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 灰色、それから湿り気。

 彼らは地下にいる。暗く深い地下鉄のホームにいる。コンクリートと、悪意のないカビと、黄ばんだ電灯のカバーがある。赤と青で描かれたポスターがある。重い布のような深い暗闇を持ったトンネルがある。ホームよりも低いところに敷かれた電車のレールは、別世界のように遠い。天井のことはわからない。誰も見上げたりしないからだ。いずれにしても、冷たいつららが濡れ光ることも、虫がうごめているということも無い。誰も知らなくても、コンクリートの冷たい灰色があるはずだった。電車が来るたびにまばらに人が降りた。彼らは目的地にやってきたようにも見えたし、たった今帰って来たようにも見えた。彼らは灰色の背景に色彩をもたらし、代わる代わる交差しながらランダムに景色を彩った。駅員がホームの端に溜まった吸殻を片付けていた。ミカはベンチに腰掛けたり、自販機のジュースを眺めたりする。

 エスカレーターが持つ強制力。ステンレスの中の伸びた光。

 ミカはベンチに腰掛ける。テツオも横に腰掛ける。埃まみれの華奢なベンチ。風があった。汚れた温い風が。それでも心地良かった。ミカは立ち上がり、壁に貼られたポスターが剥がれていることに気づく。彼女はポスターの角を壁に押し付けて元に戻そうとするが、失われた粘着力は戻らない。ポスターはだらりと垂れて、女優の左目を覆い隠す。

 「それで?」テツオが言う。

 「それでおしまい。突然に」

 「そんなはずはないね、納得いかないよ」

 「だからこそ良いと、バルザックは考えているんじゃない?」

 「僕にはわからないね」

 ミカは自販機の前に行く。テツオはそれを眺めている。彼女は身の収めどころを探しているみたいだった。コンクリートの中に、あるいは自販機のおつりの中に。ベンチの上に。どこかに自分と同じ型の穴が空いていて、綺麗に収まると思っているみたいに。彼女は自販機に並ぶジュースの本数を数えた。それは時間を数えるのと同じだった。現在を味わうための、こっそりとした作業だったのだ。彼女は再びベンチの前にやってきて、腰掛ける。

 「お母さんは?」

 「元気してるわよ」

 「どの程度に?」

 「少なくとも悪夢にならないくらいに」

 「遊園地の行進する動物みたいには?」

 二人は外へ出る。ビルの間を歩いている。

 「男女の」ミカが言う。「男女の関係が永遠に続くとは思っていないのよ。少なくとも、同性同士のようには。なぜなら、男女を結びつける最も大きな要素は性欲だからよ。少なくとも若いうちは。結婚とは一種の賭けなのよ。彼らは性欲に導かれて契約を交わすけど、後になって二人の関係を決定づけるのは別の要素だからだわ。多くの人はその要素のことを結婚前に想定したりしない。そこに不幸があるのね」

 「君が思っているほどみんなは馬鹿じゃないよ」

 「私は」ミカが言う。「私は嫌なのよ。いっときの気の迷いから、一生を棒に振るのは」

 「そうして棒に振った一生に家庭的な幸せがあるのかも知れないよ」

 「かも知れないわね」

 虫の行進。電車の音。車の音。

 それから彼女たちの話し声。昔はそこに電柱があった。てっぺんから伸びる電線も。今はすっきりと空が見えている。曇り空と、流れの早い灰色の雲が。ビルに足場を組んで作業をしている人々がいる。黄色い服を誰もがまとい、同じ方向を向いている。彼らのうちの老けた一人の男が鳥の声を真似て鳴いた。

 「まるでカラスみたいだ!」

 「黄色いカラスがいるもんか!」

 「カァー!」

 黄色い彼らはビルの向こうの灰色の空を眺めていた。

 誰もいない砂利だらけの作業場の大きなクレーン車の前までやってきたときに、ミカが言った。

 「選ぶんだったら、ケイコにして。あの子は少し太っているけれど、可愛らしいし、なにより素直だわ」

 「誰かの代わりに誰かに恋は出来ないよ」

 「それもそうね」

 「君じゃなくっちゃ」

 「幸せになったらおしまいなのよ」

 「どうして?」

 「そういう関係で出来ているのよ」

 「ケイコと君は?」

 「そう」

 「それは誰もが抱く、未経験に対する不安だよ。実際に経験すれば大したことじゃないって君もわかるさ」

 「そうじゃないのよ」ミカが言った。「そうじゃないの。私が誰かと付き合ったり、結婚でもなんてしたら、きっと私とケイコの関係は終わるのよ。幸せになったりなんかしたらね」

 「幸せになることで、君はより不幸になるって言ってるように聞こえるけど」

 「そうね」彼女は言った。それから少し考えてから言った。「けど、そうなのよ」

 彼女はつま先でクレーン車を蹴った。赤い靴に砂埃が付いて彼女は後悔した。それから、じゃあねと言って歩き始めた。大きな作業場があった。灰色の四角い巨大なボックスが。誰もいなかった。足元は砂利と砂で出来ていて、遠くまで埃っぽく続いていた。彼女はおおまたで、ぎこちなく歩いた。彼が見ているのがわかったからだ。道は無かった。草の生えた土手があった。その先も道らしきものは無かった。小さな作業車の通った車輪の後があるだけだった。彼女の姿は長いこと見えた。本当に、何も無かったからだ。とても静かだった。空間の広さが、そのまま静けさそのものみたいな。真空に保存されたみたいな。やがて、何かの音が聞こえ始め、世界に対する意識が戻るだろう。不透明で、息苦しい。出口の無い、パックされた。保存され、長く姿を保つための。

 

 

 

 

 

 






 

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