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2084年

作者: AKLO

 二日前に日干ししていた煙草を一本、箱から取ると、ゲオルグは電子ライターの発熱コイルに押しつけた。彼はうすく立ち上る煙を眺めながら、すこしばかり勘案していた。幾度も雨に降られて湿気りきっている上に、ここのところ湿度が高くカビが生えているかもしれない煙草だ。一朝一夕干して変わるものなのだろうか。水分の蒸発とともに失われた味わいは、戻ってくるはずもない。


 しかし、捨てようにもいまや煙草は貴重であったし、彼にとって大切な象徴でもあった。煙草を吸う間は何人たりとも彼を邪魔することはできない。神聖な――彼は信心深くないが――時間であり、あらゆるストレス、とくにここのところ増える一方の口うるさい女どもを、物理的にも精神的にも遠ざけるインセンスであった。分煙室の戸を閉め、誰に見せるでもなく紫煙を吐くことが、彼にとっての祈りであった。油ならぬ煙を注がれたものとして、彼は初めて自分が完成するような気さえした。


 自分が一度紙巻きに口をつけるたびに死が近づくということは、ゲオルグにも分かっていた。そう遠くない未来、素敵な肺癌を起こすだろう。世間で信奉されている統計自体に偽りはない。

だがそれを声高に主張する者は皆一様に、その前に死ぬ、ということは考えない。煙草で誤魔化すのをやめ、なにもかもが嫌になって、自分の力でうまくやりすごす事ができなくなったとき、というのが、肺癌より先に来たらどうだろう。ゲオルグはその「やりすごせなくなった」ときを想像した。薄汚い部屋で明滅する端末の前に椅子が転がり、蝿がたかった自分の体が腐汁を垂らして惨めに揺れる様を。自分の死体を片付けるのはきっと男だろう。空想の中の哀れな同胞に、ゲオルグは小さく謝った。

いよいよ彼は、湿気たタバコを銜えることを決めた。腐った顎で蛆を噛み潰すよりは、きっといい味がする。そんな気がした。



 労働とタバコは昔から仲が良い。ゲオルグは好まなかったが、勤務中でありながら喫煙する者が減らない理由、そしてそれが、この現代ですら厳密に禁止されない理由も、なんとなくわかる。煙草には、精神の辛さを無理矢理に殺す作用がある。悲嘆にくれて己の不憫に酔うための思考力を削ぎ落とすのだ。

二百年前のヨーロッパなどは特にそうだっただろう。労働者をこき使いたい炭鉱の主には、煙草を与えこそすれ取り上げる理由など無かったはずだ。その頃は女性も進んで吸っていたくらいだった。


 今では煙草も嗜好品だ。福祉二課、あのくそ忌々しい連中がせっせと働いているおかげで、銘柄もだいぶ減った。彼の好んで吸っていた「革命者」も、その哀れな犠牲のひとつだった。

二課の連中の仕事は、主に女性に対する奉仕活動だ。一課は老人への介護福祉で、それに次いで大きな問題だから、二課の仕事になっている。大きな問題か。ゲオルグは鼻で笑い、少し噎せて咳き込んだ。

現代の人間の男女比は、大分女性側に傾きつつある。多少個々の戦力が小さくても頭数が多い方が強いというのは、人間が黒曜石で戦っていた頃から変わらない原則だ。なのに二課が言うように女性は――二課風に言うと――「男性より利益配分がされにくい」のだそうだ。素直に体力や筋肉量が劣っている、と言わないのが二課風に喋るコツだ。奴らは二重思考と真実を煙に巻くのと、定時に帰ることだけは一級に上手い。あやかりたいものだ。

また、割合としては人口が多いくせに、労働に出る人口は――まあ一部を除いて――さほど多くなかった。かつては社会進出などと言ってせっせとタイプライターに向かっていたが、今では家で横臥して尻を掻きながら情報端末を眺める女の方が多い。二課の活動の成果が目覚ましいのか、生物として本来の汚らしい姿をあらわにしたのか、判断はつきかねるが。

無論、ゲオルグも、ステレオタイプでものごとを括る愚かしさは承知していた。おそらくは今でも、古き良き「職業婦人」は居るだろう。ゲオルグはつとめて冷静に考えるようにした。しかし数が少ない。そういった女性、知と健康を全身に湛えた彼女らは権力の上層に位置する。権力を握る人間は、そうでない人間より多くあることがあまりない。従ってそもそもの数が少ないのだった。


