くるしいときには現実逃避を
屋上で昼寝したい。その想いは次第に強く、大きく、重くなっていった。その狂おしいまでの重みから、やっとこさ解放されると思ったのに。なのに現実はどこまで非情なんだ。こんなの間違っている。
あの忌々しい扉に、強大な敵の出現。これは面倒だ。僕の培ってきた技の全てを駆使し、ありとあらゆる環境を味方につけても勝てるかどうか危うい相手。
僕は怒っている筈だ。憤っている筈なのに何故だろうか。震えが止まらない。わくわく、興奮が止まらない。
体が熱い原因は全力で自転車を立ち漕ぎしているからではないだろう。良いね。燃えるよ。敵は大きく、強くあればあるほど興奮する。最高だ。絶対に越えてみせるさ。
一杯食わせてやる。全力で出し抜いてやるぞゴリ。首を洗って待ってろ。
お腹の底から湧き出る熱い物が徐々に上に向かう。肺の空気を巻き込み、食道を通り、そして口から飛び出る。衝動を言葉に変換し、雄たけびと宣言を行う。
「今に見てろよゴリ! 絶対にいいいいひゃあああああ!?」
「ひぃ!? ちょっとポチスェーちゃん! 止めなさい!」
ちょうどすれ違った散歩中の大型犬に吠えられた。ポチスェー、全力の威嚇だった。
飼い主らしきパンチパーマのおばさんが怯えて、犬がそれに反応したみたいだった。葉桜並木をわんこと一緒に堪能していたのに、驚かせちゃってごめんなさいと心の中で謝る。
あとそのシェパードって、軍用犬ですか。少なくともポチってタマじゃありませんよね。こう、残党掃討作戦に参加していそうな気配だ。鍛えてる僕が言うんだ。間違いない。
その場から全力で離れる。カゴに放り込んだ鞄が左右に動いてバランスが乱れそうになるのも無視して全力で。
暫くそのまま進み、通りに出ると速度を落としゆっくり走る。風で冷えたせいだろうか。座席がやけに冷たい。
さっきまでの田舎の桜並木と違い、住宅街も近く小学生の通学路にかち合う。ぶつかったら事だ。
前方から賑やかな声。道一杯に広がったランドセルを背負った子供たちの姿。少女と少年が仲良くはしゃぎながら帰宅中。殿には僕と同じくらいの身長の女の子。先方には女の子より少し大きい男の子。最近の子供は大きい。高校一年生の僕とどっこいどっこいだから驚く。僕がチビすぎる訳じゃないと信じたい。
速度を更に落とし、女の子に声をかける。
「ごめんねー。ちょっと通らせてねー」
女の子は一瞬僕の方を見る。そして前へ向き直る。
「あ、ごめんなさい。皆ー!。自転車通るよー!」
女の子の声掛けに、チビ達は素直に答える。キャッキャ言いながら端に寄って止まる。僕が通れるようにしてくれる。可愛らしい光景だ。思わずニコニコしてしまう。
そのにやけ顔のまま、ぺこりと会釈してすれ違う。
「えっ?」
女の子の困惑した声が聞こえた気がした。どうしたと言うのだろか。振り返ると目をまん丸にして僕の腰辺りを凝視していた。そのまま前へ視線をスライドさせる。何故男衆は皆にやにやしているのだろう。
小太りな少年が僕を指さす。大口開けてなにを言うつもりだい。
何となく聞き逃してはいけないと、僕は自転車を止めた。
「この姉ちゃん! チジョだ!」
突然ぶつけられた言葉に頭が真っ白になる。周囲を見回す。僕以外には小学生の集団しかいない。つまり、この男の子の仲間しか居ない。
チジョ。チジョ。痴女。そうか痴女か。どこに居るのだろう。僕には見えないモノが、彼には見えているのだろうか。それはそれで恐ろしいな。痴女の霊か。僕は心霊系が苦手なんだよ。そういうのはテレビの特番だけにしておくれ。
「真っ白! パンツ真っ白! 後ろ剥き出しいいい! 変態だ! みんな逃げろおおお! 変態菌がうつるぞおおおおお!」
