきている。隠れ場所は他にない。昇り切って覗き込まれたら一瞬で見つかる。どうすれば良いのか、必死に頭を働かせる。
隣を見れば、彼女は眼をきょろきょろとさせている。完全に混乱している様子だった。
そうか。僕一人じゃないんだ。二人でならば切り抜けれられる方法がある。正確に言えば、相手を混乱させて怒る気を失わせるとっておきの方法が。
そして僕にとって得な、素晴らしくも都合の良い手段が。
「ちょっとごめんねー」
「へ……!?」
耳元で小さく謝る。
彼女を胸に抱きしめ、僕自身の頭を彼女の髪の毛にうずめる。温かくて柔らかくて、頭は固くて。小顔の彼女の小さな骨格を顔で感じる。石鹸の香り。清潔な香りがした。
さらさらな髪が鼻を刺激してくしゃみが飛び出そうになるけど、そこはぐっと堪える。そんな事をしたら全てが台無しになってしまう。涎と鼻水で彼女を汚したくないし、悪い気がする。
「な、なにを!?」
「動かない動かない。これでやり過ごすよ」
「んな!?」
もぞもぞと暴れる彼女を軽く抑え込む。胸元を柔らかい体で刺激されてこしょばゆかった。コツさえ知っていれば動きを抑制する事なんて簡単だ。鍛錬の一つもしていない小娘一人拘束する事なんて、倫理と良心と法律と人間関係とご近所様の評判が許せば朝飯目だ。眠気眼こすっている状態でも出来る。
ふと昔隣のおっちゃんが飼っていた猫を抱いたことを思いだす。あのぶち柄猫。あの世で元気に餌でもタカっているのかな。名前無駄に格好良かったし、きっと色んな仏さんに苦笑いされているんだろう。
ぶち柄猫で愛嬌が有ったハインリッヒ・フォン・ゲイラー君を思いだして涙ぐみそうになる。生まれも育ちも純国産だったのにドイツ貴族みたいな名前だった。大往生だった。ささやかに行われた葬式では飼い主のおっちゃんより大泣きした。
「ん? やっぱりだれかいるのね! ここは生徒立ち入り禁止よ! ……え? ええっと……え?」
影が差したのがなんとなく察せられる。目の前に誰かが立った気配。声も近い。困惑している様子だ。
当然だろう。立ち入り禁止の場所を見回りに来たら、女子二人が抱き合っていのだから。ここから僕の演技力でもって先生を騙す。大根役者でない事を祈りたい。相手が困惑したこの瞬間に畳みかけ、正常な判断能力を失わせるのだ。勢いが肝心。全ては勢いだ。
見せつける様に少し強めに力を入れる。彼女がびくっと身じろぎする。ゆっくりと、本当にゆっくりと顔を起す。
「ん? あ……」
まるで初めて先生が立っている事に気が付いた風に目を見開く。このとろんと蕩けた眼を見よ。目を瞑ればすぐさま眠気が襲ってくる僕の本能を利用した迫真の演技。故に動作もなんとなく億劫そうに見える筈だ。幸せそうな顔を見よ。カワイ子ちゃんを抱きしめている喜びに満ちているだろう。可愛いは正義なのだ。
見上げた先。女子体育担当のおばちゃん先生は軽く口を開けて僕達を凝視していた。完全に思考停止している様子だ。完璧だ。素晴らしい。狙い通りじゃないか。
暫し二人で見つめあう。おぼちゃんの眼には小さな僕達が映っているし、きっと僕の眼には間抜け面のおばちゃん先生が写っているに違いない。
「すいませんでした」
「ここで何を?」
どちらともなく口を開く。僕は謝罪の言葉で、おばちゃんは疑問の言葉。口をつぐんだのは同時だ。二人一緒に口を閉じ、再度沈黙の間が出来る。考える時間を与えない方が良い。疑問に答えよう。おばちゃんの価値観の外にある別の価値観をぶつけるのだ。
「二人っきりになれる場所が欲しかったんです……。その、我慢できなくて。女の子同士だし……変ですよね?」
「へ!? ああ、変じゃないわよ! これも個性よ。人それぞれだもの!」
