43・温室です
温室の扉を開けると、花の香りが届いてきた。ガラス張りでドーム状の天井から僅かに出てきた陽の光が差し込み、水路に反射して煌めく。
目の前に広がる幻想的な世界に、なぜこんな場所がスチルに無かったのだろうとぼんやりと思った。
東庭園と西庭園はゲームにも出てきたが、温室はなかった。いや、そもそも三つも花の為の施設があること自体疑問だが、もうそこは貴族が通うところだからと言うことにしておこう。
近くのベンチに座って、そういえば何も持ってきてないことに気づく。暇つぶししようにも、これじゃあ何もできない。
寝ようかな、なんて情緒もない発想が浮かんできて、とりあえずぼんやりと景色を眺めることにした。
……やっぱり少し寝ようかな……。
うとうととしてきて、背もたれに寄りかかって楽な体勢に座り直し、目を閉じたところで。
「おや、先客ですか?珍しいですね」
「っイービン先生!?」
穏やかで低く落ち着く声色ですぐに気づき、ばっと起き上がる。先生にこんなところ見られるなんてとんだ失態だ。
慌てて笑顔を貼り付けて姿勢を正し、何事もなかったかのように返事を改めてする。
「おはようございます、イービン先生。お早いですね」
少し笑顔が引き攣っている気がするが、それはもう気にしないことにする。
イービン先生はきょとんとしたあと、穏やかな雰囲気を崩さずに笑い声を漏らした。
「ふふっ、そんなに固くならなくていいですよ。それより、寒くないですか?毛布持ってきますね」
改めて気にしてみると、確かに肌寒い。が、わざわざ先生に持ってきてもらうのもどうかと思うし、どこから持ってくるつもりなのかと思っていたら、近くの装飾が施された扉付きの棚を開けて持ってきた。え、そんなところに毛布あるの…!?
「はい、どうぞ。紅茶飲みますか?」
驚きでまともに反応できずカタコトでお礼をいいつつ毛布を受け取る。
イービン先生は手に持っているタンブラーを軽く振って小首を傾げる。そういう仕草は女子に簡単にしちゃいけません…!ときめくから…!
ちなみに、タンブラーはこの世界に存在するらしい。ティスト商会という商会と魔法研究院の共同制作で、タンブラーだけでなく前世で見たような道具を魔法で再現している。おそらくどちらかの団体に転生者がいるのではないかと思うが、あまり縁のない団体だしこの学園の人でもないなら協力を仰ぐのはさすがに気が引ける。
中世ヨーロッパ風の世界観なのにタンブラーがあるというシュールな空間になりつつあるが、実際暮らす上では便利だし特に文句もない。というかその調子でゲームとか作ってもらえたら感謝しかないんだけどな…。
「じゃあ、少しだけ頂いてもいいですか?」
どうやら温室の奥の方に食器棚やキッチンもあるみたいで、カップがあるならと思い、そう答える。
「分かりました。少しだけ待ってて下さい」
食器棚からカップを2つ取り出しタンブラーから紅茶を注ぎ、片方のカップを差し出される。
そっと受け取ると、カップから温もりが手に伝わってきて、自分の手が冷えていたことに今更気づいた。
「隣、失礼しても?」
「もちろんです」
生徒相手でもそうやって聞けるイービン先生の礼儀正しさに感動しつつ、少し端に寄って座り直す。
「いただきます」
一応もてなされている側なので先に飲もうと思い、一口飲んだ。
あれ、この味、どこかで知ってるような……。名前なんだったかな…?すごく、好きな味だ。
「すごく美味しいです。ありがとうございます」
「ならよかったです。ティスト商会のサンフラワーという紅茶なのですが、ご存知ですか?」
丁寧に名前まで教えてくれてありがとうございます。なんて、貴族も平民も王族も皆紅茶が好きなこの世界で、特に貴族は紅茶好きだというのに名前を忘れていただなんて言うのは恥かもしれないから口には出さないけど。
ちなみにフェルトも紅茶が好きで、飲み比べに付き合っていたら私も紅茶好きになっていた。とは言っても飲んだら名前が分かるほどではなく、名前を聞けば分かる程度だ。
サンフラワーも飲んだことがある。ティスト商会の紅茶は良いものが多くて、特にサンフラワーは割と好きな部類だった。ただ値が張るので飲み比べするときに遠慮していたからたまにしか飲んでいない。あとは、1回フェルトから誕生日プレゼントでもらったくらいだ。
サンフラワーの意味は陽の花。つまり向日葵。この紅茶もお日様のように暖かくてふわりと花の香りを漂わせている。ここで飲むにはぴったりの紅茶だ。
「はい、好きな紅茶です。ところで、先生はここによくいらっしゃるのですか?」
「そうですね、よく、というか、毎朝ここでこの紅茶を飲むのが日課です。朝の始まり、とも言うのでしょうか」
なんて素敵な日課ですか先生。イケメンで穏やかで気遣い上手で素敵な日課持ちとか、なぜ攻略対象じゃなかったんだと全ゲーマーが悔やむだろう人物だ。
「素敵ですね!」
「そうですか?ありがとうございます。…………もしよろしければ、シーグルトさんもまたいらしてください。朝早起きした日には、是非」
「いいんですか?私、毎朝早いですから、毎朝来てしまいますよ?」
冗談混じりにそう言うと、変わらず穏やかに微笑んで先生は言う。
「ええ、毎朝でも」
その笑顔があまりにもこの空間に溶け込んでいて、一瞬見とれてしまったのは秘密だ。
しばらく先生と談話して、気づいたら6時半すぎになっていた。
「そろそろ、寮に戻ります。朝食を食べなければいけないので」
「そうですか。もう少しお話したかったものですが、朝食なら仕方ありません。あ、そうだ。明日からはここで朝食を食べませんか?キッチンもあることですし」
「え、いいんですか?食材とかはどうしたら………」
「それくらいは私が用意しますよ。もし気が引けるようなら、前日の夜に寮の食堂で調達しておいて持ってくるのでもいいですし」
「じゃあ、食材持ってきます」
「ふふっ、そういうことを配慮できるのはいい事だと思いますよ。使用人をやっていた経験からでしょうか。あ、ミニッツ家の使用人だったことは担任なので事前に知らされているだけなので、ご安心を」
先生は満足そうにまた笑って、温室の入り口まで見送りをしてくれる。本当につくづくいい先生だと感動する。
「ありがとうございました。では、えっと、朝礼で」
「はい、朝礼で。あと、また明日」
温室から出て一度先生に礼をしてから、寮への帰り道を辿った。
こんな穏やかなものあったのかというくらい作中の昨夜とは大違いですね!←




