第7話:不可能
その夜、俺が用事を済ませて帰ってくると、既に千影は帰って来ていた。
「おかえりなさい」
「……何をしてるんだ?」
俺の部屋の窓にはお札らしきものが貼られていた。
無数の白い手形が消えているのは彼女が消したからだろう。
いたるところに御札が貼られているのが気になる。
「神社でもらってきたの。これで大丈夫なはず」
「……そんな紙切れにどれほどの効果があるかは知らないが」
「信じる者は救われる?」
「信じてないだろ。余計に雰囲気が出て怖くなったのは気のせいではないはずだ。どうしてくれる?」
「何もないよりはマシでしょ?」
そして、彼女は俺の腕に数珠を巻いた。
「これは?」
「友達から聞いたの。数珠って身代わりになってくれることもあるんだって」
「ホントに?」
「霊感の強い友人はいつも数珠をしていたわ。それが切れた時、不運から身を守ってくれたって」
「……最後の最後は神頼みってね」
何でもいいから守ってくださいよ、神様。
俺はコンビニで買ってきた食事をテーブルに並べる。
「それで、慧は何をしてきたの?」
「いろいろと聞いてきた。例えば、この部屋の前の住人の話とか……」
「それじゃ、やっぱりここが呪われた物件だったの?」
「いや、一人暮らしをしていた男の人だったよ。俺がこの部屋に来る前に結婚することになって出て行ったらしい。つまり、この部屋はこの件には無関係だ」
その辺の事は近所の人達にも聞いていた。
だとするなら、俺達に関わるのはあの少女という事になる。
「それじゃ、慧が最後にその女の子に会ったから憑かれたってこと?」
「その可能性が一番高いと思ってる。ただ、あの子がそんなことをするとも思えないんだよな。良い子そうだったし」
生前、あの子が俺に何かしようとしていた気配はない。
執着心も、嫉妬心も何も感じられなかった。
『そこにいますか?』
それに、あの子は俺ではなく、別の誰かを想っていたようにも見えたんだ。
最後のあの子の視線は俺に向けられていなかった。
「俺にはどうもあの子が人に恨みを持っていたようには思えないんだ。あんなに可愛い子がそんな事をするはずもない」
通りすがりに挨拶する程度の関係だった。
綺麗な髪が風に揺れるその横顔に見惚れることはあっても、相手に対して嫌悪なんてしたこともない。
それに話をした時も悪い印象なんてひとつもなかった。
千影はお弁当の蓋を俺に投げつけてくる。
「あぶねぇ。ソースが顔につくところだっただろ」
「……なんとなく不愉快な気持ちになった」
「やめてくれ」
お前くらいは俺の味方のままでいてください。
「慧はそんなにその子が気になっている事が嫌だ」
「嫉妬心?」
「というか、幽霊に惹かれてる気がして嫌なのよ」
「憑りつかれてるとか言うな。怖いから」
だとしても、俺たちにはなすすべなんてない。
「それより、今日はどうする?」
「今日は慧の部屋に泊まっていくわ」
これまでふたりが離れている時にしか異常は起きていない。
「逆に二人一緒だと何も起きないのではないか?」
「もしくは最終決戦かもね」
「……もしもの事があればお前だけでも逃げてくれよ?」
「うん」
俺達は言葉少なめに食事を取ると、そのまま夜に備える。
その時から異変は既に起きていた。
「……っ……」
どこからともなく感じる視線。
それは……獣が獲物を狙う視線にも似ていた。
夜になっても寝る寸前までは何一つ変化はなくて。
俺達はテレビを消してそのまま寝てしまう事にする。
「……私、怖い」
言葉短めに千影は俺に話す。
「いいから寝ろ。無事に明日を迎えられることを祈りながらな」
「ねぇ、慧」
「なんだ?」
「……部屋中に御札を張ったせいで、雰囲気が出た怖くて寝れない」
「それはお前のせいだからな!?」
自業自得です、可愛いやつめ。
恐怖とは目に見えないものを怯える事だ。
