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第1話:変化

 4階建てアパートの2階に俺の部屋がある。

 学生向けのアパートで、ところどころが老朽化でボロい。

 管理人とすれ違い、挨拶を交わして階段を上がる。

 部屋の扉を開けると女物の靴が玄関に置かれていた。


「……ただいま」

「おかえりっ。じゃないでしょ、慧」

「何だよ、いきなり怒るな」

「買い物ひとつにどれだけ時間をかけてるの?」


 俺にムッとした表情を見せる女。

 恋人で沢近千影(さわちか ちかげ)と言う。

 髪型は茶髪のショート、顔は美人系ではなく可愛い系の女の子。

 同じ大学の同級生で大学1年の春に知り合い、それ以来の付き合いだ。


「はぁ、スーパーで大根ひとつ買うこともできないの?」

「いや、逆を言えば俺に大根ひとつを買いに行かせるお前が悪い。スーパーなんて滅多に行かないからよくわかんなくてさ」

「しょうがないじゃん、せっかく、おろし蕎麦にしようとしたら大根を買い忘れてきたんだから。ほら、そんな所で立ってないで大根をすりおろして」


 恋愛主導権は俺が握ってるが普段の主導権はあちらが強い。

 

「しょうがないなぁ」


 気が強いタイプの彼女に逆らうのもアレなので、俺は仕方なく大根をすりおろす。

 俺達はまだ同棲しているわけじゃない。

 千影は近くのアパートに住んでおり、たまに食事を作ってくれるのだ。


「……そういや、今日の夜は雨が降るんだとさ」

「帰りはちゃんと私を家まで送ってよね」

「分かってるよ。まぁ、お前を襲う変態もいないだろうが」

「うるさいなぁ。そんな事を言う暇があったら手を動かしてよ」


 数日前に変質者が近所に現れたらしく、さすがの彼女も警戒している。

 最近はどちらかの家で寝泊りする事も多い。

 大事な恋人だ、何だかんだいいいながらも守ってやりたい。


「ほら、おろし終ったぞ」

「んー、フレッシュな大根の香り。おろし蕎麦はこれがないとねぇ」


 大根をすりおろすと、既に調理を終えた料理がテーブルに並んでいた。

 今日は大根おろしをのせた蕎麦と魚の塩焼きという和食中心のメニューだ。


「いただきます」


 俺達が食事を始めていると、千影は今日の出来事を俺に話す。


「ねぇ、聞いた? 丸岡教授、生徒に手を出そうとしたって話」

「知ってるよ。しかも、相手は男だぞ。童顔系の可愛い系男子だとさぁ」

「……なんでそっちに。世の中、変態趣味が多いわ。ホント、悲しいね」

「俺を見るな。俺は女装系男子にも興味ないっての。ノーマルだ、ノーマル」

「先日部屋を整理していたら、女装系男子のエロ漫画が出てきたのだけど? これに関しての言い訳はあるのかしら?」

「……すみませんでした。可愛い女子の表紙につられて買ったら、まさかの女装系男子だったんだ。俺も被害者です」


 あのエロ本は地雷だったんだ。

 俺もショックだったので触れないでくれ。

 こうしてのんびりと食事をしている時間が結構好きだ。

 時刻は夜の7時半を過ぎた頃。

 ふたりでソファーに座りながらテレビを見ていた。


「……そろそろ、帰ろうかな」

「分かった。それじゃ送っていくよ」

「うんっ。よろしくね」


 千影を家に送ろうとふたりが立ち上がった瞬間。


――キィイィーン。


 刹那、大きなブレーキ音が外で鳴り響いた。

 そして、女性の叫び声のようなものも……。


「え? な、何なの!?」


 その異質な音に驚いた千影が俺に尋ねてくる。

 俺はと言えば、何度も聞きなれたその音に溜息をついていた。


「……またかよ」


 このアパートは駅からも近いし、大学までの距離も近いので物件としていい。

 だが、線路が窓の真下にあるために電車の通る音や振動がうるさいのが難だ。

 そして、よく言う“人身事故”というのもこの付近で起きている。

 俺が大学に入学してから5、6回はそのような事件が起きていた。

 人通りの少ない踏み切りが近くにあるせいだ。


「何なのよ、もう……?」


 俺が語ろうとしないのに業を煮やした彼女は窓を開けて外を確認しようとする。


「やめておけ、千影。気持ち悪いだけだ」

「何が? はっきり言いなさいよ、男なら……」


 俺の忠告を無視して、彼女は窓を開けて外を覗き込んだ。


「……きゃっ!?」


 夕闇の線路に広がるのは一面赤く染まった血だまり。

 かつて、人だったもののなれの果て。

 目を覆いたくなる悪夢。


「な、何よ、これは……」


 現実離れした惨状を目の当たりにして叫ぶ。

 当然さ、それが平常の反応だ。

 ……俺のように嫌な意味で慣れていなければね。

 彼女は顔を青ざめさせながら俺に抱きついてくる。