そう叫んで彼は駆けだす。つられて他の子供たちも歓声にも聞こえる悲鳴を上げて逃げる。高学年の子も、僕を視界に収めない様にしながら追いかけていく。
出遅れた一年生ぽい女の子が転んで泣いた。
「大丈夫?」
「ヘンタイいい! いやああああああああ!」
自転車から降りて手を伸ばし、起き上がらせようとしたら号泣された。絶叫もおまけで。そして子供とは思えない将来有望な走りで逃げ去っていく。遠ざかる声で、不審者と連呼しているのが聞こえた。
腰に腕を回すとパンツが手に触れた。どうやらセーラー服の裾にスカートが引っかかっていたみたいだ。階段から飛び降りたのが原因だろう。
なるほどね。これが原因か。つまり僕は学校からここまでパンツ丸出しで走ってきたのか。そうかあ。そうだったのね。
天を見上げる。青く良く晴れた空の光が目に痛かった。黙ってスカートを直す。目が熱くなり空が滲んだ。不思議な体験だと思った。
郊外の一軒家。青色の屋根がなんとなくお洒落な雰囲気を感じさせなくもない家が我が家だ。父さんが随分と無茶して建てた元新築。郊外だけど結構なお値段だったらしい。ローンも結構残ってる。
家に隣接する車庫のシャッターに鍵を差し込み、くるりと回す。ガニ股になり、全力で上に押し上げる。立て付けが随分と悪くなった。今度油を差さなければ。
電気をつけ、自転車を中に入れる。そしてシャッターを閉め、鍵をかける。
打ちっぱなしの車庫の奥。棚やら段ボールやらが積み上げられている部分に自転車を止める。赤い自転車が先に置かれていた。妹が帰っているみたいだった。
横の扉に、さっきとは別の鍵を差し込む。扉を開けば玄関だ。愛しのマイホーム。車庫に行くにも外を通らなくて済む優れもの。雨風雪が凄い日は随分と重宝する。冷暖房も完備してくれたら完璧だ。喜び過ぎて死んじゃうかもしれない。
僕は喜びで死に、家計は負担で死ぬ。
「ただいま。うるさ……」
扉を開けた瞬間、聴こえるのは爆音だった。軽快な音楽。人間に良く似た人間ではない者の声。間違いない。ボーカリストロボだ。素人でも簡単に音楽を作れると一世を風靡したツールソフト。萌えキャラ化し、ゲームにまでなった。
それを大音量でプレイしているみたいだ。よく家の外に音が漏れなかったと感心する。
音の発生源はリビングのようだった。急いで靴を脱ぎ、バカ妹を止めるべく閉められた扉まで突進する。
「また母さんに怒られるっぞおおおおお!?」
廊下、階段前に何故か設置してあった台所マットで滑る。周囲の動きがスローモーションになり、床がゆっくりと僕の頭をかち割ろうと迫ってくる。
「ふんっ!」
両手を後ろへ。床と接触。そのままの勢いで、体を跳ね上げる。海老反りから頭を上に戻す。バク転である。綺麗に決まった。
そのままクラウチングスタートの体勢。再度突撃。全てを流れるように行う。
研ぎ澄まされた僕の聴覚には、爆音の中に混ざる愚妹の舌打ちが聴こえた。
成る程。ブービートラップか。小癪な真似を。
扉を勢いのままに押し開ける。開かない。屋上での一件を思い出す。ちょっと不愉快になる。どいつもこいつも施錠施錠。そんなに僕を入れたくないのかねえ。
けれどもこの扉をには鍵は存在しない。つまりはバリケードか。リビングにある使えそうな家具を脳内でリストアップする。
ちょっと大きい棚、ソファー、テーブル。
棚は中に物が多い。愚妹には動かせないから却下。テーブルは普通に動かせるけど、母さんのお気に入りだから却下。つまりソファーか。
頑張ったなあ。もうソファー動かせるまで成長して。昔はあんなに小さかったのにねえ。こんなところで妹の成長を実感するなんて。お姉ちゃん嬉しい。
妹が成長し、己の持つ全技術で掛かってくると言うのなら、僕も全力で答えよう。
「ほあっちゃああああ!」