おばちゃんの声が裏返っていた。目のやり場に困っているのか視線がさまよっている。眼球があっちゃこっちゃ落ち着きなさげに動いている。身体を左右に小さく揺らしている。完全に動揺しているみたいだ。
「あの、他の人には秘密にお願いできますか? もし知られたら……変わり者扱いか、いじめられるかもしれないですし……」
怯えた風にぶるりと震えてみせ、抱き直す。彼女も空気を読んだのか、僕の胸の中で小刻みに震える。良いぞ。良い演技だ。アカデミー賞主演女優賞も夢じゃない。
「いじめ!? 大丈夫よ。黙ってるから! ここは生徒立ち入り禁止だし、他の先生もたまに見回りに来るから二度と来たらだめよ。分かったら他の場所に移動してね」
そう言って階段を降り、僕らの前から立ち去って行った。小さく、最近の子は分からないだの、進んでるだの聞こえてくる。
いじめと言うパワーワードの威力は絶大だった。そりゃあ教師も自分が口を滑らせたせいでいじめが発生したとか考えたくもない悪夢だろう。百合百合した価値観と、一番恐れるいじめ発言のコンボで教師は完全に判断能力を喪失したみたいだ。
「勝ったか……。僕に勝負を挑もうなどと、浅はかな」
幸せを生み出してくれる彼女の背中から片手を離し、髪をかき上げる。ああ、勝利の味とはなんと美味なのだろう。けれども強者とはえてして孤独な者。いつの日かこの味に飽き、悲しみを覚える事すらあるかもしれない。
「……さい」
「ん?」
未だにぷるぷると震える彼女がなにかを言った気がした。手を緩め、見下ろす。可愛いつむじがはっきりと見える。そのつむじは一瞬で大きくなり、僕の視界一杯に広がる。シルクの様な肌触りの髪の感触は一瞬にして過ぎ、その下の温かい皮膚。クッションにもならない皮膚が僕の鼻に押し付けられる。
「うごっ!?」
頭蓋骨は硬い物だ。人体の最も重要な器官である脳を守るためにあるのだから、頑丈でなくてはならない。
それを満身の力で急加速し、目標に向けて突撃させる攻撃を人はなんというだろうか。答えは頭突きだ。攻撃を与えた方も与えられた方もダメージが大きい攻撃。彼女は石頭みたいだった。僕の鼻がつんっとした痛みで教えてくれるから間違いない。
「呼吸が止まるかと思ったわよ!」
温かい液体らしき何かが奥から流れている感触。こういう時上を向くのは逆効果だと教わった。慌てて下を向き、鼻を手で抑える。彼女が怒り心頭で何かを言っている。けれども僕にはそれに対して反応する余裕がない。
「なんであんなに力強く……どうしたの?」
「鼻血」
怒りから一転、今度は心配そうな口調で聞いてくる。僕は鼻声で簡潔に答える。指先で、調べられる範囲は調べた。特段異常は見受けられなかった。ずきずき痛むという点を除けば。けれどもそれは触覚で調べただけだ。見た目に何か異常があるかもしれない。
「折れてない? 変色してない?」
一番心配する部分を聞いてみる。彼女の返事はため息だった。これには怯えた。ため息を吐くレベルで大変な事になっているのかと。
「変色は赤くなっているだけ。折れてないかどうかは詳しい事は分からないけど……触ればわかるでしょ? 折れてた?」
最後の方は心配そうだった。僕の顔を覗き込んで聞いてくる。痛みで涙が浮かんで、その涙で彼女の顔が歪んで見える。最初の一滴が落ちた。
「分からない……折れてないと思う」
「泣く程痛いの?。悪い事しちゃったかも。ほらハンカチとティッシュ。涙拭ってあげるから鼻に詰めて」
優しくも罪悪感たっぷりの声に促されるままに手を離す。大粒の鼻血が一滴、また一滴と床に垂れ、円を作るのが見て取れる。急いでティッシュを丸め、両の鼻に詰め込む。鼻で呼吸が出来なくなり、口呼吸を強いられる。
「こんなに鼻血が出て」
僕の目頭をトントンと優しく拭ってくれる彼女は驚いた風に言う。そうやってあらかた全ての涙を拭うと、丁寧に畳んで再度自分のポケットに仕舞い直した。