怖いと思う心が更なる恐怖を招いてしまう。
悪循環を止められない。
ベッドに寝転がりながら、何がいるわけでもない天井を眺めていた。
電気はつけっ放しで寝る事にする。
暗闇は視覚的恐怖を倍増させる。
目に見えないことが恐怖ならそれを抑えてしまえばいい。
「……おやすみ」
瞳を瞑ってしまう千影。
俺もゆっくりと目を閉じて、眠りについた。
どれくらいの時間が過ぎただろうか、俺はハッと目が覚めた。
時計を見ると深夜の1時過ぎ。
静まり返る室内につけっ放しの明かり――。
「……雨?」
ザーッとという雨の降りしきる音。
違う、それはテレビの方から聞こえていた。
俺が身体を起こそうとすると、千影の姿がない。
「千影?」
トイレにでも行ったのだろうか。
俺は気になってベッドから起き上がり、眠い目を擦りつつ、リビングに入る。
「……」
無言でソファーに座りながらテレビを見ている千影がそこにいた。
「……」
テレビは砂嵐と呼ばれる状態で何も映像を映していない。
俺が雨の音だと思ったのはこの音だったのか。
「何をしているんだ、千影?」
電気は消えたままの室内にぼんやりとしたテレビの光だけが照らしている。
こちらの部屋の電気もつけていたはずなのに……。
俺が彼女の肩にそっと触れようとした時、
「……愛してくれる?私を愛して欲しいの」
俺の伸ばした手をぎゅっと掴んだ千影。
もう離さないというばかりに力を込めてくる。
「なっ……!?」
「私は愛されたいだけ。貴方に愛して欲しいの」
「ちか……げ……くっ!?」
「愛して、あいして、アイシテ……――」
愛してと連呼し続ける千影。
その瞳には生気がなく、ただの操り人形のように言葉を繰り返す。
「どうした? 千影、おいっ。しっかりしろ、千影っ!」
俺が彼女の身体を揺らすと、ハッと目を覚ますように彼女は意識を取り戻す。
「え? な、何なの? 今の……?」
「正気に戻ったか? 大丈夫か?」
「……うん。身体がボーっとして、何か分からないけど、気持ち悪いくらいに寂しくなって……痛い、心が痛いの……」
「大丈夫だ、千影……もう大丈夫だから」
俺は千影を抱きしめて、落ち着かせる。
これ以上、ここにいてはいけない。
……俺に本能が警告する。
その時、テレビの電源がいきなり消えてフッと暗闇になってしまう。
「……え?」
「ここを出るぞ……」
マズイ、その直感のままに俺は千影の手を引いて玄関へと飛び出す。
「け、慧……」
「いいから、ここから逃げるんだ。マズイ……」
扉を開けようとドアのぶを回す。
ガチャガチャ、と何度回しても開かない。
「……おかしい、扉が開かない?」
「どうして!?」
「知るかよっ。ちっ、何で……」
鍵は開いてる、開かない理由が分からない。
「何で開けられないんだ!?」
「体当たりすれば?」
「くっ。そんなんじゃ無理だ」
まるで外から誰かが押さえつけてるようにしっかりと固定されている。
ここが脱出するのは不可能だ、そう言うように。
「だったら、窓から……?」
「……きゃっ!?」
千影が窓辺を指差して叫ぶ。
……ダメだ、振り返ってはいけない。
俺は身体が震え上がりながら、後ろを振り返る。
――見てはいけない。
窓を何度も、何度も激しく叩きつける手が見えた。
――見てはいけない。
それは髪の長い女性の姿をしていた。
――見てはいけない。
その顔は色白く、憎しみという感情そのモノを表した形相だった。
「……ぁっ……」
俺と千影は恐怖で何も言葉を放てない。
震えの止まらない足を両手で押さえ込むのが精一杯だ。
――ガシャーン。
お札が貼られた窓が呆気なく叩き割られる。
散らばるガラスの破片。
そして、部屋へと“女性”は侵入してきたのだ。
「……アイシテ……ワタシヲアイシテ……」
もう、俺達は……逃げられない――。