第5話:戸惑い
踏切から戻り、俺は自分の部屋へと帰ってきた。
「寝るか……」
俺がベッドに横になると、今度はドアを叩く音が聞こえた。
「誰だ?」
深夜の2時、こんな時間に俺の部屋を訪れるなんて。
俺がドアを開けるとその前に立っていたのは……。
「千影? どうした、こんな時間に……?」
「……」
なぜ、千影がこんな時間に俺の部屋へ?
肩は軽く雨に濡れているようだ。
傘も差さずにここに来たらしい。
「何をしてる。ほら、早く部屋に入れ」
「……」
彼女は無言のまま俺の部屋と入り込む。
――それが“招かれざる客”だとは俺はまだ気づいていない。
彼女を招き入れて俺はタオルを取りだす。
「さっきまであんなに辛そうだったのに大丈夫だったのか? ……千影?」
無表情で彼女は頷くとタオルで服を拭う。
「……ねぇ、慧。私と初めて出会った日の事を覚えてる?」
電気をつけようとした俺の手をそっと触れて止める。
「覚えてるよ。大学に入ってすぐの合コンでお互いに一目惚れして……」
初めて会った時の合コンはあまり乗り気じゃなかった。
それは向こうも同じ、さっさと帰りたいと思ってた。
「ふたりの住んでいる場所が近い事を知り、話が弾んで……気がつけば好きになっていた。そして、数回のデートを重ねて俺から告白したんだ」
気が強くて、でも、意外に可愛くて……。
俺は千影にのめり込むように惚れた。
愛すれば愛するほど、彼女はその愛情に応えてくれる。
「あぁ……愛されてるんだ。本当に愛されてるんだ」
「……千影、何を言ってるんだ?」
「いいね。羨ましいね、愛されている人は……」
最初、彼女が何を言ってるのか分からなかった。
「私も愛されたかったな。こんなにもお互いを必要として欲しかったなぁ」
千影はうつろな瞳で俺に語りかける。
愛されたい。
そう叫ぶ彼女の姿に俺は動揺するしかない。
「俺はお前を愛してる」
「嘘つき。あの女と一緒にいたのを見たの。あの女と寝たんでしょう?」
「……あの女?」
血の気の引くような光景だった。
窓を叩く雨の音、薄闇の中で微笑む千影の姿。
「――裏切り者」
それは千影の姿をした、千影ではない存在。
「私を捨てて、他の女を選ぶなんて……。私の事を愛してるって言ったくせに。だから、私は……貴方に全てを任せたのに」
喉がカラカラと渇いていく……どうして?
どうしてそんな事を言うんだよ?
「絶対に許せない。……許さない、許さない、許さない」
彼女は俺の首に手をかけると、布団に押し倒す。
「許さない、許さない、許さない、許さない……」
何て力だ、女性の物とは思えない。
「ぐっ……あっ……」
そのまま俺の首を絞める千影、すごい力で俺は引き離せない。
「私の人生を狂わせて……自分は他の女と楽しく遊んで……ひどいよ」
「……ち、ちが……う……」
苦しい。
苦しい。
苦しい……。
首が引きちぎられるほどの痛みを味わいながら、俺は必死にもがく。
「ぐぅっ……あぐっ……やめろ……!」
「私……貴方のことが大好きだったよ」
徐々に絞まっていく。
ダメだ、呼吸ができない。
息を吐くのも辛い、擦れていく声。
「殺してあげる。……だって、私は……貴方のせいで……」
彼女は妖艶な笑みを俺に見せつけて微笑んだ。
「――死んだのだから」
ゾクッとした感覚が背中を駆け抜けていく。
……青白い顔色に身体が震えた。
俺に微笑みを見せたのは千影じゃなかった。
「あははっ……貴方も死んで、私のために――」
寂しそうに笑う女の子に俺は絶望する。
どうしてキミがそこにいるんだ……。
「うわぁあああああああああ!!」
……意識がまどろみへと飲み込まれて消えていく。
視界はやがて闇に消え、俺は……。
「……い……起きてよ、慧……」
チュンとスズメの鳴く声に俺は目を覚ました。
……思わず首を押さえてしまう。
大丈夫だ、俺は生きている。
あの出来事は……夢だったのか?
既にうろ覚えでしかない記憶をたどる。
「そうだ、千影……」
辺りをうかがうと、俺の顔を不思議そうに眺める千影がいた。
「何で千影がここに……?」
「何でって。慧が呼んだんだよ。私にいきなり、電話で助けてくれって。悪い夢でも見ていたの?……すごい汗だし……何それ?」
彼女がそっと俺の首筋に触れる。
「痛くない?アザになってるわよ?」
「……え?」
俺はベッドから下りてトイレの鏡を見る。
そこに映る俺の顔。
その首には紫色に変色したアザが残されていた。
「……夢じゃなかった?」
殺す、と叫んだあの少女の顔を思い出して俺は震えた。
憎悪、愛憎というべきか……。
「何があったの? 今朝の電話だって様子がおかしかったし」
「電話……ちょっと待て。俺は電話なんてかけてない」
「また? 嘘でしょ……だって、私は聞いたよ。貴方の声ですぐに来てくれって」
ガタンっと大きな音が窓の方からする。
俺たちはハッとして急いで窓を見た。
閉まったカーテンを開けた俺達の前にあったのは……。
「……きゃっ!?」
カーテンを開いた向こう側。
手、手、手。
窓には昨日よりも多くの手形がつけられていた。
もがき苦しんだように、助けを求めるように。
何度もその窓を叩き付けたように。
――その手形はつけられていたんだ。
「何なんだよ……一体、何が起きてるんだよっ!」
俺は恐怖を感じて叫ぶしかなかったんだ。
もう既に俺達はとんでもない事に巻き込まれていた。