そしてポケットティッシュから何枚か引き抜くと、床に落ちた温かいままであろう僕の血拭き始める。
「謝りはしないよ」
「分かってるよ」
僕も一緒に拭きつつ、調子っぱずれな鼻声で返答をする。我が事なれどかなり間抜けな響きに思えた。彼女もそう思ったのか、一瞬だけにやりと笑う。
「何だよー。笑わないでよー」
僕は頬を膨らませ、分かりやすくむくれてみせる。半分は冗談。半分は抗議の意味だ。気安さを込めて僕から彼女に投げる会話のキャッチボール。なんて楽しいのだろう。彼女は高校に入って、最初の友達になるのかもしれない。
「笑ってないよ。落ち着いた? なら移動しよう。また別の先生来ても面倒だし。結構時間かかったしお昼食べたいから」
「ん……。分かった」
二人一緒にこっそりと階段を下りていく。一歩一歩進むごとに賑やかな声はだんだんと大きくなっていった。声が僕らを包むとともに、今までは静かな空間に身を置いていたのだと今更ながらはっきりと自覚する。痛感したと言い換えても良いかもしれない。
それの感覚は小さな、本当にちっぽけな寂しさを感じさせる物だった。何か特別な空間から帰ってきた時の、あの虚しさ。例えるならお祭りが終わった時に感じる感覚に近い。大好きなアニメが最終回を迎えた感覚でも良い。
「そういえば君の名前ってなんだっけ?」
寂しさを紛らわせようとしたのか、考える前に口から言葉が転げ出てきた。これには自分でも驚いたと同時に、焦った。彼女は僕の名前を覚えていた。けれども僕は覚えていない。随分と露骨で、なおかつ失礼な質問だと思ったからだ。
「二度目の自己紹介か……。高島よ」
「いや、下の名前の方」
三階にこっそりと降り立つ。どこかへ向かうらしい彼女について歩く。下の階に降りる男子のグループとすれ違う。皆僕を見て一様にギョッとしていた。やや早歩きで仲良さげに進む団体。僕らも傍から見たらそんな風に仲の良い友達同士に見えているのだろうか。
見えていたら嬉しいと思う。けれども多分見えていないと思う自分も居る。彼女は全くの無表情で、とても楽しそうには見えなかったからだ。
失礼な質問をした僕が、リカバリーすべく言った嘘。簡単な処世術の一つだ。相手に名前を聞くと大抵は苗字を答える。そしたら下の名前の方だと言う。ただそれだけで、相手のフルネームを知ることが出来るし、別に名前を忘れていた訳じゃありませんよと言い訳する事が出来る。完璧な作戦だ。
「ああそっち。佐那よ」
「佐那か……。覚えた。忘れない」
どうだか、と高島さんは言う。正直僕も同感だ。忘れたくなくても物覚えが悪いから忘れてしまう事がある。小さいころから続く、僕の悪癖だ。頑固にこびり付いて落ちない油汚れみたいにしぶとい。こればかりはどうしようもない。頑張って覚えるしかない。
すれ違う人たちから二度見されながら、フロアの中頃まで進む。工型になっている校舎の中頃。そこには渡り廊下がある。渡り廊下から向こう側にはちらほら何人かは居るけれども、数自体は一年生のフロアよりも圧倒的に少ない。
「どこに行くの?」
「保健室」
渡り廊下を渡りだした高島さんに問いかけてみると、予想外の返事が返ってきた。保健室に行こうなんて言い出すとは思わなかったのだ。鼻血なんて物はティッシュでも詰めておけば止まるからだ。
「いや、保健室は良いよ。鼻血くらいで」
「いや、行こう。念の為に診てもらおう」
二人で歩きながら、行く、行かないと押し問答を繰り広げるも、最終的には言いくるめられて行く事になってしまった。高島さんは大げさだと思う。
教科ごとの教室が密集している二号棟の三階を進む。進めば進むほどに人影は減っていき、最終的には誰ともすれ違わなくなってしまった。もしも今が夕方だったのなら肝試しには良い雰囲気だ。