 ただ、二課だ。最悪なのは二課だった。二課の人間は働いているし、人数も多いが、実はそのどちらの人間でもない。第三の存在、と言うべきか。二課の初期の働きで肥えて豚になったものどもが、フィットネスとして働きだしたのだ。二課自体はもともとあったものだが、彼女らは自分の体を引き締めるためにそこに入ることで、さらに豚を増やし、豚が群がらせることで、どんどん肥大している。組織としては見事に成功していると言っていい。

二課に入れば、あとは、全国を行脚して出版物や嗜好品にケチをつける(二課的には「差し替え」を行う、と表現する)だの、女性給付金の実現などとお題目をつけて独りよがりな講演を行って脂肪を落とす。男の稼いだ金で付けた脂肪を。豚の方が食える分だけまだマシだ、とゲオルグは思った。


 かつては本当に、二課の言うような時代があったことは彼も理解していた。だからこそ、今こうやって権利を拡充する女性に対して同情を覚えなくはなかったし、できるだけ紳士的に接することを心がけたが、いかんせん自分たちの肩身が必要以上に狭くなっている、という感覚はある。

そもそも二課は、男女の平等、と吹聴しながら、「差し替え」に男の価値観が介在することはない。

「差し替え」、いや、もっと広義に言って、「二課的」価値観において優先されるものは「思う」「感じる」といった抽象的な観念だ。論理的な思考ではない。いかがわしい人物を見つけたら先にひっ捕らえて、その根拠は後でみみっちく過去の些細な事件を取り上げて大きく触れ回ることで作るのが、暗黙の了解となっている。

よく女性は思考より感情を優先する、というが、ゲオルグはこれと二課的な考え方にそれほど関連性はないと考えている。そういった部分があるにしても、女性は男性より知的能力において別段劣っているわけではない。権力の振るい方に対して冷静な人間は女性にもきっといることだろう。どちらかといえば、頭の悪い人間の方がより直情的になるという一般論を、彼は二課に適用すべきだと思っている。

二課に入る条件はかなり甘い。人を取り締まる立場にあり、またその倍率から考えて人材が選別されるべきところを、さほど躊躇せず採用している。おそらく、賢明な人間ならそうしないが、賢明になる前に質の悪い人材が流入したことで人事まで愚かになってしまったのだろう。

そう、二課は人材の選別を怠ったのだ。人間は確かに、資質によって差別されるべきでは無い。しかし愚かな人間が上に立てば、全体に不利益が出る。それは冷酷だが、厳然たる事実だ。動物的感情を強く押し出す愚か者が、人間社会の権力を得ればどうなるかというのを二課は体現している。さりとて感情をなおざりにして思考ばかりに熱中すると、要らぬことまで気をやって心を病む。今の自分だな、とゲオルグは自嘲した。しかし社会は果たしてそのように変質したのだ。女は驕慢に、男は卑屈に。


 ふと、ゲオルグは思い出した。そうやって「二課的」価値観によって変質したものの一つに、ポルノがある。

現代のポルノは、意外にも数を減らしていない。むしろ増えていると言っていい。ただ、収録されているそういった行為のシーンがたいてい「騎乗位」のものばかりになったのだ。昔その傾向の変化と二課の動きについて気づいた時、ゲオルグにはおかしくてたまらなかった。

そう、二課は、確かに獣欲に流されることを表向き否定した。表向きは。男優位の下卑た性欲は膠もなく蹴倒すが、実質的には規制しなかったのだ。要するに、自分たちもポルノ見たかったのだから。いまやカメラに映る時間は女より男のほうが長いことが、今の時代を象徴するような気がした。肥え太って陰毛が伸び放題の女優のそれより美しく、念入りに毛の手入れがされた男優の尻を思い出し、ゲオルグはたまらず煙を噴き出した。



 ゲオルグは己の腹筋が強張るのを噛み殺しながら、焦って辺りの様子を窺いつつ、もともと人がいないことを思い出した。気がつけば、最初に火をつけてから四本も吸っていた。もっと慎重に吸わねばなるまい。煙草にかかる税は上がり、ひと箱の内容量は減るばかりだ。

消臭ナノマシンを自身に吹きつけ分煙室を出ながら、ゲオルグは時計を見る。2084年10月25日21時38分。そろそろホームにリニアが来る時間だ。ナノマシンが眼に沁みる。

ゲオルグは、耐水コートに袖を通しながらこれから来る車両ーー重たい鉄の、流線形をした裁きの天使が、電磁レールを外れ、雨とともに駅の下の女性特区に無数に落ち、瓦礫と肉塊のオブジェを形作る、という想像をしてみた。それはきっとあの毛だらけの女優の尻に似ていることだろう。


 密かにニタつきながら、彼はホームの排除型――、「公共型」ベンチに腰掛けた。

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