 見てはいけないものを見たんだろう。


「だから見るなって言ったのに。……見たのか?」

「ち、血が……止まってた電車に赤い血がべったりとついてた」


 ガタガタと震える声でそう囁く彼女。

 俺は怯えて泣きそうな彼女を落ち着かせようとする。


「それだけでよかったな。俺は以前、数分前まで人だったモノを見たことがあるよ」


 アパートの敷地に人の頭の一部が飛んできたこともある。

 無残な末路だ。


「うぅっ……怖いよ、慧。あれ、何なの?」

「人身事故、いわゆる電車への飛込み自殺だ。この近くは踏み切りがある、そこでたまに自殺する人間がいるのさ。……ホント、近所迷惑な話だよ」


 パトカーのサイレンの音と人の声で外は騒がしくなっている。

 俺はといえば、嫌な慣れで特に驚く事もない。

 最初の頃は気持ち悪さと動揺で眠れない事もあったが。


「週末になるとよくあるんだよな。こういうのってさ」

「慧は慣れてるのね」

「嫌でも慣れるよ。知ってるか。人が引かれた時には声にならない声が……」

「やめて!?」


 すぐに窓とカーテンを閉めて、外の音を遮断する。


「冗談だ。ほら、家まで送るから、そろそろ行くぞ」

「ふぇっ。慧、今日は私の部屋に来てよ。泊まっていってくれなきゃ嫌だ」


 よほどあの光景が気持ち悪かったんだろう。

 さすがの千影もげんなりとしている。

 肩を震わせる恋人を無視することなんて俺はしない。


「分かったよ。そんなに俺に甘えたいなら甘えさせてやる」

「バカぁ……そんな状況じゃないの分かってるくせに」

「冗談だ。ほら、行くぞ」


 彼女の手を引いて、俺は自室を出て行く事にした。

 外に出るとやはり人々が集まっていて騒々しい。

 人身事故の遺体は言葉で説明したくないほどひどい。

 “それ”を“拾い”集めなくちゃいけない警察や電車関係の人の苦労が目に浮かぶ。

 少し落ち着いたのか千影は線路側に集まっていく人々を眺めて言う。


「……どうして、飛び込み自殺なんてするんだろうね」

「さぁな。俺にはそんな奴の気持ちは分からんよ。人身事故なんて起こしたら遺族にも多大な迷惑がかかるっていう事を知らないのか」


 電車を止めたことによる賠償金だけじゃない、遺体も無残な姿になる。


「そういう意味じゃないよ。私が言いたいのは……命のお話」

「生きたいと思う人間もいれば死にたいと思う人間もいる、人それぞれの事情がある。俺達にはその事情は分からないだろ」


 俺はそのまま彼女をアパートまで送り、一夜を過ごすことにした。

 




 翌日、大学の資料を取りに家によった俺はカーテンを開けた。

 窓から見ろした電車のレールには何も残されていない。

 すでに全てが片付けられた後だった。

 昨日、悲惨な出来事があった現場には思えない。

 きっと夜通し、彼らが作業していたんだろうな……お疲れ様です。


「……ん?」


 俺はふと窓についた汚れに目が行った。

 それはこれからの出来事を暗示するかのような出来事。


「これは……」


 窓の下の方にははっきりとした“人の手形”がついていたのだ。

 判子のように押し付けた感じで、気持ち悪いくらいはっきりとした手形。


「千影がつけたのか……?」


 アイツが昨日、見た時につけたのだろう。

 昨日の夜は終始、びびりまくっていた。


「それを可愛いと思ってしまう俺は少し意地悪だな」


 本気で怖がって、昨日は抱き付いて離れてくれなかったぜ。

 ……あの後、めっちゃ甘えられた。


「それはさておき、なんか気持ち悪いから拭いていこう」


 俺は雑巾でその手形を拭うと、これが中々消えてくれない。


「アイツ、どれだけの力で押し付けたんだよ。消えやしない」


 力を入れて擦るように拭うとようやく跡は消えた。


「よしっ、綺麗になった」


 雑巾を元の場所に戻すと、俺は大学の準備をして、部屋から出て行く。

 扉を閉めた瞬間、俺は後ろ髪を引かれるように立ち止まった。


「……?」


 何かの視線を感じたのだ。


「気のせいか?」


 昨日の出来事は少なからず俺にも影響を与えていたらしい。


「まぁ、いいや。さっさと行こう」


 あまり深く考えないのが俺の性格だ。

 鞄を持って、部屋の前から歩き出す。

 

「それにしても暑いな。水分補給をしないと、大学に行くまでに倒れるぜ」


 のん気にそんな事を呟いていた。


「……そういや、昨日の事故ってどんな人が亡くなったんだろうな」


 俺はまだ知らない、これから起きる出来事を。

 狂気に満ちた“覚めない夢”の始まりを――。



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