回し蹴り。衝撃と確かな手応え。足応えと言い換えよう。バリケードをずらし、扉を開けるだけの隙間の確保に成功する。
得意な顔で体を滑り込ませた僕の視線の先。必死な形相で突っ込んでくる妹がそこに居た。
得意な顔のまま、ラリアットが首に決まる。体はそのまま後ろの壁に叩きつけられずるりと伝い、床に横たわる。
「お姉ちゃん。甘いね。練乳とカスタードクリームぶちこんだ牛乳より甘い」
目がチカチカする。物凄く痛い。愚妹は僕を無表情で見たあと、のっしのっしとテレビの前に戻っていった。
僕は何故こんな目に会わなければならないのだろう。疑問でしょうがない。眦が熱くなる。二年仕込みの夢は直前で阻止され、軍用犬には吠えられ、小学生には痴女と罵られ、パンツ丸出しで。
いったいどれほどの人が僕の純白パンツを眼にしたのか見当もつかない。明日からご近所様にどんな顔をすれば良いのか。
そして今は、母さんに怒られないように、姉としての愛情を発揮して愚妹を注意しようとしたら全力の迎撃にあった。
喉元がじんじんする。痣になったかもしれない。
こうやって無様に天井を見上げるだけ。床が冷えてて冷たい。
熱い汁が耳元を伝う。そっと顔を動かして妹の方を見てみる。
音楽に合わせてやたらめったらにキレの良い動きで踊っていた。たぷたぷの二の腕がぶるんぶるん震えている。彼女の大好きなプリンみたいにプルンプルンだ。
「エブリーメーン! オカワリイエーイ!」
勘弁してよ。英語は苦手なんだ。曲調が変わる。二曲目に入ったみたいだった。両手を上に上げて、フラフープを回すみたいな腰の動きを高速で行う。腰も、太ももの肉もプルンプルンだ。腰は服で見えないけど、絶対ぶるんぶるん震えてる。
そこまで動けて、なぜ痩せない。
こうやって視線を天井に戻す。横たわって泣いているのに一瞥もされない自分と、昔はあんなにも可愛かった妹を想い、惨めになった。
昔は最高に可愛かった。僕の背中に乗るのをいつもせがんでた。四つん這いになるときゃっきゃと喜んでは背中をぺしぺし撫でてくれた。
僕の大好きな椎茸が出ると、いつも皆に隠れてこっそりくれた。
僕が小さくて可愛いもの好きなの知ってるから、自分と同年代の友達に紹介してくれたし、遊びにも誘ってくれた。
一番多かったのはたしか、おままごとか。いつも犬役だったなあ。可愛い女の子達に撫でられて。
たまに別の役がやりたいって言うと、皆笑って猫の役をくれたっけ。
あれ。動物扱いしかされてないんじゃ。
「もう嫌だよ! 家帰りたい!」
「ここはもう家だよ! ……えっまだ寝てる」
「そうだった!」
本気できついときに出る口癖を口にした僕を、妹はめんどくさそうに振り返った。そしてぎょっとした。
もっと戦けば良い。そして姉の惨めな姿をみて良心の呵責に耐えられなくなり、反省しろ。
そして僕を敬うのだ。そうすれば幸せな生活を約束しよう。
「っち。ソファー戻すの手伝って」
爆音が止んだ。どうやら電源を切ったみたいだ。これで怒鳴らなくても声が届く。
体を起こすと、周辺機器であるカメラをテレビから外している姿があった。
「言うことがあるんじゃない? ほら、態度を省みてなんか思わないの?」
例えば痛がってる姉に対する謝罪の言葉とか。
僕の言葉に愛する妹はピタリと動きを止めた。謝るのならば快く許そう。僕は心が広い女だ。
明日のおやつを献上する位で手を打とうという寛大さだ。こんなにも優しい僕は、きっと聖人なのだろうと確信する。
「幼児体型のチビが……。身長縮めてやろうか? 十センチくらいによ。嫌ならチャキチャキ働け」
この物言いに、口をあんぐりと開けることしか出来なかった。あまりにもあんまりだ。言うに事欠いて幼児体型と。