日陰で薄暗い階段を降り、一階へ行く。ここには職員玄関やら事務室やら応接室やら、取り敢えず学校業務を回すための部屋が密集している。職員室を除けば殆どがこのフロアにあると言っても良い。なにせ簡易的な事務室には簡易的な放送設備もある。文字通り学校の心臓部だ。
基本的に職員玄関側へは生徒立ち入り禁止だ。静かな空間を元気に乱されてはたまらないとの事だった。だからこれより先立ち入り禁止の看板が廊下のど真ん中に立ててある。
生徒立ち入り禁止の看板が含む範囲の、ぎりぎり前。生徒が立ち入っても良い場所の瀬戸際。そこに保健室はある。
心理的に行く気を失わせる絶妙のポジションだ。図面を書いた建築会社の人には拍手を送りたい。
「居るみたいね。良かった」
扉に下がっている猫の形をした札は在室になっていた。ひっくり返せば不在表記になるのだろう。
「失礼します」
高橋さんはノックを二回。僕はと言うと彼女の後ろにただ立っているだけ。恥ずかしい話し人見知りをする性質だ。こういう部屋に来ることすら尻込みしてしまう程に。
だからこういったのは彼女に任せる事にした。
「はいどうぞ」
小さく中から返事が聞こえる。扉を横に押し開け入る。美人保険医が座って書類を書いているという、甘い考えは顔合わせの学年集会の時に捨てていた。捨てざるを得なかった。
座っていたのはこれまたおばちゃん。しかも目つきが中々にきつい。治療してほしい部類の先生かと聞かれれば、顔で選んで良いのならば選ばない、と思わず失礼な事を言ってしまう程に意地が悪そうな顔だった。
「鼻血?」
僕をちらりと見て、机の引き出しを開けた。
「はい。鼻をぶつけちゃって……」
「そう。これに氏名生徒番号、あと原因書いて」
差し出されたのフォルダを見れば、今まで保健室にやってきた人と、日付、時間が書き込まれた書類が挟まっていた。紐でシャーペンが結び付けられている。これで書けと言うのだろう。
「そっちは付き添い?」
「はい」
僕が書いている間に、高島さんと保険医の先生はなにやら喋っていた。痛みの有無やらなんやらの項目に丸を付けていき、最後の一項目も答え終わると顔を上げる。
「終りました」
「はい。それじゃあここに座って」
先生の前の椅子に座る様に促される。フォルダを渡すと、ざっと目を通す。
「特に問題はないみたいね。ティッシュ外して。ガーゼに変えるから」
外す時、きゅっぽんと音がしそうなくらいにしっかりと詰めた右のティッシュを外す。血の量は減っているも、まだ止まっていはいないみたいだった。穴から垂れるのが感覚でわかる。
見事に小さく丸めたガーゼを詰め込まれた。
「うひゃあ!?」
同じようにぎっちり詰めた左ティッシュを外すと、見事なまでに長い鼻水が一緒に出てきた。ぬらぬらと血にまみれている。それが僕の手にねっとりと乗っかる。その汚さ、おぞましさ、驚きに思わず振り払ってしまう。
「うわあ!?」
勢いよく飛んだ小さな血の一滴は、彼女の頬にぺちょりと付く。鼻水が混じった、ねっとりしたのが。これには彼女も慌てた。上半身を大きくのけぞらせ、平均くらいの胸を持たざる者である僕に、これでもかと強調する。
「ティッシュ! ティッシュ!」
自分のポケットにお望みの物が入っているのも忘れ、慌てふためく高島さん。先生が素早くボックスティッシュを差し出して事なきを得た。
「こっちも若干出てるね。詰めるよ」
見事に小さく丸めたガーゼを詰め込まれた。両穴ともに再度の完全封鎖。鼻血完全封印である。
「僕は謝らないよ」
「いや、謝りなさいよ」
凄まじい勢いで頬を拭く高島さんに、さっき言われた台詞をためしにそのままぶつけてみる。高島さんからは凄い形相で睨まれ、先生からは呆れ様な口調で突っ込まれた。
「ごめんなんさい。いや本当にすいませんでした」
平身低頭、ひたすらにぺこぺこ謝る事になったのは言うまでもない。