07
ミカが目を覚ました時、そのドアを開けたのはテツオだった。ミカは身体を起こしてテツオを見た。彼は薄暗い中に一人で立っていた。彼は照れているように見えた。あるいは、自分の行為に困惑しているように。彼は何も言わずミカを見つめた。そしてミカが何かを言い出すのを待っていた。
「ケイコが来ると思ったわ」ミカが言った。
「僕もそう思ったよ」
彼は笑った。それから、手を差し伸べた。彼の手は柔らかく湿っていた。二人は薄暗いトイレから出ると、園内へ戻った。もう夜だった。星が出ていた。本物の空にある、本物の星が。どれほどプラスチックや園内の照明に阻まれようと、決して損なわれない真実が。
「急がないと」ミカが言った。
「どうして?」
「母が家にいるのよ。私を待っているのよ」
出口に向かう途中、ひどい人ごみにぶつかった。夜のパレードが始まっていた。多くの光があった。主役を照らす光、店頭のライト、人々のカメラのフラッシュ、地面に光が反射し、人々はみんな同じ方を向いていた。涼しい風が吹いていた。パレードの帯に向かって人々が集まり出す群れの間を、二人は走っていた。人々は吸い寄せられるように、あるいは魂が抜けたみたいに、虚ろに歩いた。騒がしい音楽の中で、テツオがミカに向かって叫んだ。君は遊園地が嫌いなんだろう?僕は知っているんだよ。彼は汗をかき始めていた。前髪が濡れて滴が落ちかけていた。
「偽物が嫌いなのよ」
ミカは振り返らずに言った。それからパレードの中心を見た。行進する動物、光の群れ、存在しない目的。彼らは行進するために行進するのよ、とミカは胸の中で言った。そして二人は外に出て、テツオの車に乗り込んだ。
「誰もパレードから逃れられないわ」
「どうして?」
「パレードこそが現代を動かしているからよ」
「僕は嫌いじゃないけど」
「気に病む必要は無いわ」
「気に病む必要があるみたいな言い方だね」
彼らは遊園地を離れ、都会の道をミカの家へ向けて走った。過ぎていくビル群があった。暗い車内でタバコを吸うサラリーマンの顔があった。川を越える巨大な橋から遊園地の明かりが見えた。暗闇に浮かぶ、濃く青い光が。
「どうして?」ミカが言う。
「なにが?」
「どうして私を見つけられたの?」
「探していたからだよ」
「アケミはなんて言ってたの?」
「先に帰ったって言ってたよ」
「どうして信用しなかったの?」
「彼女が信用出来たことなんてほとんど無いじゃないか」
「私、眠っていたのよ」ミカが言う。「深い眠りだったわ。自分の内面に深く潜るような、そのくらい深い眠りだった。夢の中で私が何を見たかわかる?」
「着ぐるみじゃないかな、動物の」
少し考えてからミカが言った。「どうして?」
「夢に見るくらい、遊園地の動物が嫌いなんだろう?」
ミカは笑った。それから言った。
「そんな話し方するのね」
「本当はとてもフランクなんだよ」
「私が見たのは光よ、テレビの光。自分が深い暗闇の中にいて、テレビの白い光だけが見えるのよ。明りは強くなったり、弱くなったりする。ほかになんの手がかりもない。自分がどこにいるのか、何をしているのか。身体がどこにあるかもわからずに、宙に浮くみたいに私はいる。多分、その時の私は存在さえしていないんだわ。ただ、明りがあることだけがわかるの。四角い枠の中から発せられる無邪気な光だけが。もしも自分が存在していることもわからずに、深い暗闇の中にいたとしたら、きっと誰もが光を探すのよ。そして手を伸ばさずにいられない。例え、その光がどんなに好みじゃなかったとしてもね。誰がそれを責められるかしら?」
誰にも責められない、とテツオが言った。
車は、途中でガソリンスタンドに寄った。空が曇り始めていた。スタンドは無人で、テツオが車から降りて自分で給油した。静かだった。誰もいなかった。薄暗い店内の自販機は、明りが消してあった。給油口にかけられた雑巾はまだ濡れていた。テツオが外にある自販機からオレンジジュースを買ってミカに渡すと、彼女は曇りについて話した。
雲は次第に増えた。いつの間にか空一面に満ちていた。
「急がなくちゃ」ミカが言った。
二人がミカの家に着く頃には、時間は10時近かった。二人は何度も車内のデジタル時計を見た。緑色の、意味深な光。ミカの家の前までやってくると、ミカの母が玄関に立っているのが見えた。彼女は途方にくれた表情をして、両手の指の先を握っていた。彼女は玄関のぼんやりとした明りに照らされていた。小さな虫が光に群れていた。ミカが近くまで行くと彼女は言った。
「何時だと思っているのよ」
母はミカの胸に顔をうずめて、同じ言葉を繰り返した。ミカの胸元は暖かく湿った。
「何時なのよ、今は、あなたは」
母は再び言った。ミカが考えていたよりもずっと、彼女の母は理性的だった。もしかしたら、昼間そうであるように今も理性が彼女を支配しているのかも知れない。母の言葉はどちらとも取りかねた。感情の乱れにも見えたし、痴呆の症状にも見えたのだ。母は中間にいるのかも知れない、とミカは考えた。母は言葉があらゆるものを表現出来るとという幻想を打ち砕くために、状態と状態の中間にいるのだ。どちらにしても、母は本音を話しているように見えた。彼女は次第に幼児化するように思われた。顔はより深く胸に沈み、ミカの背中に当てられた手は、より強くミカを抱き始めていた。言葉は分散した。意味を取りそこね、それぞれに飛び火した。
ミカの胸ではあらゆるものが放射線状に拡散する。母の涙と、状態と、それから状態と状態の中間から来る、無意味だが本音が。
彼女の身体は小さく収縮しつつあると、ミカは感じた。