というか僕は被害者だぞ。それなのに、それなのに。
「ちょっと! それは無いんじゃ――」
「百パーセントオレンジジュースの炭酸が欲しくないの?」
これには口をつぐんだ。彼女は今なんて言った。百パーセントオレンジジュースだと聞こえた。百パーセントジュースは僕の好物だ。
特にオレンジは最高だ。柑橘類。最高じゃないか。
それに炭酸を混ぜた飲料。至高の逸品だと聞いた瞬間に確信できる。
「その程度で……僕が釣れると思ってるのか!」
「ならば要らないね?」
「是非とも手伝わさせて下さい」
即答だった。プライドなんて全てかなぐり捨てていた。頭で考える前に体が反応していた。体が理性の支配を離れて、勝手に行動し始める。恐怖体験だ。僕は脳が二つあったのだろうか。それとも人格が二つあって、今身体を支配しているのはそのもう一人の僕なのだろうか。だったら今すぐに消えて欲しい。僕は僕だ。だから今すぐにでも炭酸飲みたいです。
「んじゃあ機体片付けて。ソファーは私がやる。お姉ちゃんじゃ体重足りないから」
確かに華奢で可愛い僕にはソファーは動かせないだろう。筋肉量が足りないからだ。今こうやって妹を見上げている僕がソファーを動かせるようになるには、筋肉ダルマになる必要がある。あのゴリのように。
「ほいっさっさー」
コードをテレビから外し、くるくると丸め、ビニールタイで纏める。こうしないと絡まってしようがない。戸棚を開けてその中に丁寧に置く。ある程度の耐久性が確保されていると言っても、決して安くない精密機器の塊。弟と二番目の兄と僕。三人で共同出資して購入した大切な財産だ。粗末には扱えない。
振り返ると妹は体重を生かしてソファーを押していた。するするとフローリングの床を滑っていく。その力、羨ましい限りだ。僕には真似が出来そうない。もっとも太る気も無い。僕は今の体形が気に入っている。自分から崩していく気はさらさらない。
ニコニコしながら見ていると、彼女は視線に気が付いたみたいだった。仕事が速い僕を見て、何か言うとしている。きっと尊敬の言葉だろう。当たり前だ。報酬ありと言えども、片付けを手伝ってやっているんだ。それも仕事を直ぐに終らせた。
これは評価されるべき事だ。
「見てないで手伝って! 馬鹿姉!」
口が再度あんぐりと空いた。
「ほら、報酬をくれてやろう」
妹は冷蔵庫からきんきんに冷えたペットボトルを二つ取りだし、片方を投げて寄越した。それを受けとると結露の滴がいくつか顔に飛び、冷たく濡れる。
袖で拭いつつソファーにどっかりと座り込み、キャップをひねる。
腕をすぼめて袖の中に入れる。二次元でいう所の萌え袖だ。現実でやると、身の丈にあった服も選べないのかと呆れ返られる奴だ。
そうやって手を保護してやらないと、末端が冷えてなかなか温まらない。
四月にもなって冷え性の真似事はさすがにきつい。
「あーらよいっしょー」
妹が隣に座る。完全にソファーに体を預け、脱力しきっている。質量の違いか、僕が座った時には大してへこまなかったソファーが大きくへこむ。可哀想にもスプリングが、きしっとか細い悲鳴を上げた。
余波を食らって、僕は妹の方へ大きく傾くことになる。そうへこんでいるのだ。好き好んで斜めに座りたい訳じゃない。
きっと前に測ったときより、大幅に体重が増えているのだろう。
「これ美味しい! どこで売ってた!?」
冷たく引き締まった酸味と甘みが口いっぱいに広がる。続いて炭酸独特のあの感覚も。少し口に含んでは飲み下す。炭酸は好きではあるけども、舌が痛いのには耐えられない。ラッパ飲み出来る人は尊敬する。
「普通にコンビニ。ペットボトルに書いてあるじゃん。というか知らなかったの? 本当に?」
妹はきょとんとした表情だ。二重顎が間抜けさを引き立たせる。
「まあね。コンビニ高いからあまり行かない。スーパーか自販機だね。ジュース買うなら」
まあそれもそうか、と妹は納得しながらヨーグルトの蓋を開ける。うまい具合に剥がせたみたいで、少しご満悦な様子だった。
対照的に僕の顔は曇る。ヨーグルトが酸っぱい臭いなのはよく知っている。昔から食べまくってきたから。風邪やらインフルエンザやら、病気の時には随分とお世話になった。
けれどもヨーグルトと言うのはここまで刺激臭がするものなのだろうか。
「ねえ、それ不味くない?」
「ヨーグルトは美味しい物」
そういう意味じゃないさと、僕は言う。そんなつまらないダジャレは聞きたくはない。
妹は小さいスプーンを突き立てる。突き立てられたヨーグルトはプレーンの物だ。本来純白で、よく上に甘酸っぱい汁が溜まっている。それが普通だ。断じて黄色く変色している物ではないと断言できる。特にこの商品では。
「食べない方が良いんじゃないかと、僕は思うなあ」
妹は僕を横目で見た後、ふっと笑った。腹が立つ笑いだった。
そしてぱくりと一口食べた。食べた瞬間動きが止まる。怒り、喜び、悲しみ。喜怒哀楽が抜け落ちた表情。そこには絶望も幸福も存在しなかった。まるで理性が抜け落ち、魂が消えた人形の様だった。
いいや。人形と表現するのは適切ではない。人形ならば、作り物にしろ何らかの表情がある。一見無表情に見えても少しはあるものだ。
しかし我が愛しの妹にはそれが無かった。表情と言うものが消え去った文字通りの無表情。
『空虚』
まさしく空虚だった。この二文字こそが彼女が僕に与える印象を説明しうる最良の単語だ。きっとこの文字だけでは、僕の印象を全て伝える事は出来ないのだろう。
きっとその単語が表現できるすべての範囲では、到底とらえきれないのだろう。しかし僕はこの『空虚』に頼るしかできないのだ。
文化人類学において、人間は言葉によって現実を創造すると言う学説がある。昔僕が読んだ本では、主流として扱われていた。本当かどうかは知らない。
見たモノをありのままに認識していた時代。全てのモノに呼び名が無かった時代。人間は全てのモノに呼び名を与える事で、言葉を作ることで、それ以降見たモノを言葉で定義するようになった。
認識したモノに名前が無い時代のカオスな空間を認識することが出来なくなった今の時代の人間。
その若者である僕には、言葉によって世界を認識し、なおかつ精神活動を行っている以上、先人が作ってくれた『空虚』と言う単語が内包している範囲以外は言葉に出来ないのだ。これは僕の語彙力の問題でもあり、言葉の問題でもある。
そもそも、それを表現する単語が存在しないのだから、余すことなく説明しようなんて土台無理な話だ。
「ねえ……杏? ちょと……吐け! 吐き出せ!」
僕が叫んだその瞬間。哀れな妹の喉が動いた。飲み込んだみたいだった。すっくと立ちあがり流し台へ。中身を捨て容器はゴミ箱へ。
「ひぃ!?」
動作はゆっくり。けれども進む速度はとても速い。そんな矛盾した行動で杏はソファーに戻ってくる。前にあるテーブルに置かれたペットボトルを手に取ると、それを勢いよくラッパ飲みした。目分量で半分程度。そこまで飲み切ると、長くて大きい。とても豪快なげっぷを一つ下。
僕の前を通り、リビングから出ていこうとする。
「どこに行く?」
「……萎えた。部屋に戻る」
力ない声だった。ただただ見送る事しか出来なかった。願わくば、彼女のお腹にひと時の平穏を。この後、戦乱が巻き起こる事を僕は予期していた。
「どちくしょー! スポーツドリンク持ってこい!」
「だから食べるなって言ったじゃん! バカー!」
時刻は五時。火種に着火してからきっかり一時間後。夕日に包まれた我が家は戦